リバース・エイジ・クライシス:世にも奇妙な若返り
「逆井先生!この度の『クロス・シティ・タワー』、素晴らしい建築です!まさに先生の最高傑作ですね!」
熱っぽい声で話しかけてきたのは、業界紙の記者だった。眩しいフラッシュが焚かれ、逆井渉、三十五歳は、慣れた仕草で完璧な笑顔を向けた。
「ありがとうございます。ですが、最高傑作かどうかは、これから時間が証明してくれるでしょう。建築は、完成してからが始まりですから」
そつなく、そして少し含みを持たせた答え。記者は満足そうに頷いている。周囲からは、称賛と羨望の視線が絶え間なく注がれていた。超高層タワーの完成披露パーティー会場は、成功の熱気に満ち満ちていた。彼が率いる中堅設計事務所「アーク・アーキテクツ」は、このプロジェクトによって一躍、業界のトップランナーに躍り出たのだ。
「渉さん、おめでとう」
ふわりと優しい香りがして、妻の由美が隣に立った。美しいドレス姿の彼女は、誇らしげに渉を見上げている。
「ああ、由美。君のおかげでもある。いつも支えてくれて感謝してるよ」
渉は、周囲に見せるためのような口調で言った。由美は一瞬、その言葉に何かを探るような表情を見せたが、すぐに微笑みに変えた。
「ううん、あなたの頑張りよ。本当に……すごいわ」
「まあな。これくらいで満足する俺じゃないが」
渉はシャンパングラスを軽く掲げ、自信に満ちた目で会場を見渡した。五歳の娘、咲は、少し離れたキッズスペースで、他の子供たちと無邪気にはしゃいでいる。完璧な成功、完璧な家庭。すべてが自分の手の中にある。そう、渉は確信していた。
(だが……)
ふと、グラスを持つ手が微かに震えていることに気づく。高揚感のせいか?それとも、心の奥底で燻る、名状しがたい不安のせいか?
(何を馬鹿な……疲れているんだ)
彼はその感覚を無理やり押し殺し、再び完璧な建築家の仮面を被った。
◇◇◇
パーティーの喧騒が嘘のような深夜の自宅。書斎のデスクライトだけが、渉の手元を照らしている。壁一面に貼られたタワーの設計図、写真、完成予想CG。どれもが彼の才能と努力の証だ。しかし、今はその一つ一つが、妙に色褪せて見えた。
(本当に、これで良かったのか……?)
自問自答する声が、静寂の中で響く。もっと斬新なアプローチがあったのではないか? 安全性や効率を優先するあまり、何か大切なものを見落としたのではないか?
成功の美酒に酔いしれていたはずなのに、今はむしろ、渇きに似た焦燥感が胸を締め付ける。
「……まだだ。まだ足りない。もっと上へ……」
渉は誰に言うともなく呟き、こめかみを強く押さえた。ズキリとした軽い頭痛が、思考の邪魔をする。早く眠らなければ。明日は明日で、また戦いが待っている。
◇◇◇
数日後、渉は形式的な挨拶回りの一環として、タワー建設エリアの一角に残された古社「刻弥神社」を訪れた。周囲のガラスと鉄骨のビル群とは不釣り合いなほど、そこだけが深い緑に覆われ、時間の流れが違うように感じられた。
「へえ……こんなところに、まだこんな神社が残ってたんですね」
同行した部下が感心したように呟く。
「ああ。開発計画で保存されたんだ。まあ、地域への配慮ってやつだな」
渉は興味なさそうに答えた。彼にとって、古い神社など、感傷的な価値しか持たないものだ。
苔むした石段を上がり、鳥居をくぐる。空気がひんやりと肌を刺す。だが、それは清浄さとは少し違う、何か湿った、重苦しい気配のようにも感じられた。
参道脇の絵馬掛けには、おびただしい数の絵馬が奉納されていた。色とりどりの紐が風に揺れている。何気なく目をやった渉は、そこに書かれた文字に思わず眉をひそめた。
『いつまでも若々しくいられますように』
『シミもシワも消えて、マイナス10歳肌に!』
『老いを遠ざけ、永遠の美貌を!どうか!』
切実な、あるいは浅はかとも言える願いの数々。本来、人々がここで何を祈ってきたのか、渉は知る由もなかったが、その剥き出しの欲望の念に、言いようのない嫌悪感に近いものを感じた。
(若さ、か……確かに、失いたくないものだとは思うが……)
渉は、自分自身の内にもある、老いへの漠然とした不安を、一瞬だけ自覚した。だがすぐに、仕事の成功こそが若さの証明だと、いつもの思考に蓋をする。
本殿で、パンパンと機械的に柏手を打つ。成功への感謝と、今後のさらなる飛躍を心の中で簡単に祈る。そして、境内奥に聳え立つ、巨大なクスノキのご神木へと歩を進めた。樹齢数百年はありそうだ。その圧倒的な存在感に、彼は思わず息をのんだ。
(これが、ご神木か……すごいな。パワーがありそうだ)
彼は軽い気持ちで、そのごつごつとした樹皮に手を伸ばした。成功のエネルギーを、この古木にも分けてやるか、そんな傲慢な考えすらあったかもしれない。
触れた瞬間、ひやりとした冷気が走った。だが、それだけではない。まるで木が呼吸しているかのように、微かな振動が手のひらから伝わってくる。そして、さらに奇妙なことに、自分の体の中から、温かいものが、エネルギーのようなものが、ゆっくりと吸い取られていくような感覚があった。
「うわっ!?」
渉は驚いて、反射的に手を離した。心臓が妙にドキドキしている。手のひらを見ると、別に何も変わったことはない。
「どうしました?渉さん」
部下の声に、渉は我に返った。
「い、いや……なんでもない。少し、静電気がきたみたいだ」
彼はそう誤魔化したが、背中には冷たい汗が流れていた。何か、良くないものに触れてしまったような、不吉な予感。彼は早々に神社を後にすることにした。振り返ると、巨大なクスノキが、全てを見通すような目で、静かに彼を見送っているように思えた。
◇◇◇
神社での一件などすっかり忘れ、渉は再び仕事に没頭していた。しかし、数週間が過ぎた頃から、彼の身体に奇妙な変化が起こり始めた。
「渉さん、最近めちゃくちゃ元気じゃないですか?徹夜続きでも全然平気そうですし」
後輩に指摘され、渉も自覚していた。以前なら考えられないほどのスタミナ。まるで二十代の頃に戻ったようだ。鏡を見れば、肌のハリも明らかに違う。
「はは、まあな。大きな仕事が終わって、ストレスが減ったからかな?」
渉は得意げに答えた。若返り。悪い気はしない。むしろ、このエネルギーで、さらなる高みを目指せる。そう、彼は自分を奮い立たせた。
だが、日常の些細な場面で、無視できない違和感が顔を出し始めた。
朝食のトースト。いつもと同じジャムのはずなのに、甘ったるく感じる。長年愛用している革製のカバン。その手触りが、妙にゴワゴワして感じられる。
事務所で飲むコーヒー。味も香りも、以前ほど深く感じられない。まるで、自分の感覚器に薄い膜が張られたようだ。
「なあ、由美。俺、最近、味覚とかおかしくなったのかな?」
夕食の時、渉は冗談めかして妻に尋ねた。
「あら、どうして?」
「いや、なんだか……味が薄く感じたり、逆に強く感じたり。お前の料理がまずくなったわけじゃないぞ?」
「失礼ね」由美は笑いながらも、心配そうに渉の顔を覗き込んだ。「疲れてるんじゃないの?ちゃんと休めてる?」
「ああ、体は絶好調なんだがな……気のせいか」
渉はそう言って話を逸らしたが、由美の心配そうな目が気になった。彼女は何か気づいているのだろうか?
仕事中の違和感は、より深刻だった。
部下が持ってきた設計案のチェック。以前なら、図面を一瞥しただけで本質的な問題点を見抜けたはずなのに、今は何度見返しても、焦点がぼやけてしまう。
(どこだ……何が問題なんだ……?)
焦りが募る。結局、当たり障りのない修正指示しか出せず、部下は不満そうな顔で引き下がっていった。
(俺としたことが……たるんでるのか?)
渉は自分の能力低下を認めたくなかった。だが、経験に裏打ちされたはずの「勘」が、明らかに鈍っている。それは、体力とは反比例する、静かな、しかし確実な衰えだった。
◇◇◇
その夜、渉は金縛りにあったかのように身動きが取れず、暗闇の中で目だけを開いていた。心臓が早鐘のように打ち、嫌な汗が滲む。また、あの悪夢を見たのだ。自分が設計したタワーが、ねじれた老人の顔になり、自分を嘲笑う夢。
(夢だ……落ち着け……)
必死に自分に言い聞かせるが、恐怖はなかなか消えない。体の火照りと渇きを感じ、ベッドを抜け出した。
キッチンへ向かう途中、洗面所の前を通りかかる。無意識に鏡に目をやった瞬間、渉は凍りついた。呼吸が止まる。
鏡の中にいるのは、誰だ?
見慣れた自分の顔のはずなのに、明らかに違う。若すぎる。三十代前半……いや、もしかしたら三十歳を切っているかもしれない。目元の、経験と疲労を刻んでいたはずの細かなシワが、嘘のように消えている。肌は滑らかで、不自然なほど張り詰めている。
「……うそだろ……」
掠れた声が漏れる。震える手で自分の頬に触れる。鏡の中の青年も同じ仕草をする。間違いなく自分だ。しかし、それは「今の」自分ではない。数年前の、まだ何も成し遂げていない、ただ若さだけがあった頃の自分。
これは、若返りなどという生易しいものではない。何かが、自分という存在を乗っ取ろうとしている。自分の意志とは無関係に、過去へと引きずり戻されている。
恐怖が全身を貫いた。体がガタガタと震えだす。
「あなた……?」
背後から、由美の声が聞こえた。いつの間にか起きてきたらしい。その声は、眠気よりも心配の色が濃かった。
「どうしたの?顔が真っ青よ……」
渉は、鏡の中の若い自分から目を逸らせない。この顔を、由美に見られたくない。彼女に、自分が壊れていく様を知られたくない。
「……なんでもない。ちょっと、目が覚めて……水を飲もうと……」
声が裏返っている。隠しきれない動揺。
由美は数歩近づき、渉の隣に立ち、鏡を覗き込んだ。そして、息を呑んだのが分かった。
「……渉さん……あなた……本当に……若く……」
言葉が途切れる。彼女の目に映るのは、驚きだけではなかった。困惑、そして、言いようのない恐怖。
「違うんだ!これは……何かの間違いだ!」
渉は叫ぶように言った。まるで子供のように、現実を否定しようとして。
「最近、おかしいんだ!体が……いや、頭の中も……昔の、どうでもいいことばかり思い出したり、大事なことを忘れたり……!」
彼は支離滅裂に言葉を続けた。抑えていたパニックが、堰を切ったように溢れ出す。
「俺は……俺じゃなくなっていく気がするんだ!怖いんだよ、由美!」
由美は、震える渉の腕をそっと掴んだ。彼女の手もまた、小刻みに震えていた。
「……病院へ行きましょう。明日、すぐにでも」
その声は、努めて冷静だったが、深い不安が滲んでいた。
◇◇◇
翌日、いくつかの病院で精密検査を受けたが、結果はどこも同じ。「異常なし」。むしろ、どの医師も口を揃えて「年齢より遥かに若々しく、健康的です」と太鼓判を押した。
その言葉が、渉をさらに絶望の淵に突き落とした。医学では解明できない。誰にも理解されない。自分は一人で、この狂った時間の逆流に飲み込まれていくしかないのか?
帰りの車の中で、渉はハンドルを握りしめ、押し殺したような呻き声を上げた。由美は、助手席で黙って涙を流していた。
輝かしかったはずの成功が、今は悪夢への入り口でしかなかった。黄金の午後は終わりを告げ、深く、暗い影が、彼の人生を静かに、しかし確実に蝕み始めていた。
◇◇◇
数週間が過ぎ、渉の外見は明らかに三十歳前後にまで若返っていた。体は軽快そのものだが、頭の中は常に霧がかかったようで、以前のような明晰さは失われていた。
朝の食卓。由美が淹れたコーヒーの香りが漂う。渉はそれを一口飲み、眉をひそめた。
「なあ、由美。このコーヒー、本当にいつもと同じ豆か?」
「ええ、そうよ。昨日も言ったじゃない。どうして?」
由美は怪訝そうな顔で答える。
「いや……なんだか、酸味が強い気がしてな。昔、学生の頃に飲んでた安物の豆みたいな……」
「そんなことないわ。あなたの好きな、いつものスペシャルブレンドよ」
「そうか……? 俺の舌がおかしいのか……」
渉は気まずそうにカップを置いた。由美はため息をつき、静かに言った。
「あなた、最近そういうことばかり言うわね。味が違うとか、匂いが変だとか……。本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫だと言ってるだろう。少し、感覚が過敏になってるだけだ」
渉は苛立ちを隠さずに答えた。心配されていることは分かる。だが、その心配が、自分が異常者であると認めさせようとしているようで、受け入れがたかった。
食卓には、娘の咲が描いた絵が飾られていた。昨日、幼稚園で描いたという家族の絵だ。渉、由美、そして咲。三人で手を繋いでいる。
「パパ、見て。咲が描いたの」
咲が指差す。渉は無理に笑顔を作った。
「ああ、上手だな、咲。パパもママも、そっくりだ」
「えへへ。でもね、パパのお顔、もっとシワシワ描けばよかったかな?」
「……シワシワ?」
渉の顔がこわばる。
「うん。だって、いつものパパ、おでことか目のところに、いっぱい線があったもん。今日のパパは、つるつるだね!」
子供の無邪気な言葉が、鋭い刃のように渉の胸を刺した。彼は言葉に詰まり、由美が慌てて助け舟を出した。
「さ、咲ちゃん、パパはね、お仕事頑張ってるから、疲れが取れてお顔がピカピカなのよ。ね?」
「ふーん……?」
咲は不思議そうに首を傾げた。渉は、娘の純粋な目から逃れるように、俯いてコーヒーを啜った。その味は、やはりどこか異質に感じられた。
◇◇◇
アーク・アーキテクツでの会議。新しい複合施設のデザインコンペに関するブレインストーミングが行われていた。若手デザイナーたちが、次々と斬新なアイデアを発表していく。渉は、以前なら彼らのアイデアの核心を瞬時に掴み、的確な批評と方向性を示せたはずだった。しかし、今は……。
「……えーっと、今の君の提案だが……その、ファサードの……ラインが、少し……弱い、かな?」
渉の言葉は歯切れが悪く、具体性に欠けていた。若手デザイナーは困惑した表情で渉を見返す。
「弱い、と言いますと……具体的にどの部分でしょうか、逆井さん?」
「いや、だから……全体的な印象として、だ。もっと、こう……インパクトというか……」
渉は言葉を探すが、適切な表現が見つからない。頭の中が、まるで古いラジオのようにノイズだらけで、クリアな思考ができない。
見かねた渉のかつての部下、今はチームリーダーを務める後輩の田中が口を挟んだ。
「逆井さん、おそらく、この立面のマッスバランスのことをおっしゃりたいのでは?確かに、低層部とのボリューム比を考えると、もう少し垂直ラインを強調した方が、全体のプロポーションが引き締まるかもしれませんね」
「あ、ああ……そう、それだ、田中君。よく分かったな」
渉は、助けられた安堵と、後輩に核心を突かれた屈辱感で、顔が赤くなるのを感じた。会議室の隅に座っていたベテラン設計士の佐藤が、腕を組んで、厳しい目で渉を睨んでいるのが視界の端に入った。社長も、困惑したような表情でペンを回している。
(俺は……もう、この場所にいるべき人間じゃないのかもしれない……)
会議の間中、渉はその思いから逃れることができなかった。自分の言葉が、どんどん空虚になっていく。経験という名の土台が崩れ去り、その上に立っていたはずの自信も、もろくも崩れ落ちていくようだった。
◇◇◇
会議の後、給湯室でコーヒーを淹れていると、佐藤がやってきた。
「逆井」
低い声で呼びかけられ、渉はびくりと肩を揺らした。
「……佐藤さん」
「さっきの会議、聞いてたぞ。なんだ、あれは。いつからお前は、そんなフワフワしたことしか言えなくなったんだ?」
佐藤の声には、怒りよりも、失望の色が濃かった。
「……すみません」
「謝って済むか。お前の言葉は、昔はもっと重みがあった。経験に裏打ちされた、確かな手応えがあったんだ。だが、今はどうだ?口先だけの、中身のない批評家気取りか?」
「そんなつもりは……!」
「じゃあ、どういうつもりだ?自分の状況が分かってないのか?お前は、ただ若返ってるだけじゃねえ。設計士として、一番大事なモンを失くしかけてるんだぞ!」
佐藤は、渉の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「経験だよ!失敗から学んだ知恵だよ!人の心の機微を読み取る力だよ!それがなけりゃ、どんなに若い才能があっても、ただの自己満足で終わるんだ!今のテメェは、まさにそれだ!」
渉は何も言い返せなかった。佐藤の言葉の一つ一つが、真実として胸に突き刺さる。
「……俺だって……好きでこうなってるわけじゃ……」
かろうじて絞り出した言葉は、あまりにも弱々しかった。
佐藤は、ふう、と大きなため息をつき、険しい表情を少しだけ緩めた。
「……分かってる。お前に何か異常が起きてるってことはな。だがな、逆井。それでもお前はプロだろ。なら、今の自分に何ができて、何ができないのか、ちゃんと見極めろ。できないことを無理にやろうとして、周りに迷惑かけるんじゃねえ。それが、今のテメェにできる、最低限の責任ってもんだ」
そう言い残し、佐藤は給湯室を出て行った。残された渉は、マグカップを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。熱いはずのコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
◇◇◇
その夜、自宅で咲の寝かしつけをしていた時のことだ。
「パパ、お星さまはどうしてキラキラ光るの?」
ベッドの中で、咲が尋ねてきた。渉は一瞬、言葉に詰まった。
(ええっと……星は、自分で光ってるんだったか?いや、太陽の光を反射して……どっちだ?)
以前なら、子供にも分かるように、簡単な言葉で説明できたはずだ。しかし、今は基本的な知識すら曖昧になっている。
「それは……えーっとだな、咲。星っていうのは……すごく遠くにある、小さな……光なんだよ」
しどろもどろな説明に、咲はきょとんとしている。
「ふーん。でも、どうして光るの?」
「それは……その……」
渉が答えに窮していると、部屋の入り口から由美が顔を覗かせた。
「咲ちゃん、お星さまはね、自分の中にある熱いエネルギーで燃えて光っているのよ。太陽と同じようにね。すごく遠くにあるから、小さくキラキラ見えるの」
「へえー!太陽と同じなんだ!すごい!」
咲は納得したように目を輝かせた。由美は、渉に困ったような、そして少し悲しそうな視線を向け、静かに部屋を出て行った。
渉は、娘の前で簡単な質問にも答えられない自分に、深い自己嫌悪を感じた。父親として、夫として、そして一人の大人として、自分がどんどん役立たずになっていく。その現実が、重くのしかかってきた。
◇◇◇
深夜のリビング。テレビの音だけが響いている。渉はソファに座り、由美は少し離れた場所に立っていた。昼間の咲とのやり取りの後、二人の間には重い沈黙が続いていた。
「……なあ、由美」
渉が、意を決したように口を開いた。
「俺たち、初めて出会った時のこと、覚えてるか?」
「ええ、覚えてるわよ。大学の図書館だったわね。あなたが、分厚い建築の本を落として、私が拾ってあげたの」
由美は少しだけ表情を和らげて答えた。
「ああ、そうだ。あの時、君は……確か、赤いワンピースを着てたな」
「……いいえ」由美の声が、微かに強張った。「私は、白いブラウスに、ブルーのスカートだったわ。あなたは、私の顔もろくに見ずに、ぶっきらぼうにお礼だけ言って去っていった」
「え……? そうだったか……? 俺の記憶では、確かに赤い……」
渉は混乱した。自分の記憶が、現実と食い違っている。これは、単なる勘違いではない。
「あなた、最近、そういうことが多すぎるわ。私たちが初めて旅行に行った場所も、プロポーズの言葉も、あなたは間違って覚えてる。まるで……私たちの過去が、あなたの中で書き換えられていってるみたい」
由美の声は震えていた。涙が、彼女の頬を伝う。
「どうしてなの、渉さん……? 私たちの時間は、あなたにとって、そんなに曖昧なものだったの?」
「違う!そんなことはない!俺は、ちゃんと覚えているはずだ……!」
渉は必死に反論するが、その言葉には自信がなかった。脳裏に浮かぶ過去の光景が、まるで古い写真のように色褪せ、歪んでいく。
「じゃあ、どうして!? 教えてよ!」
由美の悲痛な叫びが、リビングに響く。
「俺にも……分からないんだ……!」
渉は頭を抱えた。若返っていく肉体とは裏腹に、彼の内面世界は、記憶の断片と混乱の中で、崩壊の一途を辿っていた。由美の涙を見るのが辛くて、彼はソファから立ち上がり、衝動的に家を飛び出した。夜の冷たい空気が、火照った頬を刺した。行くあてなど、どこにもなかった。
◇◇◇
冷たい夜風が、火照った渉の頬を容赦なく打つ。どこへ行くあてもなく、ただ衝動的に家を飛び出しただけだった。街灯の光が滲む歩道を、彼は幽霊のように彷徨い歩く。頭の中では、由美の涙と、自分の空虚な反論が繰り返し再生されていた。
(俺は、最低だ……)
自嘲の言葉が漏れる。妻を傷つけ、娘を怯えさせ、そして自分自身も壊れていくのを止められない。体力だけは有り余っている二十代後半の肉体が、今は重い枷のように感じられた。
ふと見上げると、夜空を貫くようにそびえ立つ「クロス・シティ・タワー」が見えた。数週間前まで、あれは自分の誇りであり、成功の象徴だった。だが、今はどうだ? まるで巨大な墓標のように、あるいは自分を嘲笑う巨大な顔のように見える。あのタワーの成功が、この悪夢の引き金になったのだろうか? 刻弥神社の、あの気味の悪いご神木が原因なのか? だとしたら、なぜ俺なんだ?
答えの出ない問いが、混乱した頭の中で渦巻く。
彼は、人気のない公園のベンチに力なく腰を下ろした。スマートフォンの画面には、由美からの着信履歴が何件も表示されている。折り返す気力も、資格もないように思えた。メッセージアプリを開くと、短いメッセージが入っていた。
『渉さん、どこにいるの?心配しています。お願い、連絡ください』
そのシンプルな言葉に、胸が締め付けられる。彼女はまだ、こんな俺を心配してくれているのか。それとも、これは義務感からなのか。今の渉には、その真意を測ることすら難しくなっていた。
(帰れない……今の俺は、あの家にいる資格がない……)
彼はスマートフォンの電源を切った。世界から完全に切り離されたような、深い孤独感が彼を包み込んだ。夜明けまで、渉は公園の冷たいベンチの上で、悪夢と現実の狭間を漂い続けた。
◇◇◇
翌朝、刺すような太陽の光で目を覚ました渉は、近くの公衆トイレの鏡を見て、再び血の気が引くのを感じた。明らかに、また若返っている。昨夜よりもさらに。もう、二十代半ばと言っても通用するだろう。学生のような、青臭さが残る顔。
「……冗談じゃない……」
鏡の中の自分を睨みつける。このペースは異常だ。月に一歳どころではない。何かが、急速に進行している。このままでは、本当に……。
恐怖で体が震える。会社に行く気力など、もはや残っていなかった。スマートフォンは電源を切ったまま。無断欠勤だ。社会人として失格だ。だが、そんなことはもうどうでもいいように思えた。
彼はふらふらと街を歩き、安価なビジネスホテルにチェックインした。偽名を使うことにも、もはや抵抗はなかった。部屋に入ると、カーテンを閉め切り、ベッドに倒れ込む。暗闇の中で、彼はただ時間をやり過ごそうとした。しかし、目を閉じれば、崩壊していく自分自身の幻影が見える。断片化した記憶、意味をなさない思考、制御できない感情の波。
(誰か……助けてくれ……)
心の叫びは、声にはならなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。空腹を感じ、コンビニで買ったパンを味気なく齧りながら、渉はぼんやりと窓の外を眺めていた。その時、ふと、ある人物の顔が脳裏に浮かんだ。大学時代の恩師、宮崎教授。厳格だが、常に物事の本質を見抜こうとしていた、あの老教授。
(先生なら……もしかしたら……何か分かるかもしれない……)
それは、溺れる者が掴む藁のような、か細い希望だった。渉は震える手で、スマートフォンの電源を入れた。由美からの不在着信とメッセージが、画面を埋め尽くしている。胸が痛んだが、今はそれに構っていられない。
彼は、記憶の奥底から宮崎教授の研究室の電話番号を探し出した。数回のコールの後、懐かしい、しかし少し掠れた声が聞こえた。
「はい、宮崎ですが」
「……先生……ご無沙汰しております。逆井です。逆井渉です」
自分の声が、妙に若く、頼りなく響くのを感じた。
「おお、逆井君か!久しぶりじゃないか。どうしたね、声に元気がないようだが」
教授の穏やかな声に、渉の目から、こらえていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
「先生……助けてください……俺は……俺は、もう、どうしたらいいのか……」
嗚咽交じりに、渉は自分の身に起こっている異常な出来事を、途切れ途切れに語り始めた。それは、狂気の淵に立つ男の、必死のSOSだった。
◇◇◇
宮崎教授は、電話口で嗚咽する渉の言葉を、根気強く、静かに聞いていた。時折、短い相槌を打つだけで、遮ることはしなかった。渉が自分の身に起きている異常な現象――止まらない若返り、失われていく記憶と経験、そして家族との断絶――を語り終えるまで、教授はただ耳を傾け続けた。
長い沈黙の後、教授はゆっくりと口を開いた。
「……逆井君、大変なことになっているようだね。想像を絶する状況だということは、よく分かった」
その声は、驚きや同情よりも、むしろ深い思慮を含んでいるように渉には聞こえた。
「先生……これは、何かの病気なんでしょうか?それとも……呪いかなにか……?」
渉はすがるように尋ねた。
「ふむ……医学で原因が分からないとなると、通常の物差しでは測れない事態なのだろう。だが、呪いという言葉で片付けてしまうのは、少し早計かもしれんね」
「どういう意味ですか?」
「君が言っていた、刻弥神社のこと、そしてご神木に触れた時の奇妙な感覚……それが全ての始まりだと君は感じている。そして、君の若返りは、単なる肉体の変化ではなく、内面……君が三十五年かけて築き上げてきた『逆井渉』という存在そのものが、過去へと逆行しているように聞こえる」
教授の言葉は、渉が漠然と感じていた恐怖の核心を的確に突いていた。
「そうです……先生。俺は、若返ってるんじゃなくて、消えていってるんです。経験も、知識も、由美や咲との大切な記憶さえも……!」
「落ち着きたまえ、逆井君。パニックになっても何も解決しない。……君の話を聞いていて、一つ、思い当たることがある」
「思い当たること……?」
「古い建築や土地には、我々の理解を超えた力が宿ることがある。それは、必ずしも悪意あるものではなく、むしろ、ある種のバランスを取ろうとする自然の摂理のようなものかもしれん。刻弥神社が本来、何を祀り、どのような信仰を集めてきた場所なのか、調べてみる価値はあるかもしれんな」
教授の言葉に、渉はわずかな希望を見出した。
「先生……俺、どうすれば……」
「まずは、落ち着くことだ。そして、君の奥さん……由美さんと、ちゃんと話をしなさい。一人で抱え込んではいけない。彼女は君の一番の理解者のはずだ」
「ですが……俺は、由美を傷つけて……」
「傷ついたのは君も同じだろう。今、君たちに必要なのは、互いを責めることではなく、共にこの困難に立ち向かう覚悟だ。……もし、君さえよければ、一度、私の研究室に来なさい。君の話を、もう少し詳しく聞きたい。そして、刻弥神社についても、私の知る限りの知識を調べてみよう」
教授の申し出は、暗闇の中で差し伸べられた手のようだった。渉は、涙で濡れた顔を上げ、震える声で答えた。
「……はい。ありがとうございます、先生。伺います」
◇◇◇
ホテルをチェックアウトした渉は、深呼吸をして由美に電話をかけた。数コールで、彼女が出た。
「……渉さん?」
その声は硬く、不安と疲労が滲んでいた。
「由美……ごめん。昨日は……本当にすまなかった」
渉は、素直に謝罪の言葉を口にした。
「……どこにいたの?心配したのよ」
「ああ……ホテルにいた。少し、頭を冷やしたくて……。由美、話があるんだ」
渉は、宮崎教授と話したこと、そして教授の研究室へ行くことを伝えた。
電話の向こうで、由美が息を呑む気配がした。しばらくの沈黙の後、彼女は震える声で言った。
「……分かったわ。私も、一緒に行く。咲は、母に預かってもらうから」
「え……?」
「一人で行かせられないわ。あなたが、どんな状況であっても……私は、あなたの妻だから」
その言葉に、渉の胸は熱くなった。自分が壊れていく一方で、由美の強さと愛情は、変わらずそこにあったのだ。
「……ありがとう、由美」
久しぶりに、心からの感謝の言葉が口をついて出た。
◇◇◇
数日後、渉と由美は、都心にある大学の、宮崎教授の研究室の前に立っていた。ドアには「宮崎 史郎 名誉教授」というプレートがかかっている。渉の外見は、さらに若返り、二十代半ばに見えた。道行く学生たちと変わらない姿に、彼は強い場違いさを感じていた。
ドアをノックすると、「どうぞ」という穏やかな声が聞こえた。
研究室は、床から天井までびっしりと本や資料で埋め尽くされていた。古書の匂いと、微かなインクの香りが漂う。その中央で、七十代と思しき、しかし矍鑠とした宮崎教授が、二人を温かく迎え入れた。
「やあ、逆井君。よく来てくれた。……そして、奥様も」
教授は、渉の若々しい姿を一瞥したが、特に驚いた様子は見せず、由美に深く頭を下げた。
「初めまして。妻の由美です。いつも主人がお世話になっております」
由美も緊張した面持ちで挨拶を返す。
「まあ、かけたまえ」
教授は古びた革張りのソファを勧め、自身も対面に腰掛けた。
「さて、逆井君。電話でも話したが、君の身に起きていることは、極めて異例だ。だが、全く前例がないわけでもないかもしれん」
教授は、机の上に広げられた数冊の古そうな書物を示した。
「これは?」
「刻弥神社に関する、古い記録や伝承を集めてみたものだ。この地域は、古代から『時』に関する信仰が根付いていたようでね。刻弥神社も、元々は単なる若返りではなく、『歳月の成熟』や『物事の適切な時機』を司る神、あるいは精霊を祀っていたらしい」
「成熟……ですか?」
渉は繰り返した。自分が失っているものそのものだ。
「そうだ。人々は、年を重ねることで得られる知恵や経験、豊かさを祈願し、人生の節目ごとに感謝を捧げてきた。しかし……」
教授はため息をついた。
「近代に入り、特にここ数十年で、その信仰は歪んでしまったようだ。若さへの執着、老いへの恐怖……そういった現代人の集合的な想念が、神社の本来の力をねじ曲げ、負のエネルギーとして溜め込まれていったのかもしれない」
「じゃあ、俺は……その、負のエネルギーのせいで……?」
「それだけではないだろう。君がご神木に触れた時、君は『人生の絶頂』にいた。強い成功のエネルギー、未来への希望……それが、神社に溜まった歪んだ願望と、予期せぬ形で『共鳴』してしまったのではないか。そして、神社本来の力――時の流れを司る力が、バランスを取り戻そうとして、あるいは現代人への警鐘として、君に『成熟を奪う』という形で作用した……考えられるとすれば、そんなところかね」
教授の説明は、オカルト的でありながらも、奇妙な説得力を持っていた。
「そんな……じゃあ、どうすれば……元に戻れるんですか?」
渉は必死に尋ねた。
「それは、私にも断言はできん。だが、もし私の仮説が正しいとすれば、鍵は二つあるだろう」
教授は指を二本立てた。
「一つは、君自身が『失われた時間の価値』を心から理解し、『成熟を受け入れる覚悟』を持つことだ。若さへの未練を断ち切り、年を重ねることの豊かさを肯定する強い意志。それが、歪んだエネルギーに対抗する力となるかもしれん」
「成熟を受け入れる……覚悟……」
渉は呟いた。今の自分に、そんなものが持てるだろうか?
「そして、もう一つは、刻弥神社、あるいはご神木そのものとの対話だ。原因となった場所で、君のその意志を示す必要があるのかもしれない。だが、それは危険を伴うだろう。歪んだエネルギーの渦に、飲み込まれてしまう可能性もある」
教授の目は、厳しく渉を見据えていた。
「道は険しい。だが、君には由美さんという強い味方がいる。そして、君の中には、まだ完全に消え去ってはいないはずの、三十五年分の『逆井渉』がいる。それを信じることだ」
研究室を出た後、渉と由美は、しばらく無言で大学の構内を歩いた。渉の外見は大学生と変わらない。しかし、彼の心の中は、重い決意と、拭いきれない恐怖で揺れていた。
「……由美」
渉が立ち止まり、妻に向き合った。
「俺は……怖い。正直、自信がない。でも……やるしかないと思ってる。元の俺に……いや、もっとマシな俺になって、君と咲の元へ帰りたい」
その言葉は、若々しい外見とは裏腹に、切実な響きを持っていた。
由美は、渉の目をじっと見つめ返した。そして、静かに、しかし力強く言った。
「ええ。信じてるわ、渉さん。あなたは、必ず乗り越えられる。私も、一緒に戦うから」
二人の間に、再び確かな絆が結ばれた瞬間だった。だが、彼らの前には、まだ長く、険しい道のりが横たわっていた。若返りは、依然として止まることなく、渉の存在を過去へと引き戻し続けているのだから。
◇◇◇
宮崎教授の研究室を後にしてから数週間。渉の外見は、ついに二十代前半、大学を卒業したばかりの頃の姿にまで逆行していた。肉体的にはエネルギーに満ち溢れているはずなのに、精神は不安定で、記憶はさらに断片的になっていた。建築に関する専門知識はほとんど抜け落ち、複雑な思考を長時間続けることが困難になっていた。
アーク・アーキテクツには、長期休職届を出した。社長は事情を深く詮索せず、「今はゆっくり休んで、元気になって戻ってきてくれ」とだけ言った。その言葉に、渉は感謝よりも、社会から切り離されたような寂しさを感じた。佐藤さんからは、「しっかりしろよ。お前の帰る場所は、ここにあるんだからな」という短いメールが届いた。その無骨な励ましが、少しだけ心を温めた。
渉と由美は、宮崎教授の助言に従い、原因究明と対策の準備を進めていた。森下さんという郷土史家を紹介してもらい、刻弥神社とご神木に関する更なる情報を集めた。森下さんは、穏やかながらも核心を突く指摘をした。
「ご神木は、単にエネルギーを溜め込むだけでなく、触れた者の『時の記憶』と深く結びつく性質があるようです。逆井さんの場合、強すぎる成功体験と、神社に渦巻く他者の『若さへの渇望』が混ざり合い、時間の流れを逆転させるトリガーとなってしまった。これを解くには、逆井さん自身の『時間』に対する認識を正し、ご神木(あるいはそこに宿る力)に『成熟の価値』を認めさせる必要があるでしょう。それは、一種の精神的な対決になるかもしれません」
森下さんは、古文書に記されていたという、ご神木の力を鎮めるための儀式のようなものの断片についても語ったが、その詳細は不明瞭で、危険性も示唆された。
渉は、教授や森下さんの言葉を理解しようと努めたが、若返りとともに思考力も低下しているため、全てを把握するのは難しかった。彼は焦り、苛立ち、時には子供のように癇癪を起こした。
「なんで俺ばっかりこんな目に遭うんだ!もう嫌だ!」
リビングで資料を投げ散らかす渉を、由美は静かに、しかし毅然とした態度で諌めた。
「渉さん、気持ちは分かるわ。でも、感情的になっても何も解決しない。あなたは一人じゃない。私たちがいるじゃない」
由美は、渉が失いつつある理性を補うように、冷静さを保ち続けていた。彼女自身も不安と恐怖で押し潰されそうになりながら、必死に耐えていたのだ。渉はその姿を見て、自分の未熟さを恥じ、何度も謝罪した。
この時期、渉は奇妙な追体験をすることが増えた。まるで古い映画を早送りで見ているかのように、過去の記憶が断片的に蘇るのだ。
仕事で大きなミスをして、クライアントに頭を下げて回った日の屈辱。徹夜続きで設計に没頭し、朝日の中で達成感を感じた瞬間。厳格だった父との、ぎこちない最後の会話。病床の父が、弱々しい声で「お前は、お前の信じる道を生きろ」と言ってくれたこと。由美と出会った日の、ぎこちない自己紹介。初めてのデート、喧嘩、仲直り、そしてプロポーズ。咲が生まれた時の、言葉にならない感動と、父親になることへの責任の重さ……。
これらの記憶は、若返りによって薄れ、忘れかけていたものだった。しかし、失いかけている今だからこそ、その一つ一つが、どれほど自分を形作り、豊かにしてくれていたかを痛感した。涙が止まらなくなることもあった。それは、単なる感傷ではない。失われた「年輪」への、切実な渇望だった。
「戻りたい……。あの頃の俺にじゃない。あの経験を、この胸に刻んだ、これからの俺に……」
渉の心の中で、「成熟」への意志が、少しずつ、しかし確実に形を成し始めていた。
◇◇◇
準備は整った。宮崎教授と森下さんの知恵を借り、考えうる限りの対策を練った。それは、物理的な装備ではなく、あくまで渉自身の精神力と、「成熟を受け入れる覚悟」を試すためのものだった。決行の日は、月の満ち欠けと、神社のエネルギーが比較的安定するとされる時期を選んだ。
決行前夜。渉、由美、そして同行を決意した宮崎教授(森下さんは、後方支援に徹することになった)は、都内にある教授の古い馴染みの宿に集まっていた。渉の外見は、もはや大学生にしか見えない。
「逆井君、準備はいいかね?」
教授が、いつになく真剣な眼差しで問いかける。
「……はい。正直、怖いです。でも、やるしかありません」
渉は、震えを抑えながら答えた。
由美が、そっと渉の手を握る。
「大丈夫よ、渉さん。私がそばにいるわ」
その温もりが、渉に勇気を与えた。
教授は、古い木の箱を取り出した。中には、小さな水晶のような石が入っている。
「これは、私の家系に伝わるものでね。人の精神を安定させ、邪念を払う力があると言われている。気休めかもしれんが、持っていくといい」
渉は、その石をありがたく受け取り、ポケットにしまった。ひんやりとした石の感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
その夜、渉は久しぶりに悪夢を見なかった。代わりに、断片的だが、未来の光景を見た気がした。少し歳をとった自分と由美が、成長した咲と共に、穏やかに笑い合っている。そんな、ありふれた、しかし今は何よりも尊く思える光景だった。
◇◇◇
翌日、三人は刻弥神社へと向かった。昼間だというのに、境内は薄暗く、空気が重く感じられた。平日にも関わらず、相変わらず多くの人々が訪れ、「若さ」を願う絵馬が、以前よりも増えているように見えた。その人々の欲望の念が、渦を巻いてご神木に吸い寄せられているような、異様な雰囲気。
「……すごいな。人々の想念というのは、これほどまでに強いものなのか」
教授が、眉をひそめて呟いた。
「気をしっかり持つんだ、逆井君。この場の気に飲まれてはいかん」
ご神木の前に立つ。巨大なクスノキは、以前にも増して威圧感を放っていた。その幹は黒々とし、葉は不自然なほど濃い緑色をしている。まるで、周囲のエネルギーを吸い尽くしているかのようだ。
渉は、覚悟を決めて、ご神木に向き合った。教授と由美は、少し離れた場所から、固唾を飲んで見守っている。
目を閉じ、意識を集中させる。宮崎教授に教わった呼吸法を実践し、精神を統一しようと試みる。
すると、すぐに脳内に声が響き始めた。それは、特定の個人の声ではなく、無数の人々の囁きが混ざり合ったような、不気味な響きを持っていた。
【来たか……時の迷い子よ……】
【まだ若さにしがみつくか?それとも、無意味な老いを受け入れるというのか?】
【お前の経験など、しょせん、ちっぽけなもの。消え去るのが定めだ……】
声と同時に、不快なイメージが次々と流れ込んでくる。若さへの誘惑、過去の栄光の幻影、失敗の記憶、老いることへの生理的な嫌悪感……。人々の歪んだ願望が、渉の精神を直接攻撃してくる。
「くっ……!」
渉は歯を食いしばり、必死に抵抗する。ポケットの中の水晶を強く握りしめた。
(違う!俺は……!)
彼は、心の中で叫んだ。若返りの過程で再発見した、経験の価値を。
(仕事で失敗したから、人の痛みが分かった!父とぶつかったから、家族の愛を知った!由美と苦労を共にしたから、今の絆があるんだ!それらは、決して無駄じゃない!俺という人間を形作ってきた、かけがえのない年輪なんだ!)
彼の強い意志が、反発する力となる。脳内の声が、一瞬、たじろいだように感じられた。
だが、声はすぐに嘲笑うかのように再び響き始める。
【年輪だと?枯れ木になるだけではないか。若さこそが輝き。永遠の春こそが至高。お前もそう望んでいたはずだ】
【思い出せ。成功の美酒を。称賛の声を。あの頂点の輝きを。なぜ、わざわざ坂道を下ろうとする?】
過去の成功体験が、甘美な幻影となって渉を誘惑する。タワーの完成披露パーティーの光景、メディアの称賛、人々の羨望の眼差し……。あの輝きを、もう一度。その思いが、心を揺さぶる。
(……確かに、あの時は……満たされていた……はずだった……)
一瞬、彼の決意が揺らぐ。その隙を見逃さず、声はさらに強く響く。
【そうだ。戻るのだ。若く、強く、輝かしいお前へ。しがらみも、責任も、老いの醜さも、全て捨て去って……】
「違う!!」
渉は、今度は声に出して叫んでいた。
「あの輝きは、本物じゃなかった!俺は、周りの評価ばかり気にして、本当に大切なものを見ていなかった!家族のことも、自分自身の心さえも!」
彼は、ポケットから娘の咲が描いた「未来の家族」の絵を取り出した。少し歪んだ線で描かれた、温かい絵。
「俺が欲しいのは、こんな未来だ!若さだけじゃない!シワを刻み、白髪になりながら、愛する者たちと笑い合い、泣き合い、共に生きていく時間なんだ!」
彼の目から、涙が溢れ出ていた。それは、後悔の涙ではなく、未来への強い意志を示す涙だった。
「老いることを、受け入れる!経験を重ね、成熟していくことを、俺は選ぶ!それが、人間として生きるということだ!」
その魂の叫びが、ご神木に、そしてそこに宿る力に届いたのか。
ご神木の葉が、嵐のように激しくざわめき始めた。空気がビリビリと震え、地面が揺れるような感覚。渉を苛んでいた脳内の声が、苦悶の叫びのように変化する。
【愚かな……人間め……!時の流れに……抗うというのか……!?】
しかし、その声は次第に力を失っていく。渉の「成熟を受け入れる覚悟」が、歪んだ願望のエネルギーを打ち破り始めたのだ。
「渉さん!」
由美が叫ぶ。彼女と教授が、渉の元へ駆け寄ろうとするが、見えない壁に阻まれるかのように近づけない。
渉は、最後の力を振り絞り、ご神木に向かって、はっきりと宣言した。
「俺は、逆井渉だ!三十六年分の時間を生きてきた!そして、これからも生きていく!未来へ向かって!」
その言葉と共に、ご神木から放たれていた異様なプレッシャーが、ふっと消え去った。まるで、張り詰めていた糸が切れたかのように。
同時に、渉の身体を、温かい、そして懐かしい感覚が満たしていく。失われていたはずの記憶が、経験が、感情が、ゆっくりと、しかし確実に、彼の内側へと戻ってくる。
二十代半ば、三十代、そして……三十六歳へ。
時間の逆流が止まり、本来の流れを取り戻し始めたのだ。それは、決して楽なプロセスではなかった。激しい眩暈、断片的な記憶の洪水、感情の激流に翻弄されながら、渉は必死に自我を保とうとした。
どれほどの時間が経ったのか。気づくと、渉はご神木の根元に座り込んでいた。体は鉛のように重いが、心は不思議なほど穏やかだった。目を開けると、心配そうに自分を覗き込む由美と宮崎教授の顔が見えた。
「……渉さん……?」
由美が、おそるおそる呼びかける。
渉は、ゆっくりと微笑んだ。その顔には、確かに年齢相応のシワが刻まれていた。だが、その瞳は、以前の傲慢な輝きではなく、深い落ち着きと、慈しみに満ちた光を宿していた。
「……ただいま、由美。先生」
その声は、若々しさはないかもしれないが、確かに「逆井渉」自身の声だった。失われた時間を取り戻し、彼は再び、現在地へと帰還したのだ。
◇◇◇
由美は、渉の顔を見て、その瞳に宿る確かな光を確認すると、堰を切ったように涙を流し始めた。
「渉さん……!よかった……本当によかった……!」
彼女は渉に抱きつき、その背中を何度も叩いた。渉もまた、妻の温もりを確かめるように、力強く抱きしめ返した。失われかけていた、かけがえのない存在。その重みを、彼は全身で感じていた。
宮崎教授は、二人の姿を感慨深げに見守り、深く頷いた。
「……よく乗り越えたな、逆井君。君は、自分自身に打ち勝ったのだ」
その言葉に、渉は静かに頷いた。ご神木は、先程までの威圧感が嘘のように、ただの巨大な古木として、静かにそこに佇んでいる。境内の空気も、心なしか清浄さを取り戻したように感じられた。人々の歪んだ願望のエネルギーは、渉の強い意志によって浄化されたのか、あるいはバランスを取り戻したのか。
神社を後にする三人。渉の足取りはまだ少し覚束なかったが、その表情は晴れやかだった。由美がしっかりと彼の腕を支えている。
「これから、どうするつもりかね?」
帰り道、教授が尋ねた。
「まずは……休みたいです。そして、ちゃんと向き合いたい。失われた時間と、これから生きていく時間に」
渉は、空を見上げて答えた。そこには、以前には見えなかったような、複雑で、しかし美しい色彩が広がっているように思えた。
「会社には……戻るつもりなのかね?」
「はい。もちろん、以前と同じようにはいかないでしょう。失った信用を取り戻すのは簡単ではない。でも、逃げるわけにはいきません。今の俺にできることを、一から始めるつもりです」
その言葉には、力みがなく、自然な決意が込められていた。
由美が、渉の顔を見上げて微笑んだ。
「焦らなくていいのよ。ゆっくり、あなたのペースで進んでいけば」
「ああ、そうだな」
渉は、妻の手に自分の手を重ねた。その温かさが、何よりも確かな現実だと感じられた。
◇◇◇
数週間の休養の後、渉はアーク・アーキテクツに復帰した。社員たちは、元の年齢に戻った渉の姿に驚きながらも、温かく迎え入れてくれた。特に、社長や佐藤さんは、多くを語らずとも、彼の復帰を心から喜んでいるようだった。
もちろん、全てが元通りになったわけではない。渉が休職していた間に、社内の体制は変わり、彼のポジションも以前とは違っていた。デザイン部門のチーフという肩書は残されたものの、実質的な権限は後輩の田中に多くが移譲されていた。
以前の渉なら、プライドが傷つき、不満を感じたかもしれない。しかし、今の彼は違った。
「田中君、これからは君が中心になってチームを引っ張っていってくれ。俺は、サポートに回るよ。何か困ったことがあれば、いつでも相談に乗るから」
渉は、会議の席で、穏やかにそう宣言した。田中をはじめ、若いスタッフたちは驚きの表情を見せたが、すぐに安堵と尊敬の入り混じった顔つきになった。
佐藤さんは、その様子を見て、ニヤリと笑った。
「おう、逆井。やっと大人の顔になったじゃねえか。それでこそ、俺たちが見込んだ男だ」
渉の仕事への取り組み方も変わった。以前のように、自分のアイデアを押し通すのではなく、チームメンバーの声に丁寧に耳を傾け、それぞれの個性を引き出すようなディレクションを心がけるようになった。彼のデザイン自体も変化していた。斬新さや奇抜さを追うのではなく、その建築が建つ土地の歴史や風土、そして何よりも、そこで時間を過ごす人々の心に寄り添うような、温かく、思慮深いデザインへと。
それは、派手さはないかもしれないが、使うほどに味わいを増すような、本質的な価値を持つ建築だった。渉は、若返りの経験を通して、時間だけがもたらす「深み」を、自身の仕事においても表現しようとしていたのだ。
◇◇◇
家庭での時間も、渉にとってかけがえのないものとなった。彼は、以前のように仕事に没頭するのではなく、意識して家族との時間を作るようになった。
夕食の時間は、その日あった出来事を互いに語り合う大切なひとときとなった。
「パパ、今日ね、幼稚園で新しいお歌習ったんだよ!」
咲が、覚えたての歌を一生懸命に歌って聞かせる。渉は、相槌を打ちながら、娘の言葉一つ一つに耳を傾ける。以前なら、上の空で聞き流していたかもしれない些細な会話。その中に、家族の絆を育む大切な要素が詰まっていることを、彼は学んだ。
「すごいじゃないか、咲。上手に歌えるようになったな」
渉が褒めると、咲は嬉しそうに笑う。その笑顔が、何よりの報酬だった。
由美との関係も、以前とは比べ物にならないほど深く、穏やかなものになった。二人は、夜、咲が寝静まった後、リビングでお茶を飲みながら語り合う時間を持つようになった。
「あなた、本当に変わったわね」
ある夜、由美がしみじみと言った。
「そう見えるか?」
「ええ。前よりも……ずっと優しい顔になった。それに、ちゃんと私の話を聞いてくれるようになったし」
由美は少し照れたように笑う。
「昔の俺は、自分のことばかりだったからな。君や咲に、どれだけ寂しい思いをさせてきたか……。本当に、すまなかったと思ってる」
渉は、素直な気持ちを伝えた。
「ううん。もういいのよ。あなたがあの経験から、大切なものを見つけてくれたなら。私たち、これからまた、新しい時間を一緒に刻んでいけばいいんだから」
由美は、渉の手にそっと自分の手を重ねた。その温もりに、渉は、自分が決して一人ではないこと、そして失われた時間は取り戻せなくても、未来はこれから築いていけるのだという希望を感じた。
◇◇◇
数年後の春。桜の花びらが舞う穏やかな午後。
渉は、自宅の庭で、小学生になった咲と一緒に、小さな家庭菜園の手入れをしていた。ミニトマトの苗に支柱を立ててやりながら、渉は娘に語りかける。
「咲、見てごらん。このトマトも、最初は小さな種だったんだ。でも、太陽の光を浴びて、雨水をもらって、時間をかけて、こうして少しずつ大きくなっていく。そして、やがて美味しい実をつけるんだ」
「ふーん。時間って、すごいね、パパ」
「ああ、そうだな。時間というのは、ただ過ぎていくだけじゃない。いろんなものを育て、成熟させてくれる、大切なものなんだ」
渉は、自分の言葉に、深い実感を込めた。
ふと、彼は庭の隅に置かれた姿見に目をやった。そこに映る自分の顔。目尻には笑いジワが刻まれ、額には思慮の跡がうかがえる。白髪も、以前より確実に増えている。だが、その顔には、かつての自信過剰な若者の面影はなく、穏やかで、満ち足りた表情が浮かんでいた。
(悪くないな、この顔も)
渉は、鏡の中の自分に向かって、静かに微笑んだ。それは、老いを受け入れ、時間と共に生きることを選んだ男の、確かな肯定の笑みだった。
「パパ、次は何を植える?」
咲の声に、渉は現実へと意識を戻す。
「そうだな。次は、咲の好きなイチゴでも植えてみるか」
「やったー!」
娘の歓声が、春の柔らかな日差しの中に響き渡る。渉は、その声を聞きながら、空を見上げた。時間は今日も、優しく、そして確実に流れている。その流れの中で、愛する家族と共に、一歩一歩、未来へと年輪を刻んでいく。その日々の営みこそが、彼が見つけ出した、人生の本当の豊かさなのだ。
もう、若さという幻影に惑わされることはない。逆井渉の人生は、成熟への回帰を経て、再び、未来へと確かな歩みを始めたのだから。
人々の「若返りたい」という願いと、年を経ることの素晴らしさの対比を描きたいなと