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いなくなれ

作者: 碧川亜理沙

ひと区切り、なので、供養。



 私はただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。その様子を、先輩は穏やかな表情で見つめている。

 先輩はいつからそんなことを考えていたのだろう。何故そんなにも穏やかに、当たり前のことのように言うのだろう。


「先輩……」

「分からないよね、普通」


 誰にもわからない。

 先輩は少し悲しそうに視線を下げた。

 

 分からない。先輩の考えていることも、これから起こるであろうこともーー。

 そして、その時自分がどう動くのかなんて。


 そんな先のこと、誰にもわかるはずがない。



 ────────────────────


 

 全ての始まりはあの日。

 私が28歳になりたての頃届いた、一通のメールだった。


 その日は、以前同じ職場で働いた杉内さんと一緒に、スタジオにこもり打ち合わせをしていた。

 ちょうど打ち合わせが終わった午後8時過ぎ。携帯に一通のメールが届いていた。


『久しぶり』


 そのメールの相手は、高校時代の部活の先輩だった。私はすぐにメールを開く。

 内容は、近々会えないかとのことだった。

 

 先輩とは、高校から今も頻繁に連絡を取り合う仲だ。お互いの休みが合えば食事や買い物にだって行く。自慢する気はないけど、後輩の中では私が一番先輩のことを知っているんじゃないだろうか。

 けれど最近、先輩との連絡が途絶えていた。私もちょうど、大きな仕事があったので、なかなか連絡を取れなかった。それからの先輩からのメール。久しぶりでかなり嬉しい。


 私はすぐさま先輩にメールを返す。まるでメールが待ちきれない彼女のようにそわそわしている私を見て、杉内さんがからかってきた。が、それを無視し、私は携帯片手に帰り支度を整える。


 帰り道、杉内さんと途中で別れひとり鼻歌交じりに歩いていると、先輩から返事が来た。


「よっし!」


 明日の夜、先輩と会うことになった。

 ひとり暗い帰路でガッツポーズを取る私。慌てて周囲を見渡したが、人の気配はなし。誰かに見られていたら変人扱いされるところだった。だが、それだけ嬉しさがあったということだ。

 早く明日にならないか。


 その時は浮かれていた。


 数ヶ月後の自分に言いたい。

 

 あの時、なぜその頼みを二つ返事で受けたのかと──。



 *   *   *   *   *


「先輩!」


 翌日、約束の時間に先輩はもう来ていた。

 数ヶ月ぶりなのに、何年もあっていなかったような気分になる。

 先輩はいつものように少しラフな格好だった。


「久しぶりだね」


 私とは打って変わって、静かに喜びを表してくれる先輩。

 少しはしゃぎすぎたかな、そう思っても嬉しさは隠しきれない。


「夜なのにまだ暑いね。早くお店に入ろうか」


 そう言って、先輩が予約してくれた店へと足を進める。


 先輩と一緒に吞むときは、だいたい大衆居酒屋に行くことが多い。

 あのがやがやした雰囲気が好きなのだという。

 だけど、今日予約した店は、半個室の落ち着いた雰囲気のお店だった。

 何年か前に一度だけ訪れたことがある、おしゃれな印象のあるお店だった。


 店に入り、店員に席を案内してもらって、こじんまりとした空間に腰を据える。


「先に飲み物とか頼んでしまおう」


 メニュー表を手に取った先輩に返事をし、私はビールを、先輩はカクテルを頼んだ。

 そして飲み物が届き、「じゃあ、お疲れ様」とグラスを鳴らし、一気に飲み物を飲む。


「ぷふぁ」

「ふふ、喉でも乾いていたの?」

「え、あ、そうかも。思ったより暑かったのかもしれないですね」


 気づけばジョッキ半分くらいまで減っていた。

 その様子を先輩は微笑みながら眺める。

 さすがに勢いよく飲みすぎたので、2口目以降はほどほどに飲んでいった。


 料理が運ばれてくると、私たちは適度につまみながら、世間話に花を咲かせた。

 と言っても、7、8割ほどは私が話していて、先輩は基本聞き役に回っていたのだけれど。

 それでも久しぶりに先輩と会えた嬉しさで、口は全然止まらない。近況報告やら最近あったこと……ゆうに2時間くらいは話していたんじゃないだろうか。


 私の話がいったん落ち着いたあたりで、2人で飲み物のおかわりを頼む。


「何かすいません……私だけ話しちゃって」

「いいよ、全然。それに私、君の話を聞くの好きだし」


 嫌な顔せず、そんなことを言ってくれる先輩。

 昔からそうだ。

 先輩はいつもこうやって周りの人たちの話を聞いてくれる。ときおり相槌や合いの手を入れながら、相手の話を聞いてくれるのだ。


「……そういえば、先輩。何か話があるって言ってましたけど」


 お代わりの飲み物が届いたところで、私はふと今日集まった本題に入る。


 もともと今日は、先輩から会えないかと誘われてきたのだ。

 相談事がある、と言って。


 私が切り出すと、先輩は「そうなの」と言ったまま、しばらく口をつぐんでしまった。

 どことなく話ずらそうな雰囲気に、私はどうしようと、ただ黙って先輩の様子を見守る。


 多分、そんなに時間は経っていない。

 少しして、意を決した先輩が、「あのね」と口を開いた。


「あのね、君に仕事として、ひとつお願いしたいことがあるの……」



 ────────────────────



 ──7月の中旬。


 私たちは、長野の山奥にいた。


「うわー、すごい……」

「さっきから、それしか言ってないよ」


 目の前に広がる光景に、私はすごいという言葉しか出てこない。

 木々が立ち並び、その隙間からチラチラと覗く青空。そしてそこから陽の光が差し込み、幻想的な景色を生み出していた。


「7月なのに、涼しいですね」

「そうだね。前に来た時は冬の初めあたりだったけど、この時期の景色も綺麗だね」


 どうやら先輩は、前にも一度来たことがあるらしい。

 私は初めて来たから、見るもの全てが新鮮だ。


「少し歩くけど、奥にお参りできるところがあるから、そこまで行こうか」

「はい」


 私は首から下げたカメラを持ち直して、先を歩く先輩に着いていく。



 *   *   *   *   *



『写真を、撮って欲しいの』


 先日会った際に頼まれたことを思い返す。


 先輩は、私に写真を撮って欲しいと言った。


『少しの間……そうね、7月の、だいたい2週間くらいかな。きみに仕事を頼みたいの』


 先輩から仕事として写真を撮って欲しいと言われたのは初めてだった。

 私はカメラマンとして仕事を請け負っていて、ちょうど大きな仕事がひと段落ついた頃だった。

 なので、先輩の話を断る理由はない。

 だけど突然の話で、私は理由を尋ねた。


『……大したことじゃないよ。ただね、今さらになって、何か残そうかなって思っただけ』


 先輩はそれ以上は話さなかった。

 私もそれ以上は聞かなかった。

 何となく、踏み込んで聞いて欲しくないような雰囲気を感じたから。


 それに仕事とはいえ、この話は私にとっては先輩と会えるのだから、余計断る理由もない。

 二つ返事で、私は先輩の話を受けた。



 *   *   *   *   *



 予定は全て、先輩に任せている。

 私は先輩について周り、写真を撮るだけ。


 でもまさか、初日からいきなり島根に行くとは思っていなかった。


『何日か分の旅行用の荷物をまとめてきてね』


 事前にそう言われていたから、おそらくどこか別の場所に行って写真を撮るのだろうとは推測できた。

 でも、まさかの島根である。

 そして、島根の出雲に2、3日滞在後、今度は長野──今私たちがいる場所である。


「晴れてよかったね。出雲はあいにくの雨だったから、あまり綺麗に撮れなかったんじゃない?」

「視界はあまり良くなかったですよね……。でも、割と雰囲気がある写真は撮れたので、個人的には満足してます!」


 時折立ち止まり、風景や先輩の写真を撮りながら、私たちはゆっくりと道なりに歩いていく。

 周りには、私たちの他にも観光客が結構いて、それぞれのグループごとに歩みを進めていた。


 しばらく歩くと、社や社務所が見えてきた。

 私たちはここで一息つきながら、お参りをする。

 最近ハマっている御朱印集めも忘れることなく、私たちは少しの間その場にとどまった。


「ん、おいしい!」

「本当だね。出雲で食べた蕎麦ともまた違って、こっちもおいしいね」


 その後近くにあったからくり屋敷に足を踏み入れ、かれこれ1時間ほど、仕掛けが解けずに先輩と頭を悩ませた。

 ようやく外に出られた私たちは、遅めの昼食にありついていた。


「先輩、この後どうしましょう?」

「そうねぇ……今私たちは1番上の奥社にいるから、下りながら他の場所を見て回ろうかな」

「歩くんですね」

「うん、そうだね。でも早めにバスに乗って、ホテルに帰ってもいいかなって思ってるんだ。明日にはまた移動したいから」


 私は先輩から、次にどこに行くかを聞いていない。

 もちろん先輩は、初日に教えようとしてくれたけれど、それを私が断った。

 だって、次にどこに行くのか、知らない方がわくわくが大きいもの。


 仕事で来ているのに、なんかすごく楽しんでしまっている気がする。


 悪いことではないけれど、やる時はきちんとやらなければ。写真を撮る時だけは、妥協せずに対応していきたい。


 気を付けようと内心決意しつつ、ささっと昼食を済ませる。

 そして山を下りるように他の神社を回りながら、私たちは遅くならないうちに、バスに乗りこみホテルへ戻って行った。



 *   *   *   *   *



 2週間と聞いて、意外と長いと思っていたのに、気付けば残り3、4日という日数に減ってきていた。

 島根、長野と進んだあとは、青森、京都と各県を回り、今私たちは埼玉にいる。


「暑っついですね……」

「梅雨明けちゃったからね、関東。それに平日とはいえ、そろそろ夏休みだからかな、人も多い気がするし」


 炎天下の中、私たちは日陰に避難して水分補給をしていた。

 つい先日、梅雨が明けたばかりの関東は、一気に真夏の空気を出してきた。


「カメラ、大丈夫? あんまり暑いと良くないって聞いたけど」

「冷却グッズは持ってきてるので、今のところは大丈夫です。ただ、ひなたで長い時間撮り続けるのはちょっと……」

「なるべく建物内か日陰がいいよね。私たちですらひなたは避けたいもの」


 特に行く先を決めていた訳でもない私たちは、携帯を取りだして最寄りの涼める場所を探す。

 結局、よさそうなところは多くの人が集まっており、私たちは少し歩いた先にあった博物館に入った。

 それなりに人はいるものの、直射日光が当たらないと言うだけでずいぶん涼を感じる。


「駅に戻る時は絶対タクシー乗りましょう! 暑い中歩きたくないです」

「そうだね。むしろ早めにホテルに戻っちゃう? 明日はまた移動するから、もう今日は涼しい場所で早めに休んでもいいかも」

「賛成です。でもせっかく博物館に入ったので、軽く見てから行きません?」

「そうね。じゃあ、タクシーだけ予約してから、中見ようか」


 それから小一時間かけて、私たちは博物館内を見て回った。

 楽しいとか、おもしろいとか、そんな感想よりも先に「涼しい」が口を出てしまい、涼むついでに見学という流れになっていた。


 その後は博物館を出て、予約していたタクシーに乗り込み、早々にホテルへと戻った。

 やはりホテル内は快適で、その日は荷物整理をしながらのんびりと室内ですごした。



 次の日も快晴。

 暑い暑いと言いながら、私たちは移動のため電車に乗り込む。


 これから目的地は、横浜。

 電車に揺られて1時間30分ほど。想像以上に近い。


 着いたのは昼前。

 暑さ真っ只中だけど、今日は風が吹いているので、ほんの少しだけましな気がする。


「先輩、これからどこに行くんですか?」


 横浜駅を出て、携帯の地図アプリを元に先を歩く先輩に尋ねる。

 まずはホテルに荷物を置きに行くのだけど、そのあとの予定は聞いていない。


「そうねぇ……暑いから涼しいところに行きたい気もするけど、そろそろお昼も食べたいよね」

「はい、お昼は食べたいです!」


 元気よく答えた私。先輩の笑った声が聞こえる。


「うん、じゃあ食べ歩きしようか」



 ホテルに荷物を預け、また歩いていくこと30分ほど。

 私たちはかの有名な中華街にやってきた。


「うわぁ、すごい」

「ザ・中華街って感じだね。来るのは初めて?」

「はい。そもそも横浜自体初めてです。先輩は?」

「私はライブとかで何度か来たかな。でもこっちは初めて」


 大きな門を通っていくと、たくさん人が集まる場所が見えてきた。

 そこはたくさんの飲食店があり、レストランはもちろん、食べ歩き用のお店もたくさん並んでいる。

 どれもおいしそうで、次から次へと目移りしてしまう。


「どうしよ、全部食べたい……」

「ははっ、さすがに無理あるよ。じゃあ、さっそく食べに行きますか」

「はい!」


 今日ばかりは、写真を撮るのを忘れてしまうくらい、たくさん食べた。

 途中路地の方で行っていた実演販売を見たり、いろんな小籠包の食べ比べができたり……とにかく食の天国かと思うくらい、おいしいものをたくさん食べた。


「さ、さすがに苦しい……」

「結構食べたね」


 2、3時間ほど、中華街を歩き回り、ついでにたくさん食べた。足も疲れたけれど、お腹もはち切れそうなくらい食べた。もうしばらく食べなくてもいいくらい。


「ちょっと休憩できるところ探そうか。それとも、もしまだ歩けそうなら海の方にでも行かない?」

「あ、海いいですね。消化するためにも行きたいです」


 先輩の提案に乗り、私たちはまた歩いた。

 ここから近くの海が見えるところ、またまた有名な赤レンガ倉庫へとやって来た。


 平日とはいえ、たくさんの観光客がいる。

 少し雲が出てきたからか、海風のおかげなのか、暑いことに変わりはないけれど、少しだけ涼を感じ取れる。


「あ、船だ。客船なんですかね」

「どうだろう……あ、あっちの方がそれっぽくない?」


 船が停まっており、その実物の大きさに思わず感嘆の声が出る。

 一生乗ることのなさそうな大きな船。私は思わずカメラのシャッターを押す。


「赤レンガ倉庫の中、座れそうなお店あるみたいだけど行く?」

「行きましょうか。あ、でももう少しだけ写真撮っても良いですか? 良かったら先輩も写って」

「……私は、いいかな。風景を撮ってくれると嬉しい。じゃあ私、少しあっちの方にいるから、ゆっくり撮ってね」


 そう言って先輩は、四阿のようなものがある方面へ歩いていってしまった。


「……」


 私はそっと、その後ろ姿をシャッターに納める。


 約2週間で、先輩が写った写真は数える程のはずだ。それよりも行った先々の風景を撮った枚数の方が多いはず。

 もともと先輩は、集合写真以外など、ひとりで写真に写るのは好きじゃないはずだ。だから今回の仕事としての依頼も、あくまで風景をメインに撮って欲しいと言われていた。先輩の好みの問題は、高校時代から知っていたので、初めは何の疑問も持たずに二つ返事で返していたけれど……。


「こんなにたくさん、どうするんだろう?」


 約束の期間まであと2日ほど。

 この2週間ほどの写真たちの使い道を、私は知らない。


 ──最後に先輩に聞いてみようかな。


 さすがにここまで付き合って、何も知らないままだと、後々気になって仕方がないと思う。

 私は今日か明日にでも、先輩に聞いてみようと決めた。





 それからもう何枚か写真を撮り、区切りが良いところで、先輩と赤レンガ倉庫のカフェでひと息ついた。

 その後の予定も特に組まないまま、だらだらと時間を潰し、だんだんと日が落ちてきた。


「確か夜景とか綺麗なところあるよね。それ見ながらホテルに戻ろうか」


 長いこと椅子に座って休んでいたから、なかなか立ち上がるのに勇気がいったけれど、何とかゆっくりと動き出す。

 まだ夜も全然初めだけれど、ずいぶん日が長い。夜景を見るには早すぎる時間だ。


「完全に日が落ちないと綺麗に光らないよね」

「完全に真っ暗になるの19時過ぎですよね。ごめんなさい、私今日は早めに休みたいかもです」

「ううん、私も今日は疲れたよ。……もったいないけど、今日はもうホテル戻ろうか」

「すみません……また次に来れたら絶対見ましょうね!」

「……そう、だね」


 少しだけ寂しそうに笑う先輩。不思議に思ったけれど、すぐにいつも通りの先輩に戻ったので、私は深く追及することはなかった。


 だけど、この時、何か聞いておけばよかったのだろうか。

 私の言葉を、先輩はどんな気持ちで聞いていたんだろうか。



 *   *   *   *   *



「疲れたー……」


 ホテルに着くやいなや、私はそのままベッドにダイブする。

 1度寝転がってしまうと、起き上がるのが辛いくらい、今日はいつになく疲れていた。


「先にシャワー浴びちゃったら?」

「はーい……あ、先輩お先にどうぞ」

「いいの? 私先だと、君絶対寝ると思うよ」

「大丈夫ですぅ……」


 そうは言いつつも、私の目はそろそろくっつきそう。カバンの整理とか、カメラをちゃんとしまわないとと思いつつ、襲ってくる眠気に抗えない。

 周りで先輩が動く音が聞こえる。私と違って、先輩はどんなに疲れていてもちゃんとお風呂に入るし、身の回りの整理もしてくれる。


「じゃあ、先にシャワー浴びさせてもらうね。君も寝るならせめて荷物片付けてからにしようね」


 自分で返事をしたのかも怪しい。

 そのまま私の意識はすうっと落ちていった。





 何かの物音で意識が浮上する。

 寝ぼけ眼のまま起き上がると、小さな備え付けの机に向かって、先輩が座っていた。


「先輩?」

「あ、起きた? 悪いけど、君の荷物ベッドの脇の方にまとめておいたよ。シャワー浴びる? 浴びなくても、せめてメイクくらいは落とした方いいと思うよ」


 私が起きたのを確認した先輩は、またいろいろ私の身の回りの整理をしてくれる。

 まだぼうっとした頭のまま携帯を開くと、時刻は22時を過ぎた頃。どうやら2時間ほど寝ていたようだ。


「どうする? シャワー浴びる?」

「浴びます……」


 このまま寝れそうな気もするけど、さすがに日中汗をかいたので、洗い流してしまいたい。

 私は先輩が準備してくれた寝巻きやタオルを手に、部屋に備えられている浴室へと向かった。


「お風呂中ごめん。私、ちょっとコンビニまで行ってくる。何か欲しいものある?」


 先に歯を磨いていると、先輩が外から声をかけてきた。

 私は特に欲しいものもないので、大丈夫だと伝えた。


「じゃあ、ちょっと出てくるね」


 そう言って、先輩が部屋を出ていく音が聞こえた。

 何を買いに行ったのかは分からないけど、私が浴室から出ることにはきっと帰ってくるだろう。





「……あれ?」


 シャワーを浴び終えて浴室から出ても、先輩の姿はまだなかった。あれから30分くらいは経ったと思っていたけれど。

 コンビニなら、このホテルの近くにあるはずなのに、先輩はどこまで行ったのだろう。


 心配にはなるけど、先輩だって携帯を持って出ていったはずなので、何かあれば連絡がくるはず。

 ひとまずテレビをつけて、先輩が帰ってくるのを待つことにした。


「……」


 その時、ふと小さな机の上に目がいく。

 そこには、この2週間、夜になると先輩が欠かさず何か書いていたノートが置いてあった。

 何を書いているのか、以前聞いたことがある。

 その時は、最終日にでも教えてあげるって言われたっけ。すっかり忘れていたやり取りを思い出した。


 本当なら許可なく勝手に見るのはダメだと分かっている。

 でも、後から思うと、見てしまってよかったのかもしれない。




『もうすぐ。もうすぐ私は、この世界からいなくなることができる』


 


 適当に開いたページ。

 偶然目に止まったその文章を思わず注視した。

 まるで小説の一文のようにも感じる文章。

 先輩は高校の頃から創作小説をいくつか書いていたから、これもそうなのかなと考えた。


 普通なら、そう考える。


 だけどこの時の私は、何故か素直にそう考えれなかった。

 短いながらも2週間、ほぼ毎日先輩と一緒にいたからかもしれない。何か予感めいたものがあったのだろう。


 私は適当にノートをめくっていく。

 それは日記帳のようで、始まりはちょうど1年ほど前の日付になっていた。


『夢見たい。でも、これは現実だ。私の願いが叶うのだから』


 滑るように文章を読み、どんどんページをまくっていく。


 ちゃんと読んだわけではない。

 だけどそこには、もうすぐ先輩がいなくなってしまうという話が書いてあった。


「戻ったよー。遅くなってごめんね。欲しいものがコンビニになくて、ちょっと先のドンキに行ったら遅くなっちゃった。あ、アイス買ってきたけど、良かったら食べる?」


 目の前のノートに集中しすぎていて、先輩に声をかけられるまで、戻っできたことに気付かなかった。


「あれ、そんなところに突っ立ってどうしたの? こっちに座ってアイス食べよう」

「……先輩」


 私はノートを手に持ったまま、先輩の方を見やる。

 私の声色を不審がって、顔を上げた先輩の視線が私の手元に移る。

 そして、私の顔を見て、困ったように笑った。


「あら、私机の上に置きっぱなしにしてた? しまったつもりになってたのかな」

「先輩……あの、これ……」

「読んだ?」


 その言葉に、私はこくりと頷く。

 勝手に見たと怒られるのか、先輩の機嫌を損ねてしまう行為。だけど先輩は、「そっか」とだけ。なんの感情も感じさせない返事をするだけ。


「……あ、あの、これ、先輩が作ったお話ですよね……? この日記みたいな話、先輩が作った物語ですよね……?」


 そうであって欲しい。その思いが強かった。

 けれど先輩は、否定するでも肯定するでもなく、困ったような表情をするだけ。

 かれこれ10年近くの付き合いになる。先輩の性格もある程度知っている。

 これは、私にどう話をすればいいのか迷っているんだ。そもそも、先輩が私の話を否定しなかった時点で、私の手元にあるノートは、創造の話なんかじゃない。


「……いなくなるって、どういうことですか」


 喉がはりついて、上手く声が出ない。

 思ったよりもか細く出た声に、先輩は「そのままの意味だよ」と答えた。


「この世から、綺麗さっぱり忘れ去られるの。私という存在をね、消してもらうの。初めから、いなかったみたいに」


 なんてことなく話す先輩。

 先輩の言っていることは分かる。だけど、頭が理解を拒む。


「何で……何で、そんな……」

「何でかぁ……改めてそう聞かれると、答えに困るんだよね。だって、ただいなくなりたい、って思っているんだもの。いなくなりたい理由聞かれても、そうだからとしか言えないかな」

「……それって、先輩が死んじゃうってことですか?」

「んー、どうなんだろうね。どちらかというと、存在が消えるっていうのかな。私がいたこと自体を、なかったことに、元から存在していなかったことにしてもらうの」

「……して、もらう?」

「うん、そうだよ。そうお願いしたの、カミサマに」


 もはや先輩の言葉が呪文のように聞こえてきた。

 カミサマにお願いして、存在を消してもらう。そんなの、小説や漫画の世界でしか聞かない話。それなのに、先輩はただ淡々と話す。それが事実であるように。


「他に何か聞きたいことある? あ、アイス食べながらにしようか。さすがにそろそろ溶けちゃうよ」


 何も言えない私をよそに、先輩はいつもと変わらない態度だ。

 いなくなりたいなんて考えているとは露とも感じない、いつもと変わらない先輩。


 聞きたいことなんて山ほどある。

 何で、何で、何で。

 だけど、喉に言葉がつっかえて、その疑問は口から出てきてくれない。


 つけていたことを忘れていたテレビの音が耳に入る。

 先輩はベッドのふちに腰掛けて、アイスを食べながらテレビを観ている。

 あまりにも日常なその光景に、今話した内容が嘘のように思える。

 


 結局、私はあれ以上、何も聞けなかった。

 ううん、まだどこか半信半疑だったのだ。

 先輩がいなくなるなんて。カミサマにお願いしたなんて。

 だけどもしかすると本当に、先輩は急にいなくなってしまうかもしれない。

 明日からしばらくは、気をつけて先輩のことを見ていよう。

 そう思いながら、日付が変わった頃、私たちは就寝した。





 次の日、隣のベッドに先輩はいなかった。



「……先輩?」


 蒸し暑さを感じて目を覚ました。

 時間を確認しようと携帯を探す中、ふと隣のベッドを見る。

 違和感を覚え起き上がると、隣のベッドには誰もいなかった。


 それだけではない。

 先輩の荷物も見当たらない。私の分しか、ないように見える。


「え、先輩……?」


 昨夜の話が脳裏を掠める。

 私は一気に目が覚め、ベッドから飛び降りる。

 室内をくまなく探すも、先輩の荷物はひとつもない。来ていたであろう浴衣も、ベッドの上に綺麗に畳まれて置いてある。

 唯一、机の上に昨日の先輩のノートが置いてあるだけ。


 ──まさか、本当に……?


 携帯を手に取り、先輩の携帯へコールする。

 だけど電源を切っているのだろうか。無機質なガイダンスが流れてくるだけ。

 ひとまず留守番電話に連絡が欲しいということを吹き込み、私は急いで支度を整える。



「お連れ様でしたら、今朝早く、先に立つと伝言を残されご出発されましたが……」


 ホテルのフロントへチェックアウトついでに尋ねると、先輩が既にホテルを後にしたことを知った。

 私は数分おきに先輩の携帯に連絡をいれるが、一向に返事はない。


「先輩が行くところ……」


 先輩が行きそうなところを考える。

 だけどこの2週間、行く先を決めていたのは全て先輩だ。この次だって、どこへ行くか話を聞いていない。


「あ、何か……」


 私は先輩が残していったノート取り出し、ヒントがないかと読み出す。

 だけど、これと言ってそれらしき場所は書かれていない。


「どうしよう、どうしよう……」


 駅方面へと向かいながらも、私は一向に連絡が取れない先輩の行きそうなところを考える。

 だけど悲しいかな、どれだけ考えたところで全然思い浮かばない。


「先輩、本当にいなくなっちゃう……」


 もはや泣きそうだ。

 昨日は半信半疑だったのに、今こうして実際に先輩の姿が見えないことで、本当の話なんだと思ってくる。

 ちゃんと話を聞けばよかったかな。

 いなくならないでって、引き止めればよかったかな。


 後悔先に立たず、とはこのことかな。

 どんどんこうすれば良かった、ああすれば良かったのにと、取り留めのないことを考える。その時間が無駄なのに。


「先輩、いなくならないで……!」



 だけど、その日先輩と連絡は一切取れず、また、その行方も分からなかった。


 すぐに動けるようにと、その夜は空いていたネットカフェで一夜を過ごすことにした。

 もしかすると、先輩から連絡が来るかもしれない。期待して、携帯は肌身離さず持っていた。


 しかし、深夜になっても、なんの音沙汰もなく。

 先輩の残したノートを何度も読み返したけれど、これと言ってヒントになりそうなものもなかった。


 ノートは、本当にただの先輩の日記だった。

 意図して書いていたのかどうかはわからないけれど、先輩がいなくなりたいって言っていた理由は、どこにも書いてなかった。

 その日あったことが連ねてあるだけの日記だ。


  ──先輩、どこにいるんですか……。


 私はネットカフェの個室のリクライニングを倒して目を閉じる。

 明日──日付が変わって今日だけど、また先輩の行き先を考えよう。

 気が動転していたけれど、もしかしたら朝早くなら先輩のことを見かけた人がいるかもしれない。駅員さんや近くのコンビニの店員でも、聞いてみるのもありかもしれない。

 まだ諦めるには早い。できることはあるはずだ。


 そう決意を胸にして、仮眠しようとそのまま目を閉じた。





 ──翌朝、全身バキバキの体を伸ばしながら、どうしてネットカフェで寝ているのだっけと頭を傾げた。


 そして、手に持っていたノートを開いて、さらに首を傾げる。


「こんな日記、私、書いたことあったっけ?」



 ────────────────────



 7月が終わり、暑い暑い8月に入った。


 私はパソコンの前に座り、撮った写真を確認しながら、使えそうなものを何枚か選んでいく。


「あ、これもだ。……やっぱり、同じ人だよなぁ」


 その中で、私は何枚かの写真に写る、見知らぬ女性に首を傾げていた。


 カメラ目線の写真はほとんどないけれど、後ろ姿や横顔など、様々な場所で写真に写るひとりの女性がいた。

 ひとつの場所なら何となく行く方向が同じだったんだなって分かる。

 だけど明らかに景色も違うし、その女性の服装も違う。そんな写真が何枚かあったのだ。


 一瞬心霊写真かと思ってしまったけど、ちゃんと足もあるし、影もある。どこからどう見ても、生きている人だ。

 それなのに、まるで一緒に行動しているかのように、行く先々で写る女性。


「それに、なんか見覚えあるような……」


 記憶を呼び起こしてみるけれど、結局それらしき人は思い出せない。

 何度か見てみるけども、やはり誰か知っている人に似ている気がする。


「……」


 もやもや感が消えないけれど、私は引き続き、たくさんの写真たちを見ていく。

 少し悩んだけど、女性が写っている写真は、何枚か保存をしてプライベート用に格納した。

 何となく、本当に何となくだけど、これは決して消してはいけない気がしたから。

 


 あまりすっきりとはしないまま、私はパソコンの画面とにらめっこを続けていった。




─終─





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