良い子の意味
エルヴェル家は、西の王国でも名門と称される貴族の家で、その広大な庭園と壮麗な館は誰もが羨むほどだった。この館には、二人の子供がいた。10歳の姉リリアナと、5歳の弟アルノだ。
リリアナは、愛嬌があり、どこへ行っても人々の目を引く。彼女は明るく、思ったことをすぐに行動に移す性格だったが、勉強や家のしきたりには興味を持たなかった。
度々問題を起こし、使用人たちを困らせていたが、それでも彼女の天真爛漫な振る舞いに、周りはつい笑ってしまう。
一方、弟のアルノは、幼さに似合わぬ落ち着きを持ち、何事にも真剣に取り組む非常に聡明な子だった。
彼はいつも冷静で、家のしきたりや勉強に熱心に取り組み、大人たちから「立派な子」と褒められていた。
だが、エルヴェル家では、いつも同じことが繰り返されていた。家族や使用人たちがまず「アルノ坊ちゃまは本当に素晴らしいお子様です」と褒める。
だが、その後は決まってリリアナへのお叱りが続くのだ。「リリアナお嬢様はどうしてこうも…」と、彼女の問題行動が取り沙汰される。
アルノが褒められるのは最初の一言だけで、すぐにリリアナに話が移ってしまう。そして、リリアナが問題を起こすたびに、家族も使用人も彼女のもとに駆け寄り、アルノはいつも一人にされるのだった。
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ある晩、エルヴェル家では貴族たちを招いた晩餐会が開かれていた。豪華なテーブルセッティングに彩られた広間には、上流階級の貴婦人たちが集い、上品に談笑していた。
両親は、この晩餐会を成功させるために、子供たちにもお行儀よくするようにと厳命していた。
アルノは両親の期待に応え、礼儀正しく席についていた。大人たちの会話に耳を傾けながら、静かに食事を取っていた。
一方、リリアナは食事が退屈だと言って、そわそわと落ち着かない。ついにはワインを倒し、テーブルクロスに赤い染みを作ってしまった。
その瞬間、使用人たちは慌ててリリアナのもとに駆け寄り、両親も彼女に注意を向けた。「リリアナ、お行儀が悪い!」と母は顔をしかめたが、すぐに優しく彼女の手を取り、衣装を直してやった。
アルノはその様子を黙って見つめていた。誰も彼に何も言わず、彼が静かにしていることを当然のように受け入れていた。
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エルヴェル家では、二人の子供にそれぞれ家庭教師が付いていた。アルノは小さな頃から学びに対して非常に熱心で、先生の質問にはすぐに答え、難しい課題も次々とこなしていった。
一方、リリアナは家庭教師の時間になると、必ずと言っていいほど逃げ出すのが常だった。
ある日も、リリアナは教室から抜け出し、庭で花を摘んで遊んでいた。アルノは集中して課題を解いていたが、庭の方からリリアナの笑い声が聞こえてくる。
それに気づいた使用人たちは、すぐにリリアナのもとに駆け寄り、「リリアナお嬢様、戻りなさい!」と叱った。しかし、彼女はふざけて逃げ回り、彼らを困らせるばかりだった。
その間、アルノは教室に一人残された。先生も使用人たちもリリアナに夢中で、アルノがどれだけ学びに励んでいるかを誰も気に留めなかった。
彼は一人、静かに課題を解き続けたが、その心にはぽっかりとした孤独感が広がっていた。
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家族で湖に遊びに行った日のこと。湖のほとりは穏やかで、青空が水面に映る美しい景色が広がっていた。
アルノはじっくりと湖畔の景色を眺め、自然の中で静かに過ごすのが好きだった。対照的に、リリアナはすぐに飛び跳ねて、湖のほとりを走り回って遊び始めた。
その日は、リリアナが誤って湖に片足を突っ込んでしまい、悲鳴を上げた。使用人たちは急いで彼女のもとに駆けつけ、濡れた靴やドレスを拭き、騒ぎになった。
「リリアナお嬢様、大丈夫ですか?」と大人たちが心配する中、アルノは湖の反対側で静かに本を読んでいた。
彼が一人で過ごしていることを誰も気にしなかった。家族はリリアナのことに夢中で、アルノは湖畔の静けさとともに、再び孤独を味わうことになった。
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アルノの6歳の誕生日がやってきた。エルヴェル家の大広間は華やかに飾られ、誕生日ケーキの上には輝くロウソクが立っていた。家族や使用人たちが集い、彼の成長を祝うはずの場だった。
しかし、10歳の姉リリアナは不満げな顔をしていた。ケーキを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「これ、私の好きな味じゃない…」
その声に反応するように、母がすぐにリリアナの方に顔を向け、優しく微笑んだ。「あら、リリアナ、気に入らないの?でも心配しないで。アルノなら、あなたに譲ってくれるわ。」
父もそれに続いて、「アルノは優しい子だから、君が好きなケーキに変えてもきっと文句は言わないさ」と笑みを浮かべた。
祖母も同じように、「アルノは本当に大人びているわ。リリアナに譲るのは当然よね」と言う。
周囲の使用人たちも「アルノ坊ちゃまなら、リリアナお嬢様に譲ってくださるでしょう」と一斉にうなずいた。
まるでそれが当然のように、家族や使用人たちはリリアナを優先し、アルノに譲らせることを期待していた。誕生日という特別な日にもかかわらず、誰も彼の気持ちを気にすることはなかった。
アルノは静かに皆の顔を見回し、手の中に握りしめた本を一瞬強く抱きしめた。
そして、家族一人一人にゆっくりと問いかけた。「母上、どうして僕の誕生日なのに、リリアナが優先されるの?」
母は一瞬戸惑いながらも、微笑んで言った。「だって、アルノは立派な子でしょう?お姉さんを大事にできる優しい弟だからよ。」
アルノは少しうつむき、次に父に目を向けた。「父上、僕が嫡男なのに、どうして僕が譲るのが当たり前なの?」
父は困惑した表情を浮かべながらも、「君はしっかりしているから、そうしてくれるだろうと思っていたんだよ」と、曖昧な答えを返す。
アルノはその言葉を黙って受け止めるように小さくうなずき、次に祖母に視線を向けた。「おばあさま、僕はまだ今日で6歳なのに、どうして僕がいつも譲らなければいけないの?」祖母は何も言えず、ただ戸惑った表情を見せるだけだった。
そして、アルノはリリアナの方にゆっくりと顔を向けた。彼の瞳は揺れるロウソクの光を映し出し、声はいつもより静かだった。
「リリアナ、どうしていつも僕に譲らせるの?」
リリアナは目を大きく見開いたまま、弟の言葉に答えることができなかった。彼女は今まで、弟がいつも黙って自分に譲ってくれていたことを当たり前だと感じていた。
しかし、今目の前で彼が自分に問いかけているその瞳には、深い悲しみと寂しさが滲んでいることに気づき、言葉を失った。
部屋全体が静まり返り、誰も彼の問いに答えることができなかった。
今まで『優しい』と言ってアルノに期待を押し付けてきたその重さが、ようやく皆の心に重くのしかかっていた。
『皆が言う良い子って、手間がかからない都合のいい子?』
アルノは再び視線を落とし、震える手で本をぎゅっと抱きしめた。その本は、彼にとっての唯一の心の拠り所だった。
誰も彼の寂しさに気づいてくれなかったことに、彼はもう言葉を紡ぐ力さえ失っていた。
彼はゆっくりと、音を立てないように席を立ち、そのまま静かに部屋を出て行った。誰も、彼を引き止めることはできなかった。
扉が静かに閉じられる音が、広間に残された家族や使用人たちの胸に重く響いた。
その夜、彼らは初めて、自分たちがどれほどアルノに無意識に厳しい期待を押し付けていたのか、彼がどれほど孤独だったのかを悟ったのだった。
アルノが静かに部屋を出て行った後、広間には沈黙が残された。ケーキのロウソクが微かに揺れ、彼が座っていた席にはまだ温もりが残っている。
誰もが彼の問いかけとその寂しそうな背中を思い返し、言葉を失っていた。
最初に口を開いたのは母だった。彼女は、ずっとリリアナを優先し、アルノに譲らせることが当たり前だと思っていた自分を振り返り、悲しげにうつむいた。
「私は…なんてことをしてしまったのかしら…。アルノはまだ6歳になったばかりなのに、いつも彼に譲らせていたのね。嫡男である彼の誕生日でさえも、リリアナを優先してしまった。アルノの寂しさに、全然気づけていなかった…。」
父も深い溜息をつきながら、椅子に背を預けた。
「私も、アルノがしっかりしているからと言って、甘えていたんだ。彼がたった6歳の子供だということを、すっかり忘れていたよ。リリアナはもう10歳になるのに、私たちは彼女をかばい続けて…アルノにばかり負担をかけていた。情けない話だ。」
祖母は震える手でテーブルをなでながら、小さな声でつぶやいた。
「アルノは、こんなに幼いのに、立派な子だと勝手に決めつけてしまっていたわ。彼が寂しそうに本を抱きしめていた姿が、今も目に焼き付いている…どうして気づけなかったのかしら。リリアナはもう10歳。お姉さんなのに、私はアルノにばかり我慢を強いてしまって…」
その後、使用人たちの一人が、泣きそうな表情で声を上げた。
「私たちも、アルノ坊ちゃまに頼りすぎていました…。お坊ちゃまが大人びて見えるから、いつも譲るのが当然のように感じてしまっていました。でも、アルノ坊ちゃまはまだ小さなお子様です。5歳の坊ちゃまに、私たちは重い荷を背負わせすぎていたんです…」
別の使用人も、重い口を開いた。
「リリアナお嬢様が問題を起こすたび、アルノ坊ちゃまを後回しにしてしまっていたことを、今思い返して恥ずかしく思います。お坊ちゃまはいつも我慢していたのに、私たちはそれに甘えていました。彼が寂しかったことに、どうして気づけなかったのでしょう…」
リリアナは弟が去って行った扉を見つめたまま、両手を握りしめて涙をこらえていた。これまでの自分の行動が弟をどれだけ苦しめていたのか、ようやく分かったからだ。
彼女はしばらくの間、沈黙を保っていたが、ついに意を決して口を開いた。
「私は…どうしてこんなにわがままだったんだろう。アルノはいつも私に譲ってくれてたのに、私はそれを当然だと思ってた…。私、お姉さんなのに…弟にばかり我慢させて…。」
彼女の涙が、ポタポタとテーブルに落ちた。誰もその涙を止めることはできなかった。
母は深く息を吸い込み、決意を込めた声で言った。
「これからは、アルノをちゃんと見守るわ。彼はまだ幼い嫡男だし、リリアナはもう10歳のお姉さんなの。二人を比べるのではなく、それぞれに合った責任と愛情を注がなければいけない。そうでなければ、家族として失格だわ。」
父も頷きながら、言葉を続けた。
「我々は、リリアナを甘やかしすぎていた。そして、アルノに過剰な期待をかけすぎていたんだ。これからは彼が嫡男としての役割をしっかり果たせるよう、適切に導いていくべきだが、同時に6歳の子供らしい愛情も与えていかなければならない。リリアナにも、姉としての自覚を持たせていかなければならないな。」
祖母も、静かにうなずきながら言葉を添えた。
「そうね、アルノにもっと寄り添わなければ…。リリアナも、少しずつでもお姉さんとして成長してもらわないといけないわ。」
その夜、エルヴェル家の人々はそれぞれ深く反省し、これまでの自分たちの振る舞いを振り返った。そして、アルノの寂しさを思い、もう二度と彼を孤独にさせないことを心に誓った。
翌朝、家族と使用人たちは、アルノの部屋を訪れることを決めた。全員が、彼に心からの謝罪を伝え、これからは彼を大切にし、リリアナも自分の役割をしっかり果たすことを約束しようとしていた。
それは、家族が新しい一歩を踏み出すための大切な始まりだった。