涙の婚約破棄
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ギル・フォン・ストラウス王子は目の前の公爵令嬢メリー・アン・シングルトンに対して「メリー・アン・シングルトンきみとのこんやくは、はきとさせてもらう」
と言った。
ギルが五歳、メリーが二歳の時の出来事だった。ギルの目には涙が溢れ今にも零れ落ちそうだった。ギルはメリーが可愛くてしようがなかった。生まれた時から婚約者だったのだ。赤ん坊の時から遊んでやり離乳食も食べさせた。ハイハイも自分の後をついてくるのが可愛くて手を広げ待っていたものだ。飛び込んでくるメリーの可愛さと言ったら筆舌に尽くせないものがあった。
公爵夫人は王妃と友達だったのでしょっちゅう遊びに来ていたのだ。保育メイドよりギルに懐いていたと言っても言い過ぎではない。
「ギルこんやくはきってにがいものなの?なみだがでてる。にがいのはわたしもきらい。なかないでね、はんかちでふいてあげるから」
二歳のメリーは紫色の髪に金色の大きな瞳をしたそれはそれは可愛い美幼女だった。
「にがいものだよ、ずっとくちのなかにのこってしまう」
「このキャンディをたべてもなおらないの?」
「メリーがそばにいてくれたらなおるかもしれないけど、もうそれはできなくなった」
「メリーはギルがだいすきだからずっとそばにいてあげる」
ギルは愛しいメリーをぎゅうっと抱きしめた。
隣国との有利な交渉のために政略結婚が決まった。相手は隣国の第三王女、会ったこともない相手だった。
二つ上の七歳らしい。綺麗な王女らしいがメリーの可愛さには負けるだろうと思っている。メリーとの婚約はなかったことにされた。メリーに瑕疵がつくからだと言う。大人の勝手な言い分に怒りを覚えるギルだった。
こうなったら自分の力で婚約をなくしてやろうと企むギルに誰も気づくことはできなかった。大人達は子どもの方など向いていなかったのだから。
反抗する態度を見せるために部屋に閉じこもった。できる限りのお菓子を部屋に持ち込み、飲み水も必要なので蓄えておいた。お風呂やトイレはある部屋なので問題はない。こうしてギルの籠城生活が始まった。
最初に気がついたのは専属の侍女だった。「殿下、おはようございます。お着替えをいたしましょう。今日の朝食は殿下のお好きなクロワッサンとポタージュスープでございます」
「ほしくない」
「どこか具合がお悪いのですか?熱でもあるのでしょうか?お腹が痛いのですか?」
「・・・」
扉の外から声をかけてみたが、開くことはなかった。護衛が声をかけても、母の王妃が声をかけても答えは同じだった。心配になった王妃は護衛に鍵を持ってこさせ部屋に入ることにした。扉を開いた途端バリケードのように椅子が重ねられていて、簡単には中に入れないという我が息子の意思がわかり、王妃は驚いてしまった。
「ギル、お話をしたいのだけどいいかしら。このままでは死んでしまうわ」
「いまさらぼくのはなしなどきいてもしかたがないでしょう。ぼくはくにのためのこまです。だからしなれたらこまるのですよね」
「そんなことはないわ。メリーちゃんとの婚約を勝手に破棄したことは謝るわ。とにかく部屋に入れて頂戴、こんなところで話すことではないから」
ギルは仕方なく王妃を部屋の中に入れた。
息子のやつれた顔を見ていたら母親として涙が零れそうになり、慌ててハンカチで目頭を押さえてしまった。急いでお腹に優しい食事を持ってくるようメイドに指図した。
「王族としてわたくしたちには義務があるのよ、どんなに納得できないとしてもね。こんな形で抗議するのは良くないわ」
「あたまではわかっていますがこころがついていかないのです、おうひさま。メリーだけをかわいがっていつくしんできたのです。こどもだからといってあなどらないでください」
「まだ幼いから時が経てば忘れることができると思ったのだけど間違えていたのかしら。でももう契約は整ってしまったの。わたくしにはどうすることもできないわ」
「おうひさまはなにもなさらずともけっこうです。じんかくをむしするようなかたたちはもうははうえともちちうえともおもいません。このろうじょうはほんのてはじめです。こんやくはうけいれます。ただメリーといっしょににすごすのだけはおゆるしください、いきていくためのきぼうなのです。だめだとおっしゃられたらかんがえがあります」
王妃はこの時取り返しのつかないことをこの息子にしてしまったのだということを理解した。
こうしてギルは婚約を淡々と続けた。顔合わせをしても一度も笑わず、プレゼントは侍従に任せっきり、手紙が来ても返事は侍従に任せた。少しでも期待を持たせれば相手に悪いからだ。
メリーとは今までと変わりない関係で付き合った。プレゼントはメリーの好きなぬいぐるみを手配し、自分で手渡した。お茶会も頻繁に行い話に花を咲かせていた。
と言っても幼児同士の交流である。微笑ましいと思われることはあっても、偏見を持つものなどいなかった。両陛下も籠城のことがあり、むやみに反対をするのは控えていた。
五歳ながらこのときにはもう未来への計画が出来上がっていたのを知るものは誰もいなかった。
ギルは第三王子だ。だから交渉の手駒に使われたのだろう。最初からメリーと婚約などさせなければ、素直に駒としての役目を果たせたのかもしれない。
婿入り先として公爵家が丁度よかった。けれど外交で役に立ちそうな話が来たら乗り換えた。全く都合が良すぎる。ギルは怒りでどうにかなりそうだった。
婚約を無くしてしまうよう自分で動けるようになりたい。大きくなる為の目標ができた。絶対にメリーと結婚する。そのために必要なことは全て学んでおこうと決心した。
婚約の話がメリーの耳に入るまでに何としてもこの話を壊してしまいたいと思うギルだった。
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