識
日本史の授業が始まってからずっと三上優光は胸騒ぎがして落ち着かなかった。
三上には研ぎ澄まされた第六感があった。それが警告を発しているのだ。
それは降り続いた大雨の終盤あたりから、うっすらと感じていたものだったが、あえて無視していた。
気にかけてしまうことで深く関わり、凶事に巻き込まれるのを回避するためだ。
三上はさらに獣臭も感じ取っていた。
それは微かなものだったが、今朝から段々強くなり、日本史の授業が始まってからの胸騒ぎは、濃くなる一方のこの臭いのせいでもあった。
どうするべきか――考えている間に片岡が絶叫した。
窓の外に何を見たのか、茫然自失で震えている。
聖徳は片岡の授業態度にキレ出し、クラス全員二人の動向を声も立てず見守っていた。
仲間の村島や日野も緊張し、顔が強張り一言も発せない。
凶事に巻き込まれたくはなかったが、自ら首を突っ込んだわけではなく、向こうからやって来たのだ。避けようもなく覚悟を決めるしかない。
三上は音を立てず席を立ち、聖徳をスルーして片岡の横から、彼が凝視している窓を同じように覗いた。
奇妙な動きをした女がグラウンドに入ってこようとしている。背後の植え込みには制服を着た人型の薄っぺらいものが被さって、ぺらぺらと風に吹かれていた。
あれが一体何なのか三上にはわからない――いや、元は人だったのはわかる――が、女は異形もんで、人型のあれがこの女の仕業なのは理解した。
きっと片岡はああなる過程をまともに見てしまったのだろう。
「何や、三上。お前も授業ボイコットすんのか」
鼻筋にしわを寄せ、生徒に舐められていると思い込んだ聖徳が三上までをも睨む。
「先生、あれを」
それに目もくれないで、三上は窓外を指さした。
「ああん?」
不機嫌も露わに聖徳は三上と反対側の片岡の横から窓を覗き「あれ誰や?」とつぶやく。
女はカクカクと不審な動きで歩みながら、すでにグラウンドに入り、 サッカー中の一年生男子たちに近付いていた。
みな明らかに教師ではない不穏な侵入者を遠巻きに眺め、お互いぽかんとした顔を見合わせている。
体育教師の遠山が女に気づき「なんか御用ですか?」と、筋肉隆々の自慢の腕を振りながら近付いていく。
生徒の保護者だと思ったのだろう。頭二つ分低い女の前に立ち、白い歯を見せて微笑んだ。
だがぱかっと『口』を開けた女に飛び掛かられ、いきなり上半身を咥え込まれた。持ち上がった脚がじたばた暴れていたが、すぐ静かになり、屈強な身体が徐々に萎んでいく。
傍観していた男子生徒たちはいまだ何が起こっているのか理解できず立ち竦んだままだった。
いち早く我に返った数人の男子が悲鳴を上げ、校舎に向かって逃げていく。それに合わせてみな慌てて逃げ出した。
獲物が散らばっていくことで気が削がれたのか、女は途中で遠山を吐き出し、生徒たちを追いかけ始めた。
吐き捨てられた遠山の全身は石倉のような薄い皮にまでなっておらず、まだ少し厚みが残っていたものの、すでに事切れていた。
「な、なんやあれ……」
一部始終を見た聖徳の声がかすれている。
窓際席の他の生徒たちも同じものを見て小さく悲鳴を上げた。それに反応した生徒たちが、我先にと席を立って窓に集まってくる。
グラウンドでは皮膚の弛んだ女が大きな『口』を開けたままよたよたと、校舎に向かって逃げてくる生徒たちの後を追う。『口』から伸びる黒い触手を伸縮させながら追いかけているが、目移りするのか捕獲に集中できずにいる。皮膚の弛緩でできたずれで、身体の捩れがひどくなっていく。それも追い辛い要因に見えた。
「鬼さんこちら~」
早く逃げればいいものを三人の男子がにやにや笑いながら、女を囲んで囃し立て始めた。
遠山の身に起きたことを見ていたはずなのに、馬鹿なのか?
きっと同じことが我が身に起きなければ理解できないのだと三上は思った。その時にはもう遅いというのに。
三人の内の一人、ゼッケンに須加と書かれた男子が足をもつれさせて転んだ。
立ち上がる前に女が追いつき、須加の上半身を咥え込んだ。
それを見た途端に血相を変え、残り二人の男子は慌てて逃げた。
須加の身体は中身を完全に吸いつくされ抜け殻になったと同時に膨らみ始めた。
逆に女の身体が萎み始め、須加の頭に被さる人型の皮になった。
どこか歪な須加が女の皮を頭から引っ張剥がし、地面に投げ捨てると、二人の男子を追いかけ始める。
女の姿よりも動きの速くなった須加は、一人を捕まえると、大きな『口』を開けて咥え込んだ。
おいしいところだけをつまみ食いするように少し吸って吐き捨て、残りの一人を追いかけ、追いつき、また咥え込む。
グラウンドに転がったままの萎みかけの男子たちは苦しそうに悶えていた。
校舎に逃げた生徒が報告したのか、数人の教師が慌ててグラウンドに出て来た。
だが、目の前の出来事が異常過ぎて、須加を見ても茫然としたままだ。それでも、倒れた生徒を発見すると慌てて介抱に向かった。
そんな教師の一人に須加は頭から喰らいついた。
恐怖に戸惑いつつも、他の教師たちは須加と同僚を引き離そうとした。
だが、だんだんと萎んでいく同僚と首の後ろに垂れた須加の上半分の顔を見て、後退りし始めた。
「はよ逃げっ……」
下に向かって叫びかけた聖徳の口を三上は塞ぎ、そのまま自分より頭一つ分低いその身を窓から引き離す。
「みんなも窓から離れてっ」
窓際に突っ立ったままの片岡の腕を引っ張りながら、青い顔で窓を覗き込んでいるクラスメートたちに注意する。だが、みなこっちを見ているが、誰も動こうとはしない。
「あれに気づかれたらやばいです。大きな声は出さないで。ここまで来るかもしれない」
三上は言い聞かせるように聖徳に忠告すると口から手を放した。
色白の顔色をさらに白くして担任はうなずき、「お前ら、静かに窓から離れろっ」と小さく、だが強い声で生徒たちに指示した。
みな音をたてないように窓からそっと離れる。
小木原だけが何も知らず、机に突っ伏したまま眠っていた。