睹
十月十二日水曜日 午前九時五十分
2―E教室(二階)
日本史の授業は片岡公二にとって、いつも子守唄を聞いているようなものだった。
始まってすぐ睡魔に襲われ、熟睡していた片岡は、まだまだ厳しい残暑にふと目を覚まし、少し窓を開けた。
普段の片岡なら朝練の疲れで、暑かろうが、寒かろうが眠りから覚めることはない。日本史の授業は特に。
だが、今朝は練習がなかった分、深く眠れなかった。とは言っても頭はぼんやりしている。しゃんとするために、声を上げて大きく伸びをしたいが、さすがの片岡も『聖徳』を怒らせるのはまずいと、それはできない。
担任兼日本史の教師、庄司得生は生徒から聖徳と呼ばれていた。名前を略しているのもあるが、相貌が教科書などでよく見る聖徳太子に似ているからだ。
温厚な人柄のようだが、あの顔で激怒するとちょっと怖い。それは片岡だけではないはずだ。
そよと心地よい秋の風が入ってくる。その中に嗅いだことのない異臭が混じっているような気がして、片岡はぼんやりした眼差しのまま窓の外に目を向けた。
登校時は快晴だった空はいつの間にか霧が棚引き、白い紗幕がゆっくりと下降してきている。
防球フェンスの向こうに望む猪狩山の中腹辺りはすでに白く隠れていた。
グラウンドでは体育の授業をしていたが、先生や生徒たちは天候の変化も異臭も気になっていないようだ。
考え過ぎか……
片岡は居眠りを再開しようと欠伸を噛み殺しながら視線を戻そうとしたが、この窓から丸見えの通用門に目が止まった。
防犯のため、いつも閉まっている門扉が人の通れる幅だけ開いている。
担当の先生が閉め忘れたのかと考えていると、横のつつじの植え込みの陰に人が隠れていることに気付いた。
三年の石倉だ。
二年の最初まで陸上部のエースだったが、ある日突然不良化してしまった。体格が良く、ふてぶてしい顔つきをしていたので、あっさり不良の仲間入りを認められたそうだ。
道が逸れた理由など後輩の片岡には知る由もなく、コーチが更生させようとずいぶん頑張ったらしいが無駄だったという。
遠目でも石倉の顔がわかった。
まさか校舎の窓から、かつての陸上部の後輩が見ているなど思ってもいないだろう。
隠れてタバコでも吸っているのか、時々右手を口元に運んでいた。
大きく茂る植え込みに全身隠れているつもりだろうが、二階のここからは丸見えだ。
「三階からやとよけ丸見えるやろなぁ」
片岡は小さくつぶやいて、
わざと見せつけてんのか? まったく気付いてないんか? もし隠れてんやっても傍通ったら煙と臭いでちょんバレやで。
石倉の思慮のなさに苦笑していたら通用門から内側へゆっくり入ってきた人に気付いた。
ピンクのエプロンを着けた女性だ。
誰かのおかんが忘れ物でも届けに来たんか?
だが、片岡は何か違和感を覚え、窓に顔を近づけてよく見た。
立ち方がおかしいんか? 全身が捩れてるゆうか、引き攣れてるゆうか……
覚束ない足取りで、女性は石倉の潜む植え込みに近づいていく。
石倉がそれに気付いて立ち上がった。悪びれることもなく、見せつけるようにタバコを口に運んで煙を吐く。女性はひるむことなく植え込みの隙間を抜けて石倉の目前に立った。
「なに見てんや、ばばあ」
石倉の怒鳴り声が風に乗って耳に届く。
いくら何でも女を殴るなよ。
片岡は祈った。不良化しても、かつての陸上のエースである。その先輩が退学となるような事件の目撃者になりたくなかった。
目を逸らせて正面を向く。
のっぺりした白い顔にちょび髭の聖徳が黒板にチョークを走らせていた。
「ここテスト出るぞぉ」
その声でいっせいにペンの音がし始めた。
一番前に座っている日野も一生懸命書き写している。
あいつまじめやな。
そっと振り返り、あの村島もペンを走らせているのを見て片岡は笑いを堪えた。
一番後ろの小木原は堂々と机に突っ伏し爆睡している。
片岡はいまさら写す気にもなれず、後で日野にノートを借りようと決め、やっぱり気になる石倉の動向に視線を戻した。
「えっ?」
思わず息を呑む。
「なんや片岡。疑問でもあるんか?」
聖徳がチョークの手を止め、片岡を振り返る。
日野やクラスメートたちの視線が集中するのを感じながら、
「なんもありません……」
うつむいた片岡は聖徳が黒板に向き直るのを待った。今見た奇妙なものをもう一度確認するために。
まさか。なんかの見間違いや。
あのおばさんが石倉の身体を呑み込んでるやなんて、いくら何でもありえんやろ……
聖徳のチョークが再び黒板を滑り始めたのを上目で確かめてから、再び窓を覗き込む。
「ひっ」
見間違いではなかった。
ぱかりと顔が割れ、鼻から上がフードのように後ろに垂れ下がる女性の大きな『口』が、確かに石倉の上半身を呑み込んでいた。
空を足掻く両脚の動きが止まり、大きな身体がみるみる萎んで、空気の抜けた風船のようにだらりとなった。
「うそやろ……」
片岡は窓に張り付いた。
「こらっ、さっきからなんやっ」
堂々たるよそ見に聖徳が眉を顰めて近づき、片岡の肩をぽんと叩いた。
それがスイッチになった。
「ぎゃああっ」
悲鳴を上げて片岡が勢い良く立ち上がった。椅子が激しい音を立てて倒れる。
日頃から居眠りや内職をほぼ許容している聖徳もさすがに頭に来たのか、生白い顔が赤く染まった。いつも笑っているような弓形の目が逆向きに吊り上がる。
「かたおかぁぁっ」
怒鳴り声が教室の空気を震わせた。
村島が首をすくめ、日野もその他全員が息を呑み、今まで見たことがない震える片岡とその肩をつかんだ聖徳を交互に見つめた。
だが、片岡は怒り心頭の教師に全く目もくれず、怯えた目で窓の外を見つめるばかりだった。