始2
風に揺れる洗濯物を見ながら、もう一度軽く欠伸をすると窓のほうへと移動する
ジャックがまた早朝時のように唸り声を上げ始めた。
「もう、またぁ? いったい何?」
恵子はジャックの前にしゃがむと頭を撫でた。
いつもはそれでじゃれてくるジャックが、視線を門のほうへ向けたまま、まだ低く唸っている。
恵子はその視線を追って振り返った。
いつの間にか男が門の内側に入ってきていた。いつもぎぃぃと鳴る耳障りな門扉の音がしなかったので、範夫が開け放したままになっていたのだろう。
じっと立ってこっちを見ている姿が、なぜか奇妙で、恵子の腕に鳥肌が立った。
だが、見覚えのある人物だとわかり、恵子はほっと息をついた。
男は吉村哲治だった。
この辺り一帯の土地持ちの素封家だ。矍鑠として征太郎とは大違いの老人だった。
「何か御用ですか」
恵子はにこりと微笑んだ。
だが、哲治は同じ姿勢のまま微動だにせず、返事も返さない。首を前にがくりと落として、こちらを睨んでいる。
いや睨んでいるというより、そういう風に見えるだけで、目はどこも見ていない――というか、眼球がなく黒々とした穴が開いているだけのような――
まさかと否定しつつ、自分の想像に恵子は怖気立った。
ジャックの唸りが大きくなり、威嚇の姿勢を取る。
「あ、あかんよ。ジャック」
恵子は一応たしなめたが、今まで飼い犬をこんなに頼もしく感じたことはなかった。それほど哲治の姿は奇異であり、気味が悪かった。
哲治がゆっくりと動き出す。
その姿は、範夫がレンタルして千華と百華に大顰蹙を買っていたゾンビ映画の動く死体のようだと恵子は思った。
そして、さっきなぜ哲治を奇妙に感じたのかがわかる。身体が微妙に捩れているのだ。前に進む度に、どこかが引き攣れ、どこかが弛緩する。
「よ、吉村さん? な、な、何か?」
恵子は後退りしながら、もう一度訊ねた。
哲治の顔も身体と同様、動く度に歪んで形相を変える。
それは表情の変化ではなかった。頭部の皮を丸ごと剥ぎ、もう一度頭蓋骨に被せてみたものの、動く度それが段々とずれていくような――
またしても自分の想像に全身が震える。
哲治がゾンビのように移動し、ジャックの前を通り過ぎようとした。
牙を剥き出してジャックが激しく吠え立てる。
哲治の首ががくんと下を向くとジャックに向かって飛びかかった。
一瞬だった。
顔が横に割れたできた哲治の大きな『口』が、ジャックの上半身を咥え込んでいる。項辺りでフードのように垂れた鼻から上の部分が、嚥下の動きに合わせて揺れ、眼球もないのに黒い穴が空を見つめているかのようだった。
ジャックの後ろ足と尾は抗いの動きを見せる間もなくだらりと力を落とした。
咥えられた胴体は中身を絞り取られるように厚みが失われ、皮が引き攣れてぺちゃんこになっていく。
ごくごくと喉の動きに合わせて揺れる哲治の垂れた顔がこっちを向いた。黒い二つの穴が恵子の目と合う。
腰が抜けて座り込んだジーンズの尻が濡れ、地面に染みが広がっていく。
哲治の『口』からジャックの抜け殻がばさりと落ちた。肉も骨もなくなり、ただ皮だけがくたくたの雑巾のように残っているだけ。
哲治の『口』が恵子を向いた。大きく開いた真っ赤な口内にある黒い穴から触手が伸びたり縮んだり出入りしている。
哲治がぶるっと身体を震わせ、顔の皮を元の位置に戻して『口』を閉じた。
戻った顔はさっきよりもさらに弛み歪んでいたが、恵子にはもう見えていなかった。白目を剥いて失神したからだ。
哲治はゆっくりと恵子に近付き、再び『口』をかぱっと開けると、覆いかぶさるように恵子の上半身を咥え込んで持ち上げる。
力が抜け膝の曲がった脚が哲治の嚥下に合わせてぶらぶらと揺れている。中身が全部哲治に吸い込まれて身体が萎んでいく。
数秒後、衣服を着たまま完全に恵子は皮だけになった。
しかし哲治は、それをジャックの時のように吐き出さず、咥えたまま全身をぶるりと震わせた。
徐々に恵子が膨らみ始め、逆に哲治が薄い皮になっていく。
身体の厚みが戻って立ち上がった恵子は頭に被さったままの哲治の皮をぎこちない動作で引き抜いた。
捩れた身体の恵子がゆっくりと窓を振り返る。
リビングに立つ征太郎が放心状態でこっちを見ていた。