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井神   作者: 黒駒臣
第三章 結
40/44

  

  

 十月十二日水曜日午後十時(亥の刻)

 一海寺~猪狩山山裾 廃屋枯れ井戸前 


「も、もう……無理や……」

 粘着(ねばつ)く霧が揺れると、疲れた顔をした片岡が現れ、泣き言を零しながら、道脇の生垣に潜む聖徳の目の前を通過していった。

 片岡の背中が霧に埋もれて消えていく。

 この道は霧で視界が悪いものの、目印に置かれた松明の明かりはぼんやりと浮かんでいる。それを頼りに走れば井戸へ着くようになっている。

 聖徳のいる場所は、光悦が注連縄を掛けて結界を施してあるので霧はなかった。

 一緒に来た日野と数人の男子はこの結界道を通って先に井戸のそばで待機している。

 聖徳もさっきまでそこにいたのだが、様子を見に戻ってきた。

 再び霧が揺れると、人の皮を引き摺った肉塊の化けもんが触手を伸ばしたり縮めたりしながら片岡を追いかけていく。

 さらにその後を一海の数珠を首に掛けた小木原が読経しながら霧を分け開き走って来る。彼の表情も疲れ切っていた。

 これで二周目。失敗すれば片岡は井神に追いつかれて……

 井戸のある方向からは一海寺住職の力強い読経と邪櫃神社二人の清浄な祝詞が聞こえてくる。

「大丈夫や。頑張れ!」

 聖徳は、自分は結界に守られていることに罪悪感を覚えながらも、片岡へエールを送った。


 電柱や街灯のポールに等間隔で括りつけられた松明の火が、立ち込める霧の中に滲んだように浮かび上がっていた。

 道は祖母の友人だった小賀の家の古井戸に続いている。

 住職たちと来た調査で、古びた井戸は欠けもなく、井神を封じるのに丁度いいと判断した。

 逆結界の道は片岡と小木原の体力を考えて最短にしたかったが、あまり短いと井神に警戒される。

 捕まえたくても捕まらない、食いたくても食えない、その苛立ちで攪乱(かくらん)状態にした井神を井戸の中へと誘導するのだ。

 道は長いほど良いが、片岡の体力と心が持たないだろう。片岡と井神の後をついて走らなければならない小木原なら尚更だ。

 井神を攪乱できる、片岡の体力を保てる、丁度いい距離を鎮と光悦は考え、井神が通る道――逆結界の道――を作った。

 結界に守られている道脇にいれば聖徳や日野たち協力者がそこにいても井神に気づかれることはなかった。だが、今は片岡に気を取られているだけで、そこにいる気配を悟られれば、もしかして結界を突破されるかもしれないので、油断はできなかった。

 ちなみに現場(ここ)に村島は来ていない。

 女子や子供たちのいる寺は、念のため光悦が祝詞を唱え、御札を張って結界で守っている。


 井神退治が開始され、片岡はつかず離れずで化けもんを引っ張り、順調に井戸まで来た。

 井神は生徒でもない教師でもない人の皮を身に着けていた。捩れたジャケットの袖の上部には新聞社のロゴが入った腕章があった。

 新関地区のことが騒動になっていて、記者やテレビ局が来ているのかもしれないが、そんな人にまで被害が及んでいるとは……

 自分は何もできないのに、早く井神を封じ込めなければと気ばかり(あせ)る。

 片岡の状態は井戸の手前までは順調だったが、ジャンプのタイミングが合わなかったのか、それとも怖気づいてしまったのか、彼は井戸を飛び越えられずに避けてしまった。まきの簪を手に取ることすらも忘れていた。

 こうなった時、背後に井神のいる道を戻ることができない。なので、光悦たちは井戸から先にも逆結界の道を伸ばし、また井戸への道に戻れるようにしてあった。

 今がその二周目だ。

 聖徳も近回りして急いで井戸に向かった。


 (まと)っていた皮が脱げかけているのも構わず、井神は必死で追いかけている。これで片岡のジャンプが成功すれば、まきの簪を井戸に落とせれば、化けもんを封じ込めることができる。

「頑張れぇ片岡ぁ――」

 井戸の近くで待機している日野たちと合流した。みな緊張した面持ちで見守っている。

 読経のおかげで逆結界の道であっても、井戸の周辺は霧が薄くなり、かなり見通しが良くなっているので、片岡が手に簪を持って走って来たのが見えた。

 かなり疲弊して、苦悶の表情を浮かべている。

 あと数メートル井戸が遠ければ完全に追いつかれているだろう。

 片岡が井戸の前まで来た。今度は避けることなくジャンプし、穴の真上で簪を手放す。

「よっしゃっ!」

 聖徳はガッツポーズをした。

 だが、

「あっ! 落ちるっ」

 簪の落下と同時に力尽きた片岡の身体も穴に向かって落ちていく。

 聖徳の目にはそれらすべてスローモーションに見えた。



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