襲
十月十二日水曜日午後五時00分
新関地区方面主要道・隣地区境界
報道陣と警察関係者、ただの野次馬や帰宅できずにいる住人たちが騒ぐ中、加野範夫は途方に暮れていた。
霧は晴れてくるどころかますます濃くなっている。さっきはまだ黄色い規制線を張ったバリケードがぼんやりとでも見えていたのに、今はもうその輪郭はない。
ここらあたりも、もう危ないゆうことか?
規制範囲の変更を提案しようとしたが、この場に責任者らしきものはいなかった。みなテントに籠り、対策を練るのに忙しいらしい。
範夫は宮原を目で捜した。
実直な警官は数メートル離れた場所で押し寄せる人々を制止するのに精いっぱいのようだ。
その隙をつき、脇からカメラを抱えた一人の男が飛び出した。腕に腕章を付けているので報道関係のカメラマンなのだろう。
宮原が止める間もなく霧のぎりぎりまで入り込むと見えなくなったバリケードに気づかずに音を立てて派手に転んだ。
「あっ」
範夫は倒れたままのカメラマンを起こすため、霧からはみ出た脚に向かって一歩踏み出した。
だが、その脚はすっと霧の中へと吸い込まれた。
「え?」
戸惑いながら範夫は宮原を振り返った。
宮原も、その後ろにいる野次馬たちも黙ってこっちを見守っている。
霧に目を凝らすも何も見えず、何がどうなっているのかも全くわからない。
ただそこに何かの気配は感じた。
びたん。
突然、霧の中から布状の何かが飛んできて、音を立てて範夫の横に落ちた。
これなんや?
じっと目を凝らすも、それが何なのかしばらくわからなかったが、新関高校の制服を着た人皮だと気づいた途端、「うわっ」と思わず声がでた。
宮原や後ろの野次馬たちも気づいたのか、悲鳴を上げて逃げ出した。
騒ぎに呼応するように霧の中から咆哮が聞こえる。
範夫のすぐ目前だった。
霧がみるみるこちらに向かって流れ出す。だが、動くことができない。
薄く白濁した霧膜の向こうに、さっきのカメラマンが捩れた身体で立っているのが見えた。両眼はなかったが、確実に自分を見ていると範夫は感じた。
再び霧が濃くなり、カメラマンの姿が隠れて見えなくなったが、そこにいる気配は感じられた。
早く逃げなければ。
そう思うばかりで範夫の脚はまったく動かない。
迫る霧がゆらりと動いた瞬間、カメラマンの顔が目の前まで飛び出してきた。口がぱかりと裂け、顔の上部分が後ろに落ち、赤い肉の断面から黒い触手が自分に向かって伸びてくる。
範夫は目をつぶった。
その時、後ろ襟を思いきり引っ張られ、範夫は一気に霧の前から引き離されて尻餅をついた。
目を開けると霧の中に戻っていく触手が見えた。だが気配は消えていない。
「危なかったで。大丈夫か?」
宮原が座り込む範夫の顔を覗き込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「早よ、ここから離れよ」
宮原に促され、擦れてひりひり痛む首に手をやりながら立ち上がった範夫は宮原とともに霧から距離を取った。
「今の何やったんや」
「見た目さっきのカメラマンやったんですけど――もう普通やなかったです」
「変な霧だけやのうて、得体のしれんもんもおるいうことか――」
話している間にも霧の浸食が進んでいる。
「どこまで広がってくんのや? こりゃただの霧ちゃうで対策本部何やってんや?」
「そやけどおかしい霧や言うても、誰も信じませんで――どないしたらええんやら」
後退る宮原について範夫も後退する。恵子や千華たちはどうしているのか、不安で仕方ないがどうすることもできない。
もしかして僕の家族はもう――
今さっき見たひしゃげてくしゃくしゃの人皮を思い出し、喉の奥から熱い固まりが込み上げてくる。
「ほんまに上のもんは当てにならんのう」
後ろからしわがれた声がして宮原と範夫は振り返った。
名前は知らないが、よく田んぼで作業している老人だった。逃げて誰もいなくなった野次馬から一人残り煙草を燻らせている。
「川瀬さん、危ないんで下がっといてください」
宮原が老人に注意する。
霧が薄くなった箇所から動く影が見えた。よろよろとこちらに向かってくるカメラマンだ。
「こういうときゃ火や」
川瀬老がぴんっと指先で煙草をはじいた。
赤い火は弧を描き、うっすらと見えるカメラマンの口元辺りに命中した。
ぎゃっ。
鳴き声がし、霧が大きく揺れ動いて影が消えた。




