愉
十月十二日水曜日 午前八時十五分
P県立新関高等学校 2─E教室(二階)
一昨日まで降り続いた豪雨により学校の裏側にある猪狩山の一部が流下しているのを発見したのは、十月十二日早朝に車で出勤した教師だった。
小規模で、麓に点在する住宅および学校に被害はなく、二次災害の心配もないと判断され、運動系クラブのランニングを中止するのみで休業には至らなかった。
教室内には女子の甲高い笑い声や男子のふざけ合う声が響いている。
片岡公二はグラウンドの見える窓際の自席で友人たちと談笑していた。
陸上部の片岡は普段この時間に教室にいない。朝練のため八時三十分の予鈴を超え、ホームルームの始まる三十五分ぎりぎりに教室に飛び込んでくることが多かった。
悪友の一人・村島太郎が片岡の机に尻を預けている。
「俺さマジで学校なくなる思たわ。あんだけ雨降って俺んとこの田んぼ海になっとたで、絶対ここの裏山崩れて学校埋まってまう思とった。そやのに無事やて、つまらんわあ」
口笛を吹いているかのような村島の口がさらに突き出る。
「そんなこと言うて、ほんまは超心配してたやろ。お前意外とまじめやし、学校大大大好きやもんな」
目の前に立つ、もう一人の悪友・日野忠がにやりと笑うと、
「好きちゃうわ、あほ」
村島の唇がさらに尖る。
「でも、お前がまじめゆうんは合うとるでな」
あくびをしながら片岡は村島の髪を指さした。
一週間前に村島は散々悩み抜いたあげく、つんつん立たせている黒い髪を赤く染めた。
農家を営む頑固な父親と小うるさい教師への反抗だとカッコつけていたが、片岡も日野もワル=もてると村島が勝手に思い込んでの下心だと見抜いていた。
だが、染めて早々生徒指導の吉武に髪を鷲掴みされ目の前で鋏を突きつけられ叱責された。さらに家では父親に岩よりも硬い拳骨を食らわされ、結局今の日野の髪は真っ黒に戻っている。
「ちょっと先生や親父に注意されたぐらいですぐ元に戻すて、まじめとしか言えんやん自分。ちゅうか元以上に黒々しとるし」
片岡はそう言って日野と二人で大爆笑した。
村島はいつまでも笑うのをやめない二人を睨んでいたが、尖った唇はもう元に戻っていた。吉武と父親にびびってしまった自分を思うと何も言えない。
所詮、まじめ一筋の百姓の息子である。
「――んで、片岡はどうよ」
「何が?」
話をすり替えようとする村島の問いに、片岡は首をかしげた。
「陸上の朝練。今朝はなかったんやろ?」
「ああ、崩れたんは獣道しかないような上のほうやし朝練には関係ないんやけど、もし事故あったらあかん言うて。一応様子見るて先生言うてたけどね。まあ、明日からあんの違うか」
「さすが、片岡、陸上部のエース。村島みたいに当分休みや言うて喜ばんなぁ」
日野が村島を嗤う。
結局そこへ話が戻ったことに村島はまた唇を尖らせた。
その時、三上優光が教室に入ってきた。三人を鋭い視線で一瞥し、挨拶もせず前を通り過ぎる。
片岡たちは顔を見合わせ、肩をすくめた。
三上の席は片岡の二つ右斜め後ろで村島の左隣だった。
「あー、三上が隣やと気が浮かんわぁ」
不良を気取る村島は気に入らないことがあるとすぐ他の生徒に絡んでいた。根は悪いやつではないので陰険な絡み方はしないし、もちろん女子には絡まない。女子供は相手にしないと言うポリシーを掲げる村島だが、実のところ女子が怖いだけなのだ。そして、三上にも絡まなかった。いや、絡めなかった。女子とは別の意味で恐怖を感じるのだ。片岡も日野も三上には畏怖を抱いている。
席に座り、教科書ではない、三人にはさっぱりわからない書籍を鞄から出して読み始めた三上を見た後、始業のベルがなるまで次の日曜日に繰り出す予定の街の話題に興じた。