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井神   作者: 黒駒臣
第二章 顧
29/44

     

  

 一海の経が震えている。

 それだけでなく屋敷中が重い空気に圧せられていた。

 あの後、村長はまきの提案を一海に伝えた。一海はけっして頭を縦に振らなかったが、どれだけ思案しても解決策がないことから受け入れざるを得なかったようだ。

 かつは幼い頃の娘の晴れ着を長持の奥から引っ張り出しまきに着せ、その頬に白粉をはたき、自分でもめったに使わない紅を小さな唇に差してやった。

「うちこんなん着るんはじめてや」

 まきはくるくる回ってはしゃいだ。それを見てかつが袖口で目元を拭い、そして思い出したように懐から赤い珊瑚の簪を出すと、「これはあんたにあげるからね」とまきの結んだ髪束に挿した。

 鏡を見ていたまきの目からみるみる涙が溢れる。

「怖いんやな……怖いん決まってるわ――まき、やめてもええんやで」

 かつが優しく背を擦るとまきは首を振った。

「ちゃうよ、おばちゃん。うち嬉しいんや。こんなええもんもうて……」

 村長はそれ以上見ていられず、立ち上がってその場を後にし、みなが忙しなく立ち働いている屋敷から出る。

 月もなく闇の濃い夜であった。

 篝火に照らされた道が猪狩山の中へ続いている。篝火台に(くく)り付けられて繋がった注連縄も同じように山中へと続いていた。

 それは結界の道だが、途中落とし穴付近から山中の集落跡までは逆結界の道となる。

 そこをまきに走らせ、化けもんを確実に井戸に誘導するという手筈だ。

 山中に火が見えているのは荒れ果てた山道の整備を終え、計画通りに事が運んでいるということだ。そろそろ集落跡の準備も整う頃だろう。

 生臭い風がごうと吹き、縄についた白い紙垂がいまにも千切れそうに揺れた。

 じきに一海とともにまきを連れ屋敷を離れなければならないが、ここに残す弟妹たちにはいったい何と説明すればいいのか。

 村人を守るべき立場にいながら、結局一番の弱者を犠牲にしようとする己が情けなく、権三が生きていたらさぞ嗤ったに違いないと村長は思った。


 何も知らず眠っているまきの弟妹たちをかつに任せ、村長は着飾ったまきを連れそっと屋敷を出た。経を読みながら一海が後ろに付く。

 竹垣の外に出ると一度立ち止まり屋敷のほうを見返った。護符を貼り付けた門がゆっくりと閉められる。

 護り人のいない間に屋敷を襲撃されないよう、注連縄のほかに、たくさんの護符が竹垣や屋敷の内外に貼り付けられていた。その護符は僧の一海だけではなく、神社の見習も書いている。

 見習とはいえ結界を張り護符まで書けるお方に来ていただけたとは。

 和座村の邪櫃様はこの村を見放しているわけではないのだとひしひしと感じ、二つの護符を合わせればさぞ強力な護りになるだろうと村長は確信した。

 落とし穴のある場所へ進んで行くと生臭さが増した。逆結界への変わり目が近い。

 そこに入れば、結界のないどこかから、いつ化けもんが出現するかわからない。

誘き寄せる前にまきが襲われ食われては元も子もなく、最大限の注意を払わねばならなかった。

 十数歩歩いたところで道脇の草むらが音を立て、

「村長、そこはもう結界がないところです。早よこっちへ来てくだせ」

 と与平の顔が火の明かりに浮かんだ。

 そう言われてもまきのそばを離れる気にはなれず、村長は躊躇(ちゅうちょ)した。

「この子はやつの気配感じるとこまでわしが連れて行くさけ、村長はみなと一緒に集落跡へ急げ。

 ほいでしっかり成り行きを見届けるんやぞ」

 一海に促され別の結界道に入った村長は与平たちとともに集落跡へと向かった。


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