成
「あれら、早よ止めぇ」
村長は叫ぶも、たえの遺体に向かってくる数匹の猪の突進を誰も止められず、落とし穴を踏み抜いて次々落ちていく。穴の底から猪の断末魔が聞こえてきた――
早朝、たえを誘因餌に古猪を待ち構えていたが、先に山から下りてきたのが若い猪たちだったのだ。
「見込み違いや……まさかただの猪ら来るて思てなかったわ」
「いや、思とかなあかんかったんや。古猪だけに気ぃ取られ過ぎた……また作り直しや」
権三、与平たちが肩を落として穴を覗く。
竹槍に刺さってもなお、まだ生の残る猪が身をよじりながら鳴き声を上げている。
「もう作り直しても無駄や。あれ見てみぃ」
村長の指し示すほうへみな顔を向けた。
山道の先にいる古猪が嘲笑うような鳴き声を上げる。
またしても嵌められた。
弓を持った男達が慌てて矢を射るも、鋼の毛に守られてかすり傷一つつけられない。
古猪が道辺の茅野に身を隠しながら少しずつ近づいてくる。
獲物をどうやって手に入れようかと算段しているに違いない。
村長は歯噛みし、誰にともなく声をかけた。
「目ぇ離すなよ」
その緊迫した声に鍬や鋤を構えた嘉助や権三たちがうなずく。
ちらちらと茅の隙間から見える度、古猪の恐ろしさが露になる。口の周囲や牙には赤黒い血と肉片がこびりつき、狡猾さと獰猛さを増した双眸はもはや猪のものではなかった。
その姿が深い茅野に消えた。
「どこ行ったんや」
戸惑う村長たちは身を寄せて辺りを窺った。
その時、落とし穴の近くの茅野から古猪の頭が現れた。
血相を変えた与平たちが後退する。
「逃げんなっ」
村長は叫んだ。人数が少なくなればそれだけ相手に突撃の余裕を与えてしまう。今はまだ穴を挟んで対峙しているが、回り込まれればたえが食われるどころか自分たちにも勝ち目はない。
「もうあかんわ」
男たちから上がった悲鳴のような泣き声に、「まだまだやっ」と嘉助が叱咤する。
「泣くなっ、しっかりせっ」
権三も鍬を握り直し、発破をかけた。
村長は頼もしい二人に期待したが、これ以上犠牲者を増やさぬため、うまく撤退できないかと頭を捻る。
だが、こんな状況ではどんな指示を出してもみなを危険な目に合わせるだけだと、己の無能さを痛感するしかなかった。
ふと、古猪の向かい側、道を挟んだ茅野の中に潜む者を見つけた。
まきだ。
じっと古猪を見ている。
女子供は屋敷から一歩も出るなとあれほど言いつけたのに。もし古猪に気付かれれば真っ先に突進される。それ故に声をかけられない。
村長の額に浮き出た汗が顎を流れ落ちた。
何とか合図を送って帰らせたいが――
思案している間にまきが茅野から出てきた。
「あ、あれ――まきちゃうか」
与平が気づいて指をさし、男達がいっせいにその方向を見た。
「あかんっ、見んなっ」
止めようとしたがもう遅かった。
視線を追った古猪がまきに気づいてしまった。
歓喜の雄叫びを上げ古猪が勢いよく駆け出した。蹄に抉られ茅をつけたままの土が宙に舞う。
早よ逃げっ――
そう叫ぼうとしたが、焦りのあまり喉が詰まる。
いきなりまきが山道に向かって走り出した。その速さは尋常でなく、古猪には追いつけないように思えた。
だが方向が悪い。あのまま山に入れば足場が悪く、そこが根城の古猪にとって有利になる。
みなもそれに気づき「やめろ」「戻れ」と口々に叫ぶもののもう声は届かない。
突然まきが茅野の中に飛び込んだ。古猪もその後に続く。丈高い茅に姿は見えないが、草葉の揺れでまきがこちらに戻ってきているのがわかる。
方向転換したのだと安心したのもつかの間、再び道に飛び出してきたまきが脚を止めて茅野を振り返った。まるで古猪を待っているかのように。
「今やっ、早よこっち来い」
嘉助たちが叫ぶも、まきは動かない。
揺れる茅の動きを見ていたまきがそこから古猪が飛び出すのと同時に再び走り始めた。
「なんでや、今ので逃げ切れたかしらんのに」
今や逃げるまきと追う古猪の距離は振り上げる腕の長さほどしか開いていない。あと少し古猪が速度を上げれば手に足に齧り付かれる。
だが、まきは距離を詰められ過ぎることも離れ過ぎることもなく走り続けた。
その微妙な距離がもどかしいのか、古猪がだんだんと冷静さを欠いてきているように見えた。柔らかい肉を食いたいばかりに必死で追っている。
「まき、何してるんや――」
わけがわからず嘉助たちがお互いの顔を見つめ合う。
村長にはまきのやろうとしていることがわかった。知らず知らず両手の拳を握っている。
落とし穴のぎりぎり手前で、まきがかくんと右に折れた。
「あっ」
古猪が曲がることも脚を止めることもできずに穴縁の土を崩しながら落ちていく。
ぐぎぃぃぃぃぃぃ――
穴底から凄まじい声が響いた。
男達から歓声が上がり、村長は止めていた息を長く深く吐いた。
自分たちがあれほど苦労した獣にあの華奢な少女が勝ったのだ。




