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井神   作者: 黒駒臣
第二章 顧
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『猪狩山異聞

  一五××亥年亥月亥日 記』







 災害が多発したこの年は田畑の作物はおろか野山の植物さえまともに育つことがなく、本来人目を避け山奥にいるはずの猪が食物を求め、村里にまで出没し、村人たちを悩ませていた。

 中でも歳の経た狡猾で獰猛な古猪が頭痛の種であった。

 その猪の貪欲な食欲は、未成熟のままの実や萎れた苗など――それでも人にとって大切な作物――までも奪い、食うものがない時は同種異種関係なく生き物を襲って喰らった。

 そして――


「おいっ、みつはどうした?」

 夕焼けに照らされ山から帰る道すがら、嘉助がふと後ろからくる女房のたえを振り返り、彼女がみつを入れた嬰児籠(えじこ)を背負っていないことに気づいた。

 幾度耕しても猪に掘り返される田畑をあきらめ、夫婦は赤子を連れて朝から山芋を探しに山に分け入った。芋はなかったが、食用になりそうな草や根を摘んだ小さな籠はお互い手に持っている。

 空腹と疲労の中、食料になるものの探索だけでなく、野犬や件の猪の遭遇に気を張り、身も心もすでにくたくたになっていた。

「いややっ忘れてた。あんたどないしょ」

「どないしょって、はよ戻らな」

 二人は慌てて今来た道を戻った。

「籠どこへ置いてたんや?」

「ここらあたりやけど」

 手分けして探していると、嘉助の後ろからたえの悲鳴が聞こえた。

「ど、どないした……」

 たえが平伏し、下草に埋もれ泣き叫んでいる。

 目の前に嬰児籠が転がっていた。中に敷いた薄い座布団が吸った血は赤黒く変色し、その上には小さな左の足首だけがのっていた。

「みつぅぅぅ」

 たえは半狂乱で下草を土ごとむしり取り頭を上下に振り続けた。手指先から血が滲み出している。

「うちのせいや、うちのせいや。うちが忘れたさかいやぁぁぁ」

 嘉助はたえを抱きしめ狂った動きを押さえた。

「おまえのせいやない。みつはもう早よからやられてたんや。わしが悪い、気ぃつかんかったわしのせいや」

「みつぅぅぅぅ」

 泣くことを止めないたえの叫びを聞きながら嘉助は我が子の断片が他に残っていないか目で探す。

 足首だけでなく、できるだけ集めてきちんと葬ってやりたい。

 だが、目を凝らしても肉片どころか、座布団に滲み込んだ以外の血も一滴も見当たらなかった。

 食料を探すのに夢中だったとはいえ、悲鳴も泣き声も呻き声すら聞かなかった。まだ何にやられたのかわからないが、みつは声を上げる間もなく頭からいっきに食われたのだ。

 悲しみの底から怒りがふつふつと湧いて来る。

 誰やわしらの子をこんな目に合わせたんは。

 その時がさがさと熊笹の茂みが揺れた。

 嘉助は息をのみ、嗚咽を止めたたえと顔を見合わせる。

 深い茂みの奥を分け出て現れたのは大きな猪だった。

 年数を経た硬い毛並みに黄土色に変色した鋭い牙、狡猾さを湛えてこちらを睨む獣らしからぬ双眸、他のものより二回りも大きいこの猪は見るのは初めてだったが、嘉助は件の古猪だと確信した。

 そいつは嘉助たちに動じることなく嬰児籠に残っていた足首を鼻先で弾き飛ばしてぱくっと食べた。

 ぎりぎりという音が頭に響く。それが自分の歯軋りだと気付いた時に嘉助は傍らに置いていた籠の中に手を入れて鎌を握っていた。

 それを鼻っ面に叩き込んでやろうと思っていたが、先に起き上がったたえが雄叫びを上げながら猪に突進した。

「たえっ、やめぇっ」

 嘉助が止めるのも聞かず猪につかみかかろうとしたが、あっけなく弾き飛ばされ熊笹の茂みに落ちた。

「たえぇぇぇ」

 土を蹴って突進した嘉助は猪に向かって鎌を振り上げた。

 目を狙ったつもりだったが刃が逸れ、鎌は猪の鼻を抉った。

 ぐぎぎぃぃぃぃぃ

 凄まじい鳴き声を上げたが怯むことなく、猪はさらに狂暴な光を瞳に宿らせて嘉助を睨む。

 嘉助も怯まなかった。今度こそ目を心臓をこの鎌で抉り出してやる。

 嘉助の気迫に押されたのか、鼻先から血を滴らせた猪は突然踵を返し茂みに消えた。葉を揺らす音がだんだん遠ざかっていく。

 嘉助は慌ててたえの飛ばされた場所に走った。

 たえは目を剥いて息絶えていた。

 牙で裂かれた野良着の胸元は血に染まり破れた箇所から赤い肉が覗いている。

「たえ……」

 嘉助はその場で泣き崩れた。だが、ぐずぐずしてはいられない。たえの肉を狙ってまた猪が戻ってくるかもしれないのだ。

 嘉助は亡骸を抱えると急いで山を下り、村長(むらおさ)の屋敷に足を向けた。


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