穏
十月十二日水曜日 午後一時五十五分
一海寺方面路上
「そっか、お姉ちゃん頑張ったんやな」
小木原に背負われ今までのことを語る百華に、感心したように返す小木原の声が霧の中から降ってくる。
大きくて暖かい手に繋がれ、まだぐすぐすと鼻を鳴らしていた千華は急に恥ずかしくなった。
「いっぱい気持ち悪いもんみたけど、お姉ちゃんぜんぜんひるまへんのっ。ももを守ってくれてんのっ」
「うん、うん、お姉ちゃんすごいな。
そういや、さっきの傘もすごい振りやったわ。まだ手のひら痛いもん」
「ご、ごめんなさい」
揶揄い半分な声音だとわかっていたが、千華はしゅんとして謝る。
「お姉ちゃん泣かすなっ」
百華が小木原の頭を拳骨で叩いた。
「いたた。うそや、うそ。ぜんぜん痛ない、大丈夫やで。
そやけど傘を杖代わりにしたり、霧撒き散らしたりしもて進んでくるて、なかなか賢いで、千華ちゃん」
褒められて面映い千華はそっと小木原を見上げた。今は霧に隠れて見えないが、さっき少しだけ見えた顔は自分をいじめるなすび顔の竹田より、数十倍いや数百倍かっこいいと思った。
「お兄ちゃんはどうやって霧の中来たん?」
千華は聞いてみた。
小木原は霧の中を傘やそれに代わるものも持たず、普通に歩いて来たように見えた。今も千華の傘を繋いでいないほうの手に持ってはいるが、霧を拡散してはいない。まるで周囲が見えているように歩みを進めている。
「俺か? 何となくわかるいうか……って、こんなん言うたら気色悪いな? ごめん、ごめん」
言い淀み謝って、小木原はそれ以上言わなかったが、千華にはわかった。この人も百華みたいな力があるのだと。そして頼もしく思った。
「お兄ちゃんはなんでひとりでいてたん? 友だちみんな皮になってしもたんか?」
今度は百華が質問する。
「さあ? みんなどこ行ったかわからん。目ぇ覚めたら誰もおらんかったんや」
「ええっ、学校で寝てたんか?」
百華が呆れた声を上げた。
「はは、面目ない。そやかいなにがどうなってんや、さっぱりわからん。人の抜け殻みたいな気色悪いもんそこら中にようけ落ちてるし」
「あの……高校は避難所になってへんかったんかな?」
千華が訊くと、
「そうみたいやな。誰もおらんかったし」
「なあお姉ちゃん、お母さんどこ行ったんやろ?」
「う……ん……どっか避難してる思うけど……他の避難所いうたらどこなんやろ」
「千華ちゃん、百華ちゃんだけで行動したら危ないよって、さっき言うた通り、とにかく一海寺まで行こ」
「お兄ちゃんの家お寺さんいうてたな? ……お坊さんなん?」
百華が無邪気に訊く。
「う~ん、坊さんの卵みたいな? ま、俺は坊さんになりたないんやけどな」
ははは、と小木原が明るく笑う。
だが、
「……気持ち悪い」
たった今まで普通でいた百華が突然怯えた声を出し、千華は歩を止めた。
「どした? しんどいんか?」
同じように足を止めた小木原の声がする。
違う――霧でまったく見えないが、近くにいるのだ。百華が気持ち悪くなる何かが。
千華は百華の『勘』を小木原に伝えたいが、どう言えばいいかわからない。
「きっと疲れたんやな」
と言う小木原に、
「これ違う――」
千華が言いかけたと同時に、小木原が霧を巻き込みながら勢いよく振り返った。
真っ白で何も見えないが、背後に近付く何かの気配が千華でもわかった。
小木原の手の圧が強くなる。
「千華ちゃんっ走るでっ」
返事を待たず、千華の手を引っ張って小木原が走り出した。
一緒に走ったものの速さについて行けず、すぐ足が縺れた。
スピードを緩めもせず、小木原がぐいっと千華の身体を引っ張り上げて小脇に抱えた。
どんどんスピードが上がり、霧が後方に流れ去っていく。
それを見ながら、千華は抑えられない胸の高鳴りを感じていた。