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井神   作者: 黒駒臣
第一章 現
13/44

惨1

         

  

 十月十二日水曜日 午後一時三十分

 新関地区路上


「お姉ちゃんこわいよぉ」

 加野千華は左手で妹の手をしっかり握りしめ、右手で傘を杖代わりに――それを振りまわして霧を拡散――しながら、悪い視界の中を少しずつ進んでいた。

「だいじょうぶや」

 自分も怖くてたまらなかったが百華を励ます。

 とにかく母を探さなくては。必ず自分たちを待っていると信じて千華は霧の中で目を凝らした――


 登校してすぐ百華が気持ち悪いと言い出した。

 ジャックの吠える声でいつもよりもうんと早い時間に起こされたので体調を崩したのだろうか。

 あれからずっと浮かない表情をしていたのは知っていたが、何とか学校まで来たというのに。

 千華は門番係の先生に状況を伝え、百華を連れ帰ることにした。

「よし、先生が君らの担任に報告しとくから、心配せんでええで、気をつけて帰り。

 妹さん送ってったら加野はまた登校しろよ。戻ったら職員室に遅刻届の用紙取んにおいで」

「はい」

 先生に一礼し、千華は百華のランドセルを持ち、二人並んで今来たばかりの道を戻った。

「吐きそう? だいじょうぶ?」

 のろのろと歩く百華に声を掛ける。

 黙ってうなずく顔色はそれほど悪くはない。

 あ、千華はピンときた。

 これは体調の問題ではない。

 百華は『勘』が働く。

 以前、祖母が亡くなる前にもこんなふうに気持ち悪いと言って塞ぎ込んだ。

 今朝はジャックも騒いでいた。あんなこといつもはないし、百華の浮かない顔つきもそれからだ。

 何か悪いことが起こるのかもしれない。

 早朝の祖父の懸念も思い出し、胸騒ぎがした。

 嫌なにおいのする霧が猪狩山のほうから下りてきて段々濃くなってきているのも気になる。

 早く家に帰りたい。

「百華、しんどいかもしれんけど、もうちょっと早よ歩ける?」

「うん……」

 うなずいたものの、ますます歩調が遅くなっていく。

 千華たちの自宅は学区の一番端に位置し、新関高校と反対の猪狩山の(ふもと)にある。

 霧が濃くなる前に家に辿り着きたいと思ったが、百華に歩調を合わせた。

 時間がかかりながらも自宅に戻れた時は、辺りはすっかり霧で真っ白になっていた。

 その中で探り当てた門は開けっ放しだった。

 いつもはきっちり閉まっているのに。

 千華の不安はますます大きくなった。

「お姉ちゃん」

 震えた百華が千華にしがみついていた。

「だいじょうぶやよ」

 手探りで少しずつ進み、犬小屋を発見したが、そこにジャックはいなかった。

 今朝のように家の中に入れてもらっているのかもしれないと思いながら、玄関に向かってゆっくり進む。

 ノブを見つけ、ドアを開けた。

 やっと視界が良くなり、いつもの芳香剤の香りに千華はほっとした。

 下駄箱の上の置き時計は9時半を過ぎている。

 学校から家までずいぶん時間はかかったけれど、この時間ならまだ母は買い物に出かけてはいないはずだ。

「ただいまぁ。ママぁ」

 返事がない。

 今度は「おじいちゃぁん」と呼んでみる。

 祖父は必ず家にいるが、これにも返事がなかった。

 ジャックが駆け出してこないのもおかしい。

 しがみついたまま離れない百華と一緒に三和土を上がり、リビングに進む。

 全開になっている掃き出し窓から霧が侵入し、リビング全体が白く煙っていた。

「ママ? おじいちゃん?」

 蜘蛛の糸のようなべとつく霧を手でかき分けて、千華は窓ガラスを閉めるため掃き出し窓に近付こうとしたが、服の裾を百華が引く。

「ね、お姉ちゃん、あれ……」

 ソファを指さしている。

 背もたれに立てかけているクッションの上に何かが被さっていた。(よじ)れた布のようなものはブランケットやバスタオルにしては色や形が変だと思った。

 それに母はこんなふうにだらしなく物を置きっ放しにしない。

「なんやろね?」

 テーブルに自分と百華のランドセルを置いて窓を閉めてから、二人は恐る恐るそれに近付いた。

 それは空気が抜けて萎んだ大型の浮き輪に見えた。ビーチやプールで遊ぶシャチや海亀を(かたど)ったあれだ。

 だが、(うつむ)けに置かれたそれは、ビニールとは違う質感をしているし、形もシャチや海亀などではない。

「お、おじいちゃんっ?」

 急に声を上げた百華に「まさかぁ」と千華は笑った。

「ううん、おじいちゃんの抜け殻や。だっておじいちゃんの服着てるもん」

 確かに。

 二人はもっと近づいてみた。

 ぺちゃんこのこんなのが、祖父であるはずがない。

 だが毛穴まである皮膚や白髪の薄い頭髪がやけにリアルだった。

 千華が軽く髪を引っ張ってみた。それはずるりとクッションからすべり落ち、顔がこっちを向いた。

 ぺちゃんこだが、確かに祖父の顔をしていた。眼球のない黒い穴だけの『目』が千華を見ている。

「きゃああっ」

 二人は後退りしながら身を寄せ合った。

「ママっ、ママっ」

 百華が悲鳴に近い声で叫んだ。

 だが、いるはずの母はいない。

 何かとんでもなく怖いことが起きているのだ。

 早朝ジャックが騒いだのも、気持ち悪いという百華の勘も、これで合点がいく。

 まさかママもおじいちゃんみたいになってる? ううん。絶対だいじょうぶ。ママはジャックを連れて逃げたんや。それか、わたしらを学校に迎えに行ったんかも。

 無事を確認するためには母の抜け殻がないか、家中を探さなければならないと千華は考えた。

「百華、お姉ちゃんママ探すかい、お部屋へ上がっといて」

「いやや、一緒に探す」

「あかん。さ、二階へ行こ」

 渋る百華と一緒に二階に上がり、子供部屋に百華を入れると両親の寝室に確認に行く。

 ドアを開けるまで緊張したが、そこに生きた母親も祖父のような抜け殻もなかった。

 安堵して一階に戻り、風呂場やトイレなども含めて部屋を見回り、掃き出し窓から白く煙る庭にも出て、注意しながら探索した結果、庭にジャックの抜け殻となぜか吉村老人の抜け殻を見つけた。

 母の抜け殻がなかったことにひとまず安心したものの、この先どうすればいいのか千華は思案した。

 自分一人なら身軽に動けるかもしれないが、百華も一緒だと考えると、自宅待機しているほうが安全かもしれない。

 とりあえず、キッチンからスナック菓子とジュースを持って子供部屋に上がった。待っていたら何か進展があるかもしれないと考えて。

 だが、十一時になっても、十二時を過ぎても母は帰ってこなかった。

「もしかして避難してるんかも」

「えー、ももとお姉ちゃん置いて?」

「わたしら小学校にいてて、安全や思てんのや」

 そう思い始めるとそうとしか思えない。

 だが、母を求めて避難場所の新関高校へ行くのは、この霧の中、百華を連れて行動するのは危険だ。

「お姉ちゃん……気持ち悪い」

 突然、百華が震えだし、千華にしがみついて来た。

「えっ?」

「こわいよぉ」

 もしかして、ここにいてるほうが危険なん?

「よしっ、ママ探しに行こ」

 百華の勘に従ったほうがいいと千華は判断した――


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