逃
グラウンドの異常に気付いたのはこのクラスだけではない。その証拠に各教室や廊下が騒がしかった。
片岡と同じく、あれをまともに見た生徒がいるのだろう。泣き叫ぶ声や、見たものを興奮して説明する声が聞こえる。きっと放心状態の者も多数いるに違いない。
このクラスだけ「静かに」と制しても仕方ないのだ。この騒ぎであれがこちらに気づき、人を求めてじきに校舎の中へと入って来る。
聖徳が教室の中心にみんなを集めた。
「信じられんけど、化けもんが学校に侵入して人を襲ってる」
担任の掠れた声に蒼白い顔をした生徒たちはうなずいた。みな自分の目で見たのだ、信じざるを得ない。
「もしかして取り憑く相手で微妙に速度変わってる?」
誰にともなく訊く日野に、ビビりの村島は「怖いこと言うな」と震えた。
「足の速いもんに取り憑いたら、みな捕まってまうで」
日野が放心状態で動けず三上に支えられたままの片岡を見る。
「とにかくここから避難しましょう。あれが階段を上れるかどうかわかりませんが、ここで待機しているのは得策じゃないと思います」
三上が聖徳に提案した。
「どこへ避難するつもりや?」
信頼の目が向けられる。
「とりあえず、邪櫃神社に……これも得策かどうかはわかりませんが。父と合流すれば何か突破口がわかるかもしれませんし」
「よっしゃわかった。みな協力しあって無事逃げよ。日野と村島は三上助けて片岡を運べ。もし日野の言う通りやったら片岡を死守せなあかん。
ボクは他のクラスの避難誘導するさかい頼むで」
聖徳はそう言って教室を出ると他の教師の名を呼びながら廊下を右に走った。隣はD組でその向こうはC組、東階段をはさんでL字に曲がり、A組B組が並んでいた。E組の左横は西階段になる。
廊下の奥からすぐ聖徳の避難指示を飛ばす声が聞こえてきたが、混乱は収まらない。
「鈴木先生、外行ったらあきませんって、行くなって! お前らも落ち着け! 見に行ったらあかんてっ!」
制御不可能な状態が、廊下から響いてくる聖徳の叫びでわかった。
「他のクラス、アホ過ぎんか……」
三上と反対側の片岡の肩を支える日野がぽつっとつぶやく。
それを聞くともなしに、安全に避難するにはどうしたらいいのか三上は考えていた。
数人の女子たちは塊になって泣き、動こうとしない。恐怖で仕方ないとはいえ、こんなことでは迅速な避難などできない。
廊下からは何とか生徒たちを誘導しようと一生懸命な聖徳の声が続いている。
苛立った三上は女子たちを振り返った。
「泣くのは後にしてっ、素早く避難できませんよ」
「んなこと言うても、怖いんやから仕方ないやろ」
桧川芳が眼鏡の奥から鋭い眼で三上を睨んだ。彼女はこの状況に怯えることなく、震えて泣く女子たちを束ねようとしている。きっと落ち着くまで待とうとしているのだろうが、今、そんなヒマはない。
「言い争ってる場合じゃないです。早くついて来てください」
ちっと桧川の舌打ちが聞こえたが、それを無視し日野とともに片岡を支えて廊下に出ようとした。
「二階に上がって来てるっ」
右のほうから悲鳴のような叫び声が聞こえ、ばたばたとE組の前を数人の生徒たちが駆けていく。
三上たちはその勢いに巻き込まれそうになり、いったん教室の中へ身を引いた。
「東階段から来てるらしいで、はよ逃げっ」
顔を紅潮させて聖徳が走って来た。後ろには十数人の生徒を連れている。言うだけ言うと彼、彼女たちを連れてさっさと西階段に向かって走り去った。
引き連れた生徒は思いのほか少ない。東階段を下りてしまったものが多いのかも知れない。
「桧川さん、女子を動かしてください。村島君と男子何人か、女子の前に立って西階段へ誘導を。後ろは残った男子たちで固まってください。
日野君は殿をお願いします」
「片岡はどうするん? 三上君だけやったら無理やで」
「彼を正気づかしてから、日野君の後ろを追います」
三上はそう言うと、いまだ呆然となったまま動かない片岡の頬を思い切り叩いた。
「片岡君っ、しっかりしてくださいっ。
君たち、見てないで早く避難してっ」
まだ動かない日野たちを叱咤し、三上はぺちぺちと片岡の頬を叩く。
それを尻目に、桧川は女子たちを宥め賺して教室を出て、村島と日野他男子生徒は言われたとおりに動き始めた。
「片岡君っ」
耳元で怒鳴ると陸上部のエースは「うわあああっ」と大声で叫んだ。
三上は慌てて口を押える。
「しっ、大声出さないで。あれに聞かれたらこっちに来ますよ」
「あれなんや、あれなんやあれなんや」
「それは後です。今は逃げることが優先です」
まだ呆然としている片岡の腕を引っ張って、三上は日野の背中を追って西階段へと廊下の角を曲がった。
その時、二人は後ろを振り返った。
廊下にはもう誰も残っていなかったが、東階段の角からゆっくりと上って来た人の手足が見えた。
徐々に全身を現したのはさっきより捩れた須加だった。三上たちを見て廊下をこっちに向かってくる。
二人は慌てて西階段を降りた。
校舎を出た渡り廊下には他の階から逃げて来た一年生や三年生が溜まっていた。
聖徳や村島、日野たちクラスメートも戸惑った表情でその場に固まっている。
真っ白な濃霧に覆われ、視界が悪い。
霧に手を伸ばしてみると、絡みつくような湿気が気色悪い。実際にくっつきはしなかったが、まるで蜘蛛の糸のようだった。
それでみな一歩踏み出すのを躊躇っていたのだろう。
「早く神社に向かいましょう」
三上は片岡を促し、霧の中に踏み出した。
動きで霧が流れ、少しだけ視界が回復する。
霧を手で拡散しながら、およその見当をつけ、片岡を引っ張って校門に向かって走った。
校舎の中から「ぐわぁぁぁぉぅぅぅ」と耳障りな鳴き声がした。
その声を聞き、血相を変えてみな三上の後に続く。
階段を転がり落ちでもしたのか、完全に前後逆に捻じれた須加が、腰が抜けて動けず渡り廊下の隅にしゃがみこんだ女子生徒を咥え込んだ。
聖徳がそれに気づき、踵を返そうとしたが、「先生、もう無理や」と日野が止めた。
須加が女子生徒と身体を交換し始めている。
「この隙に、はよ行きましょ」
日野の言葉に、聖徳は悔し気な表情を浮かべながらもうなずいて足を速めた。
三上を先頭に、グラウンドを横切り校門に向かってひた走った。
人皮をまとう異形もんは、今はまだ素早く動けない。
この先あの貪欲な化けものがどんな動きをするのかわからないが、決して慌てることはないだろう。
この霧は網なのだ。
きっと自分たちはもう捕獲されているも同然で、後からゆっくりと喰われるのだ。
なぜこんなことに……
三上は完全に凶事に巻き込まれた我が身を嘆いた。