左手の人差し指
はじめて左手の人差し指に傷を負ったのは、物心も付いていない歳の頃、まだ色付いてもいない唇の端から涎を垂らし、垂らした分だけ母乳を飲み、飲んだ母乳を涎と垂らし、垂らした母乳を涎掛けで拭われてから、伸びた爪を順番に切られているとき、左手の人差し指に爪切りが差し掛かったその最中、窓先で鳴いた鴉によって母親の手元が狂い、爪切りは爪先を越えてハイポニキウムを薄く削いだのだ。
最初の傷を負った左手の人差し指を繁々と眺めるぼくは、これからこの指がたどるのであろう運命を知りもしないのに、未知の領域へと踏み出す好奇心を以てして早速口に放り込み、そこにある自らが与り知らぬものを味わうように、しゃぶり、ねぶり、噛むことで、また新たな傷をつくっては、愚かにも泣き出したのだ。
ほどなくして母親が指の歯形に気付き、ぼくの仕出かしたことを察し、それ以上の負傷を恐れて、ぼくと左手の人差し指の間に白いナヨナヨした包帯を巻き付けた。まだ包帯の解き方も知らない年端ゆえ、ぼくはその白く肥大化した指を気味悪がり、どうにかして自らから遠ざけようと懸命に腕を伸ばしたのだ。それを見てなにを勘違いしたのか、父親はぼくが抱かれたがっていると思い込み、その胸の位置まで抱え上げたのだが、ぼくは彼の胸にありながらもなお腕を伸ばし続け、指との距離を離そうとした。
それはさ迷う感情の行き場を空に指差す、ぼくの住む街の白い煙突と姿を重ねた。指と煙突、およそ50風里の景色を結ぶものは、ぼくの心象以外になにもない。まだ言葉にもならないぼくだけが知る密やかな感動、その在り処を示すように指を煙突へと向けると、そばの道を行く誰しもが足を止め、興味本位の視線で、その先端が示す先へと目を凝らした。
なにが見える。
なにか見えるのだろうか。
応答する上下の睫毛が触れ合うのも待たずに煙突の先に止まっていた一羽の鴉が、その鋭敏な瞳に藍色の感情のスペクトラムを映示し、夜のように暗い翼を左右に広げて飛び立ち、そこからここへ、つまり左手の人差し指を目掛け、一息に襲い掛かってきたのだ。
初対面の挨拶に足爪でまず一撃、包帯の幾片が千切れて宙を舞う、続けて嘴が裂け目をつくり、何物にも覆われていないぼくの指を露わにする。現れたのは原材料不明のソーセージ。今はただ無知に恥じらいもないこの指は、これから掴むものや摘むもの、爪弾くものと、突き刺すもの、そして指し示すものどもから、どれだけ傷付けられるかも知らないのだ。
ぼくはそう感慨に耽りながら、指を遠ざけることを止め、鴉を追い払う父親の腕から降り立って、生まれてはじめての二足歩行を開始する。
踏み出す一歩目を左右する、身の重きに傾けるままの一大決心は、より前のめる半身に委ねる両極端の膝小僧への加重に従うので、負傷分の減量を加味すれば、右足が先に出ることは必定だったのだ。ぼくは右足から先に歩き出した。左足はあとから出した。右手がそれに従って前に振り出され、揺れ戻ると同時に左手が前へと向かった。
前方には壁があった。理に適ったものばかりで築いた構造物の外壁だ。その高さも厚さも定かではない壁にぼくの左手は真正面から衝突した。焼き切れるような痛みのなか、左手の先にある五指について語っておくべきだろう。小指は早々に手の平のうちに隠れ、感情線に半ば爪を食い込ませるようにして小さく折り畳まれたので難を逃れた。その隣の薬指も真っ先に動いた小指に連れられたので無事だった。中指はというとその身の丈もあり損傷の第一候補であったが、常日頃からそのことに自覚的であったため危機感も人一倍あり、このような事態に陥ったときに備えて親指と密約を交わしていた。
それは人も指も、人差し指も寝静まった夜半、羽毛布団に保温された薄闇のなかで、中指と親指は静かに爪を擦り合わせたのだ。
有事の際は間にいる人差し指を弾き飛ばして欲しい。その代わりと言ってはなんだが、ジャンケンの際、人差し指よりもきみの方がチョキに相応しいと、皆に推薦しようじゃないか。
その約束通りに親指は中指よりも先に手の平に降りてきた人差し指をコイントスの要領で弾き飛ばした。その隙に中指は手の平に収まることができたが、弾き返された人差し指は壁に垂直にぶつかり、症例として理想的な突き指を果たす。
その頃のぼくの齢は八つ、幸いにも右利きだったので左手の人差し指を突き指しても日常生活にはなんら支障はなかった。それどころか当時のぼくは、右手のみで生活をするというルールを自らに課していたので、利き手ではない左手のことをほとんど忘れかけていた。そのため突き指も友人から赤く膨れ上がっていることを指摘されてはじめて気付いたほどで、気付いたあとも治療をすることもなく放置した。
それよりも右手のみでの生活だ。ぼくは右手のみで食事をし、右手のみで衣服を着脱、右手のみで扉を開けて、右手のみで外に出る。右手のみを振って走り出し、横断歩道のその手前、右を見て、左を見て、右手を見てから駆け抜ける。花屋の角店、跳ねる路面、走って出向いた公園の友人たちに右手を上げてご挨拶、身近な雑談、遠くの猥談、見つけたボールを投げ合って、右手のみで受け答え、それにも飽きたら未踏の藪を右手だけでかき分け進む。右手だけで枝葉をよけて、右手だけで蜘蛛の巣を払う。揺れる梢に愉快な声、不快な汗と汚れる右手、行く手を阻む倒木を身軽に越える友人たち、右手のぼくは次第に遅れ、皆が藪葉で見えなくなる。孤立、焦燥、切迫感、これでは一向に追いつけないと、ぼくは左手を使うことにした。
一切の使用を断っていた左手、自分のものではない不自然な挙動で肩から順に動き出し、ぼくを前方へと導いていく。暗中模索の藪の先、快晴の澄み渡った大気に肘を突き出し、さらにその先を求めて前腕を伸ばし、よぎった鳥影を追って手首を返して広げた手の平の極端、切り忘れられた爪に落ちる晴天からの一雨、不要無用の枝葉末節にこそ雨粒は落ちるのだ、極彩色の雨傘が一斉に開かれるなか、走ることを厭わなかったものだけが知ればいい雨の濡れ方、夢も現実も見ることを諦めたまぶたに張り付いた髪の毛、払うのは決まって右手だから、いつまでも手持ち無沙汰の左、持て余した暇を弄ぶように、目に入る不恰好なものそのひとつひとつを指差して心から笑うことができるのなら、それが素直にできるのなら、もうどんなことにも傷付かなくていいはずだった。
しかし左手の人差し指にはまた傷ができる。
帰宅、就寝、朝目覚め、めざましジャンケンに夢中で見逃した天気予報の報復に遭い、指を狙った集中豪雨、皮脂を流されて乾燥した関節に赤切れ、悪化してささくれ、かばうような動作を続けて関節痛、通学した教室の図工の授業中、手渡されたカッターを取り逃がし、急いで病院、三針縫い、帰りの扉でもたつき挟撃、ただの打撲と思いきや診断は骨折。
それらの傷を隠すため、絆創膏や湿布、ガーゼ、包帯、ギプスが次々に指を継ぎはぎに覆っていき、やがてぼくをも取り込もうと厚ぼったく膨らんでいったものだから、これがぼくの素性となる前に、これからのぼくを形成してしまうその前に、ぼくは病院からの帰り道、両親に付き添われて歩く商店街の人ごみに紛れて姿を消したのだ。
「ぼくちゃん? ぼくちゃん?」
行方不明になったぼくを探す声を暗がりから聞いていた。両親は人であふれた商店街の通りで呼び掛けを続け、ぼくと同年代の子どもを見かけるとその左手を取り、指をかき分けて人差し指に到達すると付け根から静脈に沿って爪先まで視線を這わせ、そのどこにも傷がないことを見知って落胆、「この偽物!」と人ごみに突き返して、また次の子どもに取り掛かる。嫌がる子どもを強引に引っ張り出し、人目の少ない建物の間隙に連れ込み、壁に左腕を押さえ付け、小指、薬指、中指と順々に手の平から引き剝がしていき、親指の下で隠れて震えている人差し指を摘まみ上げて、皺のしわ、皺のしわのシワシワまで入念にチェックする。
「この偽物!」
「これも偽物!」
「偽物の子!」
取っ替え引っ替えに子どもを連れ去り、壁に押さえ付けて指を見る。まじまじと見る。見て傷がなければ突き返し、次の子どもをつけ狙う。しかしどの子どもの指もツヤツヤした健康的なものばかりで、ぼくの左手の人差し指とは似ても似つかない。それでも諦め切れない両親が向かうのは、商店街を通り抜けた先にある公園、夕日色の遊具を仲良く共有する子どもたちの、土や砂、少しの錆と駄菓子のカスで汚れた指を確認するが、そこに傷はない、一切ない。
街の煙突に日が隠れて暮れるその瞬間まで執念深く子どもを追いかけ回し、確保、羽交い締めにして拘束し、悲鳴を上げる左手を締め上げ、捻り出した人差し指を見てため息を吐き、そのすべてが肺から吐き切られたとき、夜になる。
夜は大人しく家に帰り、ぼくが使っていた手袋の左手のみに頬ずりしながら眠りに就き、翌日の朝一番から電車を乗り継いで遊園地へと繰り出し、開園前の待機列にいる子どもの指を従業員のふりをして点検し、開園すれば早くも盛況のメリーゴーラウンドの木馬にしがみ付くその手を、着ぐるみから風船を受け取るその手を、コーヒーカップのハンドルを回すその手を、観覧車の窓ガラスに添えられたその手を、ジェットコースターの安全バーを掴むその手を引き剥がし、傷の有無を確認する。
「ぼくちゃん、どこなの? ぼくちゃん?」
迷子アナウンスの園内放送をジャックして園中に呼び掛けてみても発見の兆しは一向になく、泣く泣く家路に着くその道中、立ち寄ったスーパーマーケットの冷蔵ケースのなかに、山積みにされたソーセージを見て両親は飛び上がる。
「ぼくちゃん! ぼくちゃん!」
かき分け、取り出されたものがぼくの指だったのか、会計時にレジスターの電光掲示には、ぼくの左の手の人差し指、と確かに示されていたので間違いはないはずだが、その価値が本当に1034円相当なのかは定かではない。なんせ一緒にレジ袋に詰められた晩ご飯のどの食材よりも値が張ったからだ。
食材たちもその意見に同感なようで、指に対する風当たりは強く、歩行の振動で攪拌される袋内では、食材たちの露骨な対応が目に付いた。ニンジンは爪先を伸ばして指の腹を打ち、ジャガイモはビニールの反動を使って体当たりする。豚バラ肉が包装の隙間から肉汁を噴射すれば、それで足を滑らせたと装ってバーモントが伸し掛かる。
しかし怪我に慣れている指にとって、その程度は他言語の当て擦り、痛くも痒くも、気持ち良くも悪くもならない不感のお薬、むしろもっと刺激が欲しいくらいで自らアボカドの角にぶつかりに行ったのだが、そのあまりの強さにもう忘れ去られていた傷跡に一筋の亀裂が入る。完治してから寡黙に徹していたのに、痛みの除かれた血液は赤く辺りを見渡し、血飛沫は音吐の形を取って開いた傷口から迸り、消息を絶ったぼくの証言を吹き出したのだ。
「そうね
風切る手振りの拙さ
忘れてしまったのね
交差する感情を鵜呑みにして
覚え立ての飛び方もまだぎこちないから
簡単に風にさらわれてしまったのよ」
切り傷がそう切り出すと、開いた傷の分だけ寄った皺で皮膚が引きつれ、呼び起こされる痛みが、遅れてきた内出血の青痣で抗弁する。
「いいや、破片。
いや、断片。
なんと見事な切断面!
これ見よがしの断絶は
蜥蜴の末端自切様の
不要な自己を囮にした決然とした敗走劇!
敗退分離すれば再起も容易と
高を括ったかのような身軽な消失!
そこに葛藤はない
葛藤はないのだ!
さぁ、どうだい
どうだい
そこの
そこの、ささくれ!」
同意を求められてささくれ、些細な裂け目をさらに裂き、自信なさげに囁き出す。
「不甲斐ない過去を見放し
現在から未来を見納める
現実に合わせるように焦点にした指図は
差し詰めギプス全身骨折
完治半世紀
余命四半世紀
勘定して差し引いたのか
感情を灯して差し伸ばしたのか
その手の止め方を知らなかったから
誰か、
誰かに、
止めて欲しかったのか」
そのすべてを最前線で目撃していた自分こそが正しいと、深爪が不快感を催しながら物申した。
「不用意な気遣いに
気疲れして
塞ぎ込むくらいなら
自分勝手と指を差されても
刺し返すことなく
さほど傷付いていない顔振りをして
差し障りないように削った先で
誰も傷付けないように
明日へ生きたのさ」
それを聞き、それまで固く閉じていた指の付け根の切断面がようやく傷口を開けたのだった。
「おうおう、
痕跡は好き勝手な整形外科
はたまた外来するホラの溜まり場!
貧困な想像力では語り尽くしても形作れない末端肥大
律儀に引き敷いた理路で息巻くその前に
引きつった笑顔で転び出て
劣等感を巻き添えにした轢断は
生涯まれにみる指標のない暗夜走行
目指すものなどない、なにもない!
ひたすらの日すらそう嘯ければ立派な孤高
誰も傷付けたくないだって?
いいや、傷付けてきたものすべてを傷付け返したい!
切り傷に切り付けたい!
打身を打ち付けたい!
骨を折った分だけ折り返したいし
差された仕返しに刺し返したい!
しかし、
そう成りきるには
あまりにも孤独に免疫薄弱
だから、
その反心を納めた鞘のなか
傷付けることと刻み付けることの違いを
考えてばかりいるのだ!」
ぼくはそう痛む左手を拳に丸めながら、身を潜めていた暗がりから辺りの様子をうかがう。街の隅々までを満たした人々が、密集して癒着してできた大口で交わす言葉は独り言、自己肯定と事後の工程、それらがぼくに投げかけられたものではないことが、雑踏を喧騒にして流暢に漂っている。
「ぼくちゃん? ぼくちゃん?」
暗がりから出る。
暗がりから出たら明るみに移る。
それと同時に各所で名乗りを上げる電光看板、そのひとつひとつを覚えたくなくても覚えてしまう。忘れたそばから声を上げ、忘れないでと欹てる。
「ぼくちゃん? ぼくちゃん?」
聳え立つ建物の間を抜けてきた風は、横なぎに身体を歩道へと押しやる。忘れずに右足から踏み出す。遅れずに左足が動き出し、ぼくは道を歩き出す。その間も吹き寄せる風は、無作為に散らばった前髪を左から右へと砕きながら、そこにも風紋の規則を適応させ、七対三にきれいに分ける。それだけで一端の社会の徒に仕分けられるのなら楽なもんだ、と思いながら凝ってもいない肩を揉む。
視界を遮るものがなくなっても、見違えることのない景色には人々の人、空気に蔓延る共感を一頻り呼吸で共有し、流行りの早口空咳話法、物分かりのよい唾液を掛け合い、途切れなく吐息を交わして意気投合、ともにする病を敬いながら笑い合い、マスクをした無症状の無表情を指摘し、声を重ねて笑い広げていく。
そうしてすべての、すべての人々が感染した病に未だ罹れずにいることが、どれほどの苦しみなのか。それを量る天秤はどこにもないからその辛さは一向に分からない。ただ知られてはいけないことだけは分かっているから、人差し指の欠けた左手をさり気なくコートのポケットにしまう。
その逃げおおせた無風の空洞で、血の気の引いた手先が把握と放棄の反復、血路を開こうと擦り切れた安物の裏地をいくら捉えても触覚は何事も語らない。それでももがき求めていれば、失った人差し指の傷口になにかが当たって痛みが走る。 なにかってなんだ。
「ぼくちゃん? ぼくちゃん?」
早口でなんと言ったのか聞き取れなかったので聞き返す。
「拝啓、
お日柄が決まって良好なほど不幸なことはなく
降雨の日に限って
傘立てはより一層の賑わいを見せるのでしょう
さて、依然として行方の知れない片傷に
こうしてお知らせするからには悲しいお知らせ
若くして亡くなった左手の人差し指
その死に様は筆舌を尽くすほどもなく
このように言葉を並べるのも億劫なほどなので手短に
葬儀にお招き招き致し候」
乾燥した喉で息が滞りせき込む。マスクのなかの結露をくちびるに移して舌に流し、それを飲み込んで気道を広げる。呼吸が整い、落ち着きを取り戻し、ポケットから案内状を取り出して会場までの道順を確認する。
あの角を曲がらずに直進、偽装丁詩歌本店の誘惑を脇見して、最初に目につく歩道橋で対岸の歩道へ移って煙突を見上げ、自身の概ねの位置を把握してから頑丈なガードレール沿いに歩み、信号機のない横断歩道に躍り出て、轢き逃げ注意の立て看板に肘鉄砲、それを銃声と聞き間違えた片脚の老人に敬礼され、戸惑いながら会釈で返礼、求められた握手に少し考えてから左手を差し出せば、老人は笑みを広げ、失った方の脚で路地を示す。
「あちらに行けと言うことですか?」
老人は頷く。ぼくは敬礼してその路地に向かう。両側を挟む建物は緻密さでぼくを圧迫する。しかしこの息苦しさは馴染み深いので対処は容易だ。完璧な配分のコンクリートには唾を吐きかけてやれば済むし、丁寧に編み込まれたフェンスは強引に網目を広げてしまえばいい。それだけで簡単に乱れてしまうものに縋って居座っている住居人の罵声なんて笑い話、混じり気のない鼻歌で離れて路地を進む、それで済む。
「言い得ぬ奇妙を売りにした
斜めに咲いた蓮の花
横から見れば降伏低頭
言わずと知れた茎曲がり
日照時間は足りている?
一生の時間をそう過ごす?」
鼓動に合わせて痛む傷口、気にしなければ気にならないが、気にしないほど気は強くない。気が済むまで痛みに任せ、葛藤! 葛藤! 気が済んだら路地を抜ける。
地図によればこの辺りが会場、見回せば電柱に立て看板、左手の人差し指の葬儀場はあっち、それに肘打ちして老人を呼び出して尋ねる。
「あっちってどっちですか?」
老人は笑顔であっちを示し、ぼくはお礼を言って握手をし、あっちへ向かって歩き出した。 あっちの周りは静まり返り、しんみりとした白と、どんよりとした黒の幕に覆われていた。ぼくはその白を横切るときは白々しい罪悪感を、黒のときは苦労の優越感を滲ませる。そうしてモノクロに点滅しながらあっちへと到達し、その通用口の端に転がっていた消毒用アルコールのボトルを拾い上げ、ポンプを押し込み、唾のように吐き出された消毒液を手の平で受ける。それを丹念に両手で擦り合わせているぼくが今ここで、なにか願っても、なにも願わなくても、アルコールは熱を奪い揮発する。あとに残った清涼感は幾分か爽やかに香るも、鼻を抜ければ過剰なまでの生熟れ、敏感にくしゃみを繰り返しても、飽きもせず撒いた種が芽立ちのない地肌をいつまでも圧迫するように、痛みに似通ってぼくに語る。
「唾棄すべきはその繊細さ
固唾も虫唾も
一緒くたに飲み下す強靭な喉仏をこさえれば
軽口建前会館の入場列に並べるのだよ」
ぼくはまた、へばり付いた喉を広げるために露を口にして、あっちのなかに入って列の最後尾に並ぶ。参列者の人数はそれほど多くはないが、まったくいないというわけでもなく、十数人の人が人々となり、列をなしている。
「可哀想に、まだ小さいのに」
「まだ小さいのに、可哀想に」
参列者の誰かがそう口にする。しかし、そのあとに聞こえてくるのは啜り泣きではなく含み笑い。ぼくはマスクの位置を下まぶたまできっちりと上げ、表情を知られないように少しだけ俯く。列が進み、ぼくは右足から一歩前に出る。その一歩の分量、消費されたのは左手の傷の痛み、このまま進めばいずれ痛みがあったことも忘れ、
一歩前へ進む。
傷があったことも、
一歩前へ進む。
傷跡のことも忘れてしまい、
一歩前へ進む。
ただ覚えているのは、
一歩前へ進む。
なにかが欠けたことだけになる。
一歩前へ進む。
それだけ覚えているのなら、
一歩前へ進む。
それでいいのか。
そう思いながらもう一歩前へ進み、傷だらけの左手の人差し指の遺影を前にし、ようやくぼくから痛みがなくなる。
「ありがとうございます
ぼくちゃんのために、
わざわざ、
遠いところから、
ありがとうございました」
ハンカチで目元を拭いながらそう口にした人たちに黙礼し、ぼくはかつてぼくの左手の人差し指だった遺影の前で、祈るのでもなく、悲しむのでもなく、虚ろな目をしばらく向けてから体の向きを変え、どこかへ向けて歩き出す。
どこかとは、もちろんぼくも知らなくて、知らない場所のことをどう説明すればいいのか分からないから、それらしい適当な言葉で濁してしまおうかとも思い、マスクを外そうと手を掛けたとき、そのとき、ぼくの目の前には、片腕で奮闘している小さな男の子のぼくがいた、いたのだった。
ぼくは外しかけたマスクを再び付け直し、ぼくが知り得る一通りの将来を彼に伝えたが、なかなか信じてもらえないので、ジャンケンの勝敗でその真偽を決定する提案をした。
小さなぼくが大きく頷いて右手を出したので、鏡写しに従って当然ぼくは左手を出す。いつの間にか周りには人集りができ、歓声を飛ばしている。ぼくは人差し指のない左手を見せつけるようにして勢いよく掲げ、ジャンケンの掛け声を口にする。
「ハイパー、ジャンケン、ターイム!」
人々が待ちに待っていた局面に、歓声は一段と大きくなり、指笛が鳴って拍手が巻き起こる。騒々しく周囲が沸き立つなか、小さな男の子のぼくは真剣な顔でどの手を出すか考えている。その様子を微笑ましく思いながらも、子どもだからと手を抜くことは、彼を一人の人間として見なしていないことになると思ったから、ぼくも真面目になんの手を出すか考える。
生まれながらにして与えられた手段は少ない。限られた手でどうにかこうにか工夫しよう、つきまとう愚劣さを見るに耐え得る程度の見苦しさまで取り繕い、七転八倒、三十六計、長期に掛けて足りないなりの手段を講じても、邪険、ぽんこつ、相変わらず、行きつく結果は白紙に決まっているようだった。
ぼくが負けると、周囲を取り囲む人々は一斉に腕を突き出し、その先についている人差し指でぼくを示す。
ぼくの顔を、ぼくの腕を、ぼくの目を、ぼくの腹のなかの内臓の内容物を滅多刺しにするために突き付けた集中線の包囲網、それを突破する正攻法なんて考えるだけ無駄だから、彼らの病にうつる前に、道を外れた言葉で煙に巻いてしまおうか。
冒頭、はじめて左手の人差し指に傷を負ったのは、物心も付いていない歳の頃、それが動かないよう歯で止めて、尖らせた舌で摩擦しよう、唾液の潤滑で速度を上げて、絞った肺から吐息を送り、苛立ちまぎれの舌打ちで着火、すべて茶化して期待なんかに応えない、発色した唇から吐き飛ばし、しらばっくれてお役御免、嘘吐き防止、マスクに濾過されたら詭弁は不便、伝える気なんて微塵もないからそれでいいって、鵜吞みにしないでこれらの感情、この一言だけで溜飲下げて、ぼくより先に狂ったふりして泣かないで、軽口弄して順番乱し、丸め込んだらハイポモルフ、刃を逃れて暗い鳥、寄る辺ない空、ハイチムニー、紛れて消えよう、さようなら