婚約破棄は不幸じゃない
「ねえサンディ、私卒業したあとでロバートと別れちゃうんじゃないかって不安なのよね」
「え?」
リリアンは友人のサンディに悩みを打ち明けた。二人は通っている寄宿学校のクラスメイトであり、仲が良い。
「うーん? 心配ないと思うよお? だってロバートとリリアンは婚約もしてるじゃない?」
サンディはおっとりした口調でリリアンを慰める。サンディはブロンドのショートカットの似合う小柄でキュートな女の子だ。
「そうなんだけど。最近あまり会ってくれないし、廊下ですれ違っても私のことを見てるようで見てないというか.......」
リリアンは伏し目がちに一点を見つめながらロバートへの不満をこぼしていた。リリアンの髪は肩の下まで伸びている黒髪で艶がある。長身のせいもあり凛として大人びて見える。
「それはリリアンの気のせいだよ」
「そうかな? 私あまり明るい性格じゃないし、そんなにオシャレでもないしね」
リリアンが終始浮かない顔をしてるのを見て、サンディは踵を上げて彼女の頭に手を伸ばした。
「よしよーし、リリアンは今のままで大丈夫だよ。きっと大丈夫、ロバートとは上手くいくよ」
サンディに頭を撫でられ、リリアンはほんわかと暖かい気持ちになった。
リリアンとサンディは最高学年になってからの仲で、きっかけはサンディが話しかけてきたことだった。
サンディは社交的で男女ともに人気があり誰からも好かれていた。一方でリリアンは自分から話しかけるタイプではなく友人は少なかったがそれほど気にしていなかった。
おしゃべりなサンディが好きな話題は大抵男女の恋の話だ。しかしリリアンは他人の噂をするのは気が引けるのでいつも自分の話をすることが多かった。
「リリアン、また悩みがあったら相談してね」とサンディが笑顔で言う。
「うん、ありがとう」とリリアンもニッコリ笑った。
この時代、貴族の令嬢や令息が通うこの学園での生活の中で男女の付き合いをして、卒業前に婚約相手を見つけるというのは古臭い慣習になりつつあった。だがほとんどの家庭からしても、特に娘が早くに婚約相手を見つけて卒業後の進路を確定させてくれるのは安心感があった。
☆
学園生活の終わりがあと3ヶ月に迫っている12月初めのことである。
ある日、リリアンとサンディが次の授業に行くために廊下を歩いていると、ロバートが友人たちと前から歩いてきた。
公爵家の生まれであるロバートの周りには、同じく家柄の良い友人の男の子たちが数人いた。
リリアンは隣でサンディが表情と雰囲気を繕ったことに気づいた。そして男の子たちの視線はやはりサンディに向けられる。
リリアンがロバートの方を見ると、彼と目が合った。しかしその時、彼女は彼の視線の動きに気づいてしまった。
(え、なんかロバートまでサンディの方見てなかった? どうして私の方を最初に見てくれなかったんだろ)
ロバートはリリアンよりも、彼女の隣にいるサンディの方を見ていた。婚約者であるリリアンではなくサンディに先に目がいっていたのだ。
すれ違いざまにロバートはリリアンに対してニッコリと微笑んだ。しかしリリアンは彼に微笑み返すことができず、すぐに目を逸らしてしまった。
「ねえサンディ」とリリアンは隣のサンディに声をかける。
「ん? どうしたの?」
サンディは屈託の無い笑顔で返してくる。
(なーんかサンディいつもと違うなあ)
リリアンの問いかけに対して、サンディの返答は一瞬の間があった。ほんの僅かな間だったが、そこに普段の会話の時とは異なる雰囲気が漂っていた。
ロバートの視線、サンディの雰囲気、リリアンは気づかなくていいことや考えなくていいことまで考えてしまう自分が少し嫌だった。
些細な勘違いかもしれない。しかしこういう時の察知は案外当たるもの。
それから、リリアンとサンディの関係は少しギクシャクするようになった。
リリアンからはもちろん話しかけなかったし、サンディもリリアンに話しかける頻度が減っていった。
☆
ある日の放課後、リリアンは忘れ物をしたことに気づき教室に戻った。
普通なら誰もいない教室から話し声がする。
女と男の笑い声が聞こえた。
(え、この笑い声。サンディとロバート? 気のせいかな)
徐々に近づいてくる教室。
(引き返そうかな。でも私はただ忘れ物を取りに行くだけ)
リリアンは自分の意志とは裏腹に歩みを止めることができなかった。
そして教室の前まで来てリリアンは固まった。
「リリアンにはバレてないよな?」
「うん、気づいてないと思うわ、ふふふ」
「何してるの?」
リリアンは教室の入口からそう叫んだ。
ロバートとサンディは仰天してリリアンのほうを見た。二人の距離は親密な関係であることが一目でわかるくらいに近かかった。
リリアンの表情は真顔でその視線はロバートではなくどちらかと言えばサンディに向けられていた。
「リリアン、どうしたの?」
(どうしたの?)
またこの台詞を聞いてリリアンは気持ちが冷たくなった。人は何かをごまかそうとする時だいたいわからないフリをするものだ。
一旦間を置いて言い訳を考えるために、聞こえないフリやわからないフリをするのだ。リリアンはそのことをわかっていた。
「リリアン、聞いてくれ。これはそういうのじゃない」ロバートが少し早口でまくし立てる。
リリアンはロバートではなくサンディに視線を向けた。リリアンが聞きたかったのはサンディの言葉だった。
「もうすぐ君の誕生日だろう? 何かお祝いをしようと思ってサンディと相談してたんだ」
「そ、そうよ。来週はリリアンの誕生会でしょう? 驚かそうと思って、ごめんね。」
リリアンはそこまで聞いてすぐにその場を立ち去った。これ以上その場にいると、どうにかなってしまいそうなくらい胸が苦しかったからだ。
(ごめんねってなによ)
放課後の教室でサンディとロバートが会っている。その事実にリリアンは打ちのめされていた。二人は彼女に黙って密会をしていた。それもあんなに親しげに寄り添い、笑っていたのだ。
リリアンはいつかロバートが言ってくれた言葉を思い出した。
「リリアン! 君こそ俺に相応しい女性だ。ウォーレン公爵もきっと喜ぶと思うよ」
ウォーレン公爵とはリリアンの父親だ。今思えばなんて薄っぺらい言葉だ。ロバートは所詮家柄でしか自分のことを見ていなかったのだとリリアンは思った。
リリアンは二人の事はどちらも信じたかった。なので悪い方向に考えないでおこうと思ったが、実際は、心の中ではロバートへの気持ちは冷めていくのだった。
リリアンがその日受けたショックは相当な物で、それから何日も精神的にしんどかったが、なんとか日常生活は普段通りに過ごすよう努めた。
☆ 一週間後
ある日、リリアンは寮の前で知り合いに会った。名前はルイス。国内でも有名な名家の公爵家出身の長子だ。彼はたくさんの令嬢から狙われてはいるが卒業間近のこの時期になっても恋人の噂は全く聞かないままだった。
「こんにちは、リリアン。最近寒くなってきたね」
「ごきげんよう、ルイス。そうね。」
「.......。最近ロバートと上手くいってる?」
「ええ、とても上手くいってるわ。どうして?」
「それならいいんだ。あいつ最近クラブにも顔を出さないから。その割に寮に帰ってくるのも遅いんだ」
「そうなの?」と戸惑いを声色には出さなかったが、リリアンの表情が曇った。
ロバートがクラブにも行かないで帰りが遅い。先日のこともあり何をしてるのかなんて考えたくなかった。
二人はその後しばらく立ち話をした。卒業後の進路のこと、夢のことを話した。ルイスは卒業後に明確な進路が無いことを悩んでいた。
「私はやりたいことがあるから、そのための勉強を頑張ってるわ」
「リリアンはすごいね。僕は卒業後の事はなかなか決められなくてね。親族からの期待とプレッシャーで潰れそうだよ」
「そうなの? でも親族からどう思われるかは関係ないわ。あなたはあなたの人生をしっかりと考えて歩むべきよ」
「そ、そうかな。実は僕、父の所有する土地を約100エーカーほど貰える予定なんだけど、どんなビジネスを展開すればいいかわかんなくて」
「そうね、動物園でも作ればいいんじゃない」
「そ、そりゃいいね」
「あなたは元々裕福なんだから、自らの利益の為ではなく人々が楽しむことをして社会に貢献することが大切だわ」
「なるほど、社会貢献か。考えたこともなかったなあ」
ルイスの話はいちいち鼻につくようなところがあったが、上辺だけで話しているわけではないところがリリアンにとっては安心感があった。言ってることは意外と現実的なのだ。二人は案外気が合うのか、寒空の中でも長話をして別れた。
寮に入ろうとするとサンディがやってきた。
「リリアン、どうしたの? 今のルイスだよね。何を話してたの?」とサンディは微笑みかけてくる。
「ちょっとね、いろいろお話をしてたの」リリアンはそう言いながら心底恐怖した。
リリアンは先日のことがあってから彼女とは距離を置いていた。しかしサンディが何事も無かったかのように話しかけてきたことが彼女は信じられなかった。
この前のことは上手く誤魔化せたつもりなのか、気まずさもあまり感じられない
と彼女は思った。
「そっか、ねえねえリリアン。今週はあなたの誕生会を兼ねたお茶会ね。とびっきりのお洋服で行こうね」
「ええ、楽しみね」リリアンはそう言って寮の自室に戻った。
人間関係とは刻々と変化していくものである。
リリアンとロバートは学校に入る前からの知り合いで、家同士の繋がりも多少あった。
周りは応援してくれているが当人同士の気持ちを尊重するなら必ずしも結ばれる必要はないとリリアンは考えていた。
なぜならこれまでもロバートに誠意を感じたことは余りなく、ただ彼の言うままに付き合っていただけなのかもしれないと彼女は考えていた。
(ロバートが、サンディのことを好きならそれは仕方ないわね。ただ私との関係をハッキリして欲しいわ)
リリアンは入学前に言われた祖母の言葉を思い出していた。
「政略結婚なんて遠い昔の話よ、私の頃でもロマンティックに愛し合って結婚したものよ。でもあなたが学校に行く目的は、結婚相手を見つけることでも花嫁修業をすることでもないわ。自分自身で人生を切り開いていく力を育むためなのよ。頑張るのよ」
リリアンの祖母は稀代の努力家であり、父や祖父も頭が上がらなかった。常に品格と誇りを持ち、人生において夢や生きがいを大事にしろと教わっていた。
(ロマンティックな恋愛か。そんなの物語の世界の話よね)
リリアンは溜め息をつきながら、今度のお茶会のための洋服を選んでいた。
☆
お茶会の日、リリアンは朝からドレスを着てラウンジでくつろいでいた。この場所は寮の中でも元々男女兼用となっており社交の場でもある。
お茶会が行われるのは別館の会場であり、寮の中は準備やドレスコードの場だった。大人になったときの社交界の真似事だが、人間関係を確認、構築する場でもあるので皆気合いが入っている。
リリアンの誕生会を兼ねたお茶会とあって、本日の主役である彼女にたくさんの人が声をかけてくる。
時間になりリリアンが会場へ行くと、少しザワついた雰囲気が漂っていた。皆が一様に注目している方向にはロバートとサンディの姿があった。
リリアンが目を疑いながら立ち尽くしていると、二人は腕を組みながら彼女の方に近づいてきた。
「やあ、リリアン。ずっと言おうと思ってたんだが、サンディといっしょになることにしてね。申し訳ないが君との婚約は無かったことにしてくれないか」
ロバートは悪びれる様子もなく、呆然としているリリアンに言葉を投げかける。
「ごめんね、リリアン。そういうことだから」
そう言ってサンディがいつもの屈託のない笑顔をリリアンに向ける。
──なぜ今日なのか。とリリアンは絶望した。
周囲がザワついている中、ロバートは涼しい顔をして言葉を浴びせてくる。
「お前は俺の魅力になんら気づいてくれなかった。サンディは違う。本当の俺を認めて好きでいてくれた。」彼は周囲の皆に聞こえるように言った。
そして更に声を張り上げてこう言ったのだ。
「君との関係はこれっきりだ!」
リリアンは心底冷えきっていた。
(私に大恥をかかせようとして、今日この場を選んだのか。なんてしょうもない男だ)
この場にいることに耐えられなくなった彼女は会場を出ようと振り返って歩き出した。
そこへサンディが声をかけた。
「リリアン!」
リリアンは立ち止まって耳を傾ける。
「誕生日おめでと」
リリアンは絶句した。後ろにあの笑顔があるかと思うと振り返ることはできなかった。
リリアンは会場を走って後にし、中庭のベンチに座っていた。
そこへルイスがやってきてリリアンに声をかけてきた。さっきの会場から彼も走って追いかけてきたのか息が上がっていた。
「やあ、リリアン。とんだ災難だったね。大丈夫かい?」
「ありがとう」リリアンは俯いたまま返事をした。
「なあ、気を落とさないで。前向きに行こう!」
「別に」
(別に落ち込んでないし泣いてもいないけど)
「ロバートとサンディのやったことは最低だよ」
「そうよ」
「あんなやつと別れて正解だ。なあ、僕こそ君に相応しい男だ」
「そうかもね」リリアンは聞き流していた。
「こんな事言うのは節操ないかもしれないが、僕といっしょにならないか」
「え?」リリアンはそこで初めて顔を上げてルイスを見た。
「君は僕を家柄じゃなく一人の人間として判断してくれたろ? それが嬉しかったんだ」
「うーん、ぷっ、あははは」
ルイスの言っていることはロバートと変わらない。そう思うと緊張が途切れリリアンは吹き出してしまった。
「ありがとね。心配してくれて」リリアンは苦笑しながらもお礼を言った。
クズ男に大恥をかかされフラれたのに、またも別の男に気持ちを預けようとしている。そんな物なのかもしれない。
そんな自分もどうしようもないと思いながらもリリアンはルイスの申し出を受け入れた。
☆
それから卒業までの約3ヶ月間、状況は目まぐるしく変わった。
誕生会でリリアンに婚約破棄を盛大に言い渡したことでロバートは皆の顰蹙を買い避けられるようになった。
同時にサンディも今までの良い子なキャラが完全に崩壊し、男女ともにあった人気は地に落ちた。
ロバートに捨てられたその日に、彼より圧倒的な名家の子息であるルイスに付き合いを申し込まれたというリリアンの噂は学園中に広まり、一躍シンデレラガールとなった。
だがそんなことに目もくれずリリアンは、卒業までのわずかな時間を大学進学のために奔走して、この当時珍しい女性の入学枠を勝ち取っていた。
ロバートとサンディは卒業まで肩身の狭い思いをしながら過ごしていた。
「ごめんなさい、ルイス。私大学へ行って生物学を学びたいの。だから結婚はその後になっちゃうけどいいわよね」
リリアンは卒業式の日にルイスにこう提案した。
「ああ、わかったよ。僕はその間父の元で経営を学ぶよ」
「ええ、そうしてくれると助かるわ。将来二人で動物園を経営しましょう。おもしろそうでしょ?」
「そ、それ本気だったの?」
どこまで本気かわからないリリアンの表情にルイスは戸惑っていた。
こうして大学に進学して生物学を学んだリリアンは卒業後、待ちくたびれていたルイスとめでたく結婚した。
そして彼らは共同で領地に動物園を創設した。動物たちを本来の野生の生態のまま観察できるという、世界初の檻の無い動物園は子供たちに大人気になり、たちまち国内外の話題を呼び大成功したのだった。
一方でロバートとサンディは卒業後結婚し、領地経営をしていた。だが責任感の無い発言をしたり失敗を認めようとせず人々の反感を買った挙句、互いに罪を擦り付けるなどして遂には領地を奪われて国外追放された。その後国外で窃盗などの罪を犯し、檻の中に入ったようだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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