猫屋敷って、猫なの?
「ちょっと、聞いてる!?」
怒り気味の声に、ぼうっと空を見上げていた雨宮透は、隣の少女に視線を移した。
頬を膨らませてこちらを睨んでいる少女は、綾部弥生。動きに合わせて揺れるポニーテールは、彼女のトレードマークらしい。
「聞いてた聞いてた」
「じゃあ何を話してたか言ってよ!」
「えっと……、猫派か犬派の話だったよな。綾部は爬虫類派なんだよな」
「まっっったく聞いてないじゃん!! てか色々おかしいんですけど!」
「いやー、空が青いからなー」
「そりゃあ七月なんだから! 夏じゃん!」
学校帰り、路地を二人で歩く。
高校生の男女が二人きりで一緒に帰るだなんて、傍から見れば恋人のようだが、そうではない。透と弥生は中学からの腐れ縁だ。透は弥生のことを、一緒にいて飽きない友人だと思っているし、弥生もそうなのだろう。
この関係は、高校一年生の七月を迎えた今となっても変わらない。
「っていうかさ、もっと静かにしたほうがいいんじゃねーの? ストーカーしてるんだしさ」
透は前を指す。
「あっ!」
弥生は目を丸くして、人差し指を唇に当てた。そして、声量を一段階下げて話す。
「もー、雨宮のせいだよー。しかもストーカーとか人聞きの悪いこと言わないでくれる? 尾行よこれは!」
「似たようなもんだろ」
二人の視線の先には、少女の後ろ姿。色素の薄い長い髪に、高校の制服を着ていなければ小学生に間違えられそうな小さな体。
そう、透と弥生は放課後を使ってこの女子生徒を尾行しているのである。
「これは委員長特権! クラスの生徒のことを尾行してもいいの! 委員長として、クラスメイトのことは誰一人漏らさずに把握しないと!」
委員長の仕事ではないだろう。
「で、本音は?」
「すごく猫屋敷さんのことが気になるからプライベートを知りたい!」
「圧倒的野次馬根性じゃんかよ」
だが、透としても理由については同意である。そもそも気になっているから、弥生の放課後ストーキングに付き合っているのだ。
彼女の名前は、猫屋敷珠緒。腰まで届く色素の薄い髪は、一目見ただけで彼女だと分かる大きな特徴である。可愛らしい顔立ちをしているのだが、いつも無表情。クラスの誰とも仲良くしようとせず、学校が終わるとすぐに帰る。
猫屋敷という名字に合った、まさに猫みたいな少女だ。
透は珠緒に聞きたいことがある。
『猫屋敷って、猫飼ってるの?』
未だに聞けていない。それは透に珠緒との接点がなく、突然聞くと何コイツ扱いされるかもしれないからだ。
そもそも高校に入学してからまだ三か月しか経っていない。男子生徒ならともかく、女子生徒には話しかけにくい。今のところ気兼ねなく話せるのは、付き合いの長い弥生に、クラスのムードメーカーである櫛森くらいである。
それに輪をかけて、珠緒は無口のため話しかける難易度が高いのだ。
「猫屋敷さんはミステリアス美少女じゃん? 放課後に何しているのか気になるんだよー」
「気持ちは分からなくもない。まあ、普通にバイトとかだと思うけどな」
「夢がないなあ雨宮は!」
「逆に夢がある放課後の行動ってなんだよ」
と、路地を曲がったところで。
「……あれ?」
珠緒の姿がない。
「やっばい喋るのに夢中になってた!」
丁字路のため、透たちが来た方向からだとどちらに行っても分かるはずだが。
「右、左にいない……じゃあ、この上か」
透たちの目の前には、十段ほどの階段がある。神社へ続く階段だ。
透は幼いころ、何度か参拝したことがある。確か、祀られていたのは。
「猫! ここ、猫の神様の神社だ!」
「えっほんと!?」
弥生が目をぱちくりとさせる。
「猫屋敷さんは猫の神様だったという訳だね! ね、雨宮、参拝していこーよ」
「尾行はもういいのか?」
「触らぬ神になんとやら、だしね」
弥生はそう言って、階段を駆け上っていく。彼女の姿はあっという間に見えなくなった。
まさか本当にそうだとは思っていないだろう。大方、クラスメイトを尾行することに今更ながら罪悪感でも湧いたのか。
透は適当に結論を出すと、階段を上った。
「あー、そういやこんな感じだったか」
階段を上り終えて、懐かしさを覚える。神社へは、目の前に広がる林道を通らないといけないのだ。幼い頃は友達と、お菓子を賭けて神社まで競走していた。
透が懐かしい気持ちで道を歩き出したそのとき。
「きゃああああ!」
神社の方から、弥生の甲高い悲鳴が響いた。
「綾部!?」
透は駆け出した。一体何があったのか、弥生は大丈夫なのか。気持ちが急いて足がもつれる。
「大丈夫か!?」
林道を抜け、神社の境内に入ったところで、透は目を見張った。
大きな生き物がいた。
「生き物」と称したのは、透が今まで見たことのない生き物だったからだ。
猿に似た生き物だった。だが、明らかに普通の猿ではない。体調が軽く三メートル近くはあるだろう。
ぞくりと背筋が冷たくなるのを感じた。
本能的に、この生き物は危険だ。
「すごくない!? こんな動物初めて見たよ!」
弥生は、そんな透とは反対に、はしゃいだ様子で手を伸ばした。
「離れろ!」
「えっ?」
透のただならない様子に、弥生は慌てて手を戻す。
だが、近づきすぎていたのだ。
猿のような生き物が、手を伸ばして皐月を叩いた。
「っ!?」
弥生の身体はまるでおもちゃの人形のように、地面に転がる。
「綾部!」
弥生は倒れたままだ。反応はない。意識を失っているようだ。
猿のような生き物は弥生の方へ歩を進める。
ーーこのままでは、弥生が殺されてしまう!
「おい! こっちだ!」
鞄を勢いよく投げ、猿のような生き物の体に当てる。
猿のような生き物は、ぴたりと足を止めた。ゆっくりとこちらを振り返る。
とりあえず、弥生から意識を逸らすことができた。問題はここからだ。
一直線に猿のような生き物が透に飛びかかってくる。
「くっ!」
横に跳び、すんでのところでかわす。
体毛の一本一本の質感。こちらを見つめる黒い瞳。鋭い牙からこぼれる真っ赤な舌。CGでもない確かな存在感が、今起こっていることが現実だと、透に強くつきつける。
どうすれば良いか。透は目を見開き、辺りを見回す。
まず、神社から逃げることは論外だ。こんな化け物を住宅街に連れていく訳にはいかない。それに神社はあちこちに雑草が生えており、人の気配がない。神社の中で撒くしかない。
そうやって考えている間にも、猿のような生き物は襲いかかってくる。
――林に逃げよう!
倒れる弥生をちらりと見る。あくまで透に注意を向けさせたまま誘導しなければ――。
瞬間。
「!」
間一髪だった。背後に風を感じ、地面を転がって避ける。
透のすぐ隣――今さっきまで立っていた位置に、猿のような生き物の長い爪が刺さっていた。
だが、体勢を立て直せない。次の攻撃に対応できない。爪が抜かれ、透に向かって伸ばされる。
間に合わない。透は強く目を瞑った。
――何秒たっただろうか。
いつまで経っても痛みはなかった。
恐る恐る目を開く。
目の前には、大きな背中があった。
色素の薄い長髪が、日光に反射してきらきらと光っている。
彼女が振り向いた。
「大丈夫?」
綺麗な黄金の瞳が、じっとこちらを捉えた。
「……大丈夫」
透は声を絞り出した。
少女――猫屋敷珠緒は一瞬目を見開き、驚いた表情を浮かべてから、微笑んだ。
「良かった」
珠緒の手には、大きな錫杖が握られていた。錫杖で猿のような生き物の爪を受け止めている。
珠緒は跳躍すると、猿のような生き物脳天に錫杖を突き刺した。
「――――」
珠緒が地面に降りた瞬間、甲高い悲鳴とともに、猿のような生き物が崩れ落ちた。
そして数秒ののち、猿のような生き物の姿が消えた。
「あ、綾部!」
透はその場から立ち上がった。倒れている弥生の元へ駆けつける。
脈をとる。
――よかった、生きている。意識を失っているだけのようだ。
透はほっと息を吐くと、珠緒を振り返った。
見たことのない化け物。それを倒した珠緒。聞きたいことがたくさんあるが、まず。
「猫屋敷さん、ありがとう。助かった」
「……わたしの名前、知っているの?」
「そりゃ知ってるって。クラスメイトだし」
まるで猫のような耳としっぽが生えており、巫女服に身を包んではいるが、確かにクラスメイトの猫屋敷珠緒だった。
『猫屋敷って、猫飼ってるの?』ではなく『猫屋敷って、猫なの?』が正しいのか。
「あれはいわゆる妖怪よ。見ての通り、わたしも。わたしはこの神社の猫神様に仕えているの」
「妖怪って本当にいたんだな……」
珠緒が頷いた。
「普通に生活していたら出会わないでしょうね。妖怪は人の負のエネルギーがたまっているところや、信仰心を失って力が少なくなった神様が好きなのよ。さっきも猫神様を狙いに来たのね」
信仰心を失って力が少なくなった神様。この廃れた神社を見る限り、今は参拝客もいないのだろう。
「今はつらい時期ね。猫神様を狙った妖怪が襲ってくるし、妖怪を倒そうとする組織――顕醍もいるわ。それにわたしは色々あって、仲間の妖怪にも嫌われているのよ。協力してくれるやつもいたけどね
」
「けん、だい」
「まあ、呪術師みたいなものね」
珠緒が錫杖を軽く振ると、次の瞬間には彼女の手から消えていた。同時に猫耳としっぽも消える。
「さ、綾部さんを起こして帰りなさい。このことは誰にも言っちゃダメよ。この神社にももう来ないで」
そう言った珠緒の表情は、心なしか寂しげに見えた。透は思わず、
「何か! 何か手伝えることとかないか!? お礼がしたいんだ!」
「にゃっ!?」
珠緒は、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情をした。間をおいて、顔が真っ赤に染まる。
「べっ別にいいわよ! 自分のホームグラウンドで暴れるやつ倒しただけだし。あま、雨宮のことはついでに助けただけよ!」
珠緒の分かりやすく焦るリアクションに、透は微笑ましくなり思わず彼女の頭をなでた。
「にゃっ、にゃっ、にゃにすんのよー! フシャー!」
珠緒は目をキッとさせ、透の手をはたく。
感情表現が豊かだなぁ、と呑気な気持ちの透だった。
「ごめんごめん! でも、猫屋敷さん……、珠緒、いや、タマの役に立ちたくて」
「たたたタマ!? 偉大な妖怪のわたしにそんなあだ名をつけるなんて許さないわ! このすっとここどっこい! お前の母ちゃんでべそー! 父ちゃんもでべそ! お前もでべそー!」
叫び終わると、珠緒は肩で息をする。
「……」
「……」
互いに見つめ合って、数秒経ったのち、
「……分かったわ。そんなにパシられたいのならパシってあげるわ。早く綾部さんを家に帰しなさい。その後、ここに来なさい」
珠緒が折れた。不機嫌そうに口先を尖らせている。
「分かった!」
透は頷くと、弥生の身体を起こした。
「あら、起こさないの?」
弥生を背負うと、立ち上がる。
「前にもあったからな」
#
弥生を背負った透が階段を下りたことを確認すると、珠緒はその場に崩れ落ちた。
神社横の林から、一体の妖怪が出てくる。音もなく現れた鼠色の猫の妖怪は、座り込む珠緒の傍に寄ると、その大きな体躯で彼女を包み込んだ。
珠緒は身体を預け、目を閉じる。
「ありがと、躑躅」
妖怪――躑躅は、それに応えるように喉を鳴らした。
#
「相変わらずでっかいなぁ……」
透は目の前の屋敷を見て嘆息した。その背では弥生が寝息を立てている。
屋敷の門には「綾部」の表札。古風な屋敷に似つかわしくないインターフォンを押した。
一分も経たず扉が開く。
「……おや、雨宮くんじゃないか。久しぶりだな」
「あっ! お父さん! お久しぶりです。その、弥生が倒れちゃって……」
出てきたのは、身長二メートルを超える大男。弥生の父親だった。中学の頃、透はよく弥生の家を訪れており、しばしば顔を合わせていた。
「そうか。わざわざありがとう」
父親は人形でも抱くように軽々しく、透の背中から弥生を抱き寄せた。
「お茶でも飲んでいくかい?」
「いえ、急いでいるので、遠慮します。お心遣いありがとうございます」
「そうか。高校でも弥生と仲良くしてくれてありがとう。また気軽に遊びにきてくれ」
「は、はい。それでは!」
透は愛想笑いを浮かべながら、逃げるように綾部家を去った。
透は弥生の父親が苦手だった。身体が大きく声も低いため威圧感があるのだ。それに加え、
(自分の娘が倒れたってのに、理由を聞かないのかよ)
少しだが、人間味がないような気がするのだ。感情的で心遣いのできる弥生とは大違いだと思う。
#
「……」
弥生の父親、綾部大造は走り去っていく透の後ろ姿を見送った。
「そろそろだな」
腕の中の弥生は寝息を立てている。大造の独り言を聞く者はいなかった。