アレクセイ
かさついた頬に11月の風が撫でる。
もう少しすれば、皮一枚を裂いてしまいそうなギリギリの寒空だった。
あの世界中が苛ついていた、一歩踏み出すのさえ億劫になるような、陽炎に覆われた季節が嘘みたいにどこかへ逃げた。
間もなく足並みを揃えてやって来るであろう寒波に、人々はスーっと息を吸いながら首をすぼめるだろうが、今は皆その真ん中あたりで上着を着たり脱いだりしていた。
そんなふうに僕は今ネルシャツ一枚で首をすぼめ「アレイ、寒くないの?」と聞いてくるルイーサに「ちょうどういいよ」と強がりをしてみせた。
隙間だらけの観覧車の中で、ルイーサは自分の両腕を抱いて、チューインガムを口の中でパチンと鳴らした。
そして、クリーム色のセーターの首襟で鼻から下を隠した。
「わたし寒いわアレイ」
ルイーサは肩をすぼめた。
「なにを見せてくれるの?アレクセイ」
ゴンドラの枠組みは鉄骨で木製の床張り。時折ガクンっと全体が音をたてて、そのたびに時計の長針の様に上へ上へとわずかに移動して行った。ルイーサが言った瞬間も、やはりガクンとなって僕らは合わせたように「うっ」となった。
「すごいや」
僕はシートに座ったまま、たわみのある薄汚れた窓硝子越しに、だんだんと小さくなる街並みを見下ろしてつぶやいた。
午後になっても日差しが街を照らすことはなく、葉や枝を刈り取られた木々の様に、にょきにょきと立ち並ぶ工場の煙突は曇り空と同化しそうな煙をもくもくと吹き出していた。
「こんなの、もう乗りあきたわ」
ルーサは向かいのシートに座り、両手はいつの間にか窓下の手摺りを掴み、でも相変わらずガムをクチャクチャと鳴らしていた。
街で一番高い建造物となった観覧車。夏には完成していたが、完成直後僕は乗れずにいた。
常に行列ができていて、街中の皆が並んでいるようだったが実際はそうでなく、街の名士やお金持ちしかいなかった。観覧車のチケットはものすごく高額だったのだ。
僕は建築中から、学校帰りに立ち寄っては労働者の打ち鳴らす鉄杭や溶接の火花をうんと近くで見ていた。
「ぼうず、うんと高い観覧車ができるからな。ああ、公園にあるようなあんな小さいのじゃねえぞ。うんとでかいやつだ。てっぺんじゃ街中が見渡せちまうやつだ。雲にも届いいちまう。完成したら乗りに来いよ」
リベットを打ちこむ職人の、そんなたわいもない子供向けのセリフにも僕は笑顔を隠せずにいた。
その汗と垢で真黒になった労働者が作る物であれば「サービスだぜ」とか言って、ただで何度も乗せてくれるような気がした。でも、その労働者はもういなかった。
そして完成しても、僕の家では観覧車の話題が出るようなことはなかった。
鉄道会社で整備工をしている父さんはいつも静かで、挨拶をしても囁くような返事しかしない。父さんはいつも鉄道会社と闘っていた。ビラをくばったり、会社の仲間たちと旗やプラカードをもって行進していた。
たぶん、その会社はヒドイ扱いをして、父さん達を怒らせたのだと思う。
僕は父さんが闘いでとても疲れているのを知っていたし、カチカチに硬いパンとスープだけの夕食を目の前にチケットをねだるようなことはできなかった。
新しい靴をねだるよりも、うんと困難だったのだ。
母さんの目は落ちくぼんで、肌がカサカサだ。スープをすする僕をいつも悲しそうに見つめていた。
そして僕が学校の話をしようとすると「およし、アレイ」と言って、優しく頭を撫でるのだ。きっと僕の声は二人の耳にはつらくて、どうしようもないほど悲しみを誘うのだ。
テーブルを照らす黄色いランプの光は皆のため息で少し揺れて、表情に落ちる影はチラチラといったりきたりしていた。
僕はそれ以上影がいったりきたりしないように、余計なことを言わないように努力するようになった。
「もう10回も乗ったわ」ルイーサは、小さくアクビをして、窓の外を眺めた。
それは、殺風景なゴンドラにも外の風景にも興味を失せて、もっと違うことを考えている様子。瞳はただ硝子板を見ているだけだった。
「ルイーサありがとう。チケットわけてくれて」
僕はポケットの中の端切れを指で確かめた。
「いいの、そんなの。だから、言ってたスゴイことってなあに?」
ルイーサは窓硝子を向いたまま、なんだか優しく言った。
チケットの端切れは、僕の手汗で湿って、シワシワだ。家には持って帰れない。本当は父さんや母さんに見せたいけれど。きっと、深い深いため息で紙切れを吹き飛ばしてしまうかもしれない。
「待ってて、てっぺんに上がったら見せるからさ」
教室で少し声をかわすだけのルイーサは、いつもカールした栗毛から石鹸の匂いをさせて、僕の前を通り過ぎる。そして彼女には不釣り合いな、手に合っていない飛行船のような銀色のきれいな万年筆を胸に差していた。「パパからもらったのよ」と、いつだったか教えてくれた。
僕らはそのペンで、お互いの名前を書きあって、少しだけ仲良くなった。
ルイーサは、教室で僕を見つけると、こっそりチョコレートやキャンディをくれた。彼女は背後から近寄ると、それを後ろ手に僕の手の中に押し込むのだ。
僕と仲がいいと皆に知られたくないのはよくわかっていたので、僕も真似てこっそりとしていた。
ルイーサにばれないように、こっそりと僕はもう片方のポケットの中を確かめた。
僕のポケットはため息と深い影が降りる家、僕のベッドの枕の下につながっている。
手を探れば秘密の化石を取り出せる。
それはアンモナイト。手の平におさまる、小さな石。光沢は虹色を放ち、3億万年の記憶の螺旋。
「揺らしたり、大声出したりはキライよ」
ルイーサが振り向いた瞬間、またガクンとなった。ルイーサは、僕の腕に手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。
僕は、化石をぎゅっと握りしめた。
うんと、うんと前に、父さんがくれた化石。鉄道の枕木を埋める石の中から見つけたと言っていた。僕は、それを枕の下にいつも隠していた。
ダイニングで、ボソボソとした父さんと母さんの話し声を聞きながら、僕はベッドの中でそのアンモナイトの滑らかなカーブをいつも撫でていた。
人差し指で円周から螺旋の中心へ。くるくると。時間の池にクリームを流し込むように。それは夢に落ちていくための儀式となって、それをしないと眠れないようになってしまった。
そしていつの頃からか、アンモナイトの化石は僕に語りかけてくるようになった。
その声はカテドラルの鐘の様に心の奥の方に響き、それでいて温かだ。
・・・・一緒にいこう、アレクセイ。
「どこへ?」
・・・・うんと大昔か、うんと未来か。
「みんなも一緒かい?」
・・・・もちろんさ。
「僕は、父さんに僕の夢を見せてあげたい」
・・・・できるとも。
僕はデボン紀の海中生物が残した砂の上の足跡を追いかけた。
水圧が脚をしめつけて、まるで泥人形のようにゆっくりだ。耳の奥の方で、あぶくの弾ける音が木霊する。
気が付いて見上げれば、水面を射す光線がグラデーションに、オーロラのようだ。
重かったはずの足先をちょっと弾かせれば、ゴムで吊り上げられるように、ぽーんとジャンプできた。
ジャンプはベッドのシーツをしわだらけにしてしまう。もう少し、あともう少しで、キラキラと反射する水面まで届く。何度も繰り返し、僕は帰り道を呼ぶコマドリのさえずりが響くまでこうしていた。
「どうすればいいんだい?」
・・・・うんと高いところへ一緒にいこう。
「わかった」
観覧車のゴンドラは11時くらいの高さまで上がってきていた。
ルイーサは胸の万年筆を触りながら、大きく息を吸った。
「ねえ、アレイ、すごいことってホントは何もないんでしょ?いいのよ私。チケットだって何枚もおうちにあるの。交換に何かをもらおうなんて思ってないもの」
いつの間にか、ルイーサは僕の隣のシートに座っていた。
ふわっとした風を感じて、瞬間、いつものように石鹸の匂いがした。
僕は、自分のシャツの匂いが恥ずかしくなり、少し横にズレて彼女から離れた。
「僕にもわからないんだ」
うつむいたルイーサの表情はわからない。僕はそれをうかがおうとはせずに言った。
そして、ゴンドラ全体がグラリと揺れて、頭上から鉄骨や駆動部が擦れる音がギシリと鳴った。
「頂上だね」
横揺れでルイーサとの隙間が埋まり、彼女の髪が僕の頬を撫でた。
さっきまでのミシミシと響いていた駆動音は止み、まるで大海に置き去りにされたイカダのように、宙ぶらりんな静寂がゴンドラを支配した。
・・・・そうだね、頂上だね。
「どうすればいい?」
ポケットの中の化石を撫でながら、僕はルイーサとシートから離れた。
・・・・願うだけでいいんだよ。
「願うだけ?」
「誰と話しているの?アレイ」
ルイーサは僕を見上げ、ぽかんとしていた。その口の中には、ガムのかたまりが隠れていた。
僕は窓硝子に両手を張り付けて、一段と高くなった風景を見ていた。
スモッグに霞む街並みと、日差しの遠のいた今日の空。
僕は願った。
「僕はね、母さんと父さんに、笑顔でいてほしい。お金や、悲しいことに困ったりしない、そんな世界で幸せに暮らしてほしい」
ルイーサは立ち上がり、僕の腕をつかんだ。ゴンドラが静かに軋んだ。
「アレクセイ、何を言っているの?」
ルイーサは、僕が窓の外を見ているので、何かあるのかしらと、一緒に覗き込んだ。
「世界中から、悲しいことがなくなればいい。そんな世界がほしい。病気や、体の不自由な人がいなくなってほしい。大好きな、大好きなルイーサに幸せでいてほしい」
僕の顔のすぐ隣にあった、ルイーサの顔がこちらを向いた。
「好きよ、アレイ。大好きよ。だからひとりごとはやめて」
ルイーサの顔がうんと近くに。
ブルーベリーの匂いがした。
「僕の願いは、それだけです」
頬にルイーサの唇を感じた。
途端に閃光がはしり、僕の手の平はビリビリとした電気を感じた。
観覧車の大円形に沿って青い光がまるで巨大な蛇が絡みつくように全体を包み始めた。
そしてその青い円はゆっくりとした回転をもって、さらに輝きを増し、灰色の街を覆うように広がっていった。
どこか遠い南の島の海のように透明でありながら光線の具合で青くなったり緑色になったり、大きな大きな光の円が観覧車から放たれていった。
光源は観覧車の中心より二重の螺旋を描いて、それはアンモナイトの記憶の層のように。
止まらぬ青い円形の光は既に街を飲み込み越えて、うんとの遠くの世界や海や山へと。
僕はその青い光が世界中に届くのを、柔らかな暖かい光が包みこんでいくのを感じた。
そして何もかもが瞼の中で起きているのか、目を見開いた中で起きているのか、それがわからないくらい気持ちが遠くなった。
観覧車は電波塔の役割を終え、僕を足元に置いて、ただ静かに佇んでいた。
物言わぬブロンズの巨人の様に、先程までの軋む音すら発しない。ピタリと、まったくの静止状態だった。
観覧車の鉄塔の股ぐらにあたる搭乗口に、僕は一人でいた。そこには受付のチケットもぎりをする人もいない。
そして何時僕はゴンドラから降りたのか?正に「いつの間にか」だった。さらに、僕の、僕の大好きなルイーサもいなくなっていた。
いつもの、日常的に、在ってあたりまえだった工場の群れや街並みは姿を消し、猫背で俯き加減に行き交う多くの人波も消えた。
人影は一切なかった。
観覧車は緑の草原にあった。少し風があるのか膝まである青々とした草原は波を打ち、無人島の浜辺のように僕の方へ寄せてばかりだ。
そこは、ずっと彼方まで波打つ草原が広がっていた。また、地平線のその境から頭上まで真っ青な空が広がり、見たことのない惑星がその半球を地平線に沈めていた。
その巨大な惑星はピンクと赤と紫のグラデーションに霞み、さらにその軌道上を小さな惑星が幾つも点在していた。
見えるのは揺れる草原の大地と、落ちてきそうなくらい近くにある惑星と、青い空だけだった。
気が付いた瞬間にそこには僕と観覧車以外、何も誰もいないのがわかった。
ただ、巨大な観覧車と僕だけがそこにいた。
・・・・アレクセイ、君もみんなと行くかい?
声は、彼方の草原の方から、あるいは境目の青空の方から聞こえた。
「みんなはどこ?」
・・・・あの地平の先で、みんな暮らしているよ。世界は、そこにあるよ。君が生まれる前から、うんと大昔から。
「僕はみんなに会いたい」
・・・・あえるとも。
「みんなは幸せですか?苦しんだり、悲しんだりしていませんか?」
・・・・・・・・・・・・・・・・
もう、声は聞こえなくなった。
「僕は、ルイーサに会いたい。会って、たくさん話すんだ」
僕は頬に手をあてながら鼻を鳴らした。ブルーベリーの残り香だ。
草原の波が膝を撫でた。
僕は観覧車を背にして草原の地平を目指して歩き出した。
おわり