8.望んだコト
「リリス……」
雷光を背に佇む姿は厳かにすら見えた。深く神秘的な眼差しは、王を名乗るに相応しい。内面がどうあれ、彼はやはり他者を圧倒する存在なのだ。
傍らには予想通りジュリがいた。守られるだけの脆弱な人間の娘にも拘わらず、平然と魔王の隣に立っている。
(貴女のことは嫌いじゃない。……でも)
「ジュリ」
物言いたげなルキを敢えて無視して、リリスはジュリに話し掛ける。
「ジュリ……ここがどこなのか、わかる?」
「……?」
「記憶にない?」
首を傾げるジュリの視線を、リリスは自身の足元に誘導する。コツコツと地を軽く蹴ると、不自然な光の紋様が浮かび上がった。
「え……何? 魔法陣?」
「……! 勇者召喚の陣か!」
鋭敏に気配を感じ取り、解答を導き出したのは魔王ルキだった。
「え? じゃあここって、私がこの世界に初めて来たときの?」
「ご名答」
リリスは肯定した。
「人間の国の王城……の跡地ね。どさくさで魔法陣は壊れてたから、読み解くのに苦労したわ。私、繊細な術はあまり得意じゃあないの」
本音なのか謙遜なのか、リリスは本来は敵対する人間勢力であれども、素直に持ち上げて語る。異世界から目的の生き物を転移させる術は、人間が何世代にも渡り研究、開発しただけあって、とても高等で難解な代物だったと。
それは大魔女である己の見識を以てしても、把握し操るのに何日も要したほどの位階であったとも。
「なかなか人間も侮れないということよ。まあ失敗したと早合点して、考えなしに放棄する胆力のなさはいただけないけれど」
尤も、人間たちが早々に逃げ出したからこそ、リリスは腰を据えて解析することができたのだ。
異世界に空間を繋げる手法、目的物を特定し、強制的に魔法陣に引き込む手法――或いはその逆。
「いつか訊いたわね、ジュリ」
「え……ええ」
「元の世界に還ることができるのか」
「じゃあリリスちゃん、あのとき言ってたのは」
「そうね」
『すぐにではないけれど、還してあげられるかもしれない。だから貴女はそれまでに覚悟を決めなさい――』
宮殿から立ち去る直前に、リリスはジュリに囁いた。去り際ルキに知られることなく、こっそりと耳打ちしたことだ。
試すより先に、実現する可能性は高いと踏んでいた。案の定、多少手間取ったが予定通り手段は手に入れた。
別にジュリのためではない。もちろん無理矢理異世界に召喚された可哀想な娘への同情はある。ジュリ自身の性格を好ましく思う気持ちもある。だが、リリスの思惑はもっと身勝手なものだった。
(還りたいのなら、還ればいい)
(それでもなお、この世界に残りたいと願うのなら……妥協ではなく望んで彼の傍にいると決めてくれたなら)
わかっている。これはリリスの身勝手な矜持に過ぎない。
けれど未練を断ち切るためには、ジュリの自主的な決断を必要とした。他に選択肢がないと流されて居座る者に、大切な相手の隣は譲れない。
だから、戸惑うジュリを更に迷わすことこそが趣旨であるかのように、リリスは端的に告げた。
「結論から言うと――可能よ」
「!!」
ジュリは息を呑んで瞠目する。
「な……」
「本当よ。物理的には可能と言える。この魔法陣を真逆に起動すれば、ほぼ確実に貴女がいた世界に繋げられる。人間に扱える程度の術が、私の魔力で担えないはずがないから」
驚愕も疑念も反応としてはつまらないとばかりに、リリスは半眼を伏せた。思い上がりでも傲岸でもなく、静かに事実を語る声音だった。
当然に、ジュリは尋ねる。
「還して……くれるの?」
その問い掛けは――無論、何の前触れもなく強引に連れて来られた異世界人にとって、絶対に避けては通れない。
不安と期待を綯い交ぜにしたジュリの眼差しを、リリスは率直に受け止める。
「もちろん」
「ほ、本当に……?」
「ええ、もちろん。それを貴女が望むなら。……それを、貴方が望むなら」
その言い回しの意味を瞬時に察したのか、ジュリはハッと傍らの魔王ルキを見上げた。
繰り返された言葉は二重の意図と対象を含む。
リリスは確認したのだ。
ジュリにも――ルキにも。
「どちらでもいいわ。私は望まれるままに行動する。ふたりで話し合って」
「リリス……?」
「リリス、ちゃん」
「……けれど、ひとつだけ伝えておく」
揺れ動く心を吐露するかのように、リリスの表情は複雑に歪んでいた。
泣いてもいない。
笑ってもいない。
何かを諦めなければならず、それでもなお忘却が叶わないときに、秘めた感情はどこまで振れるのだろう。
「私も……この世界から去ろうと思うの」
――遠くに行きたいの。誰もいない、貴方もいない遥か彼方の果ての地へ。
覚悟と共に吐かれた別離の告白は、酷く掠れて聞こえた。
+ + +
魔王ルキの隣にいたジュリとリリスの後ろに控えていた従者の少年ヴェールは、殆ど同時に同じ視線をリリスに投げ掛け、直後にルキへと移した。
「……魔王」
「魔王様……」
「……」
ルキは静かにリリスを見つめ続けていた。逆にリリスは目を合わせるのを厭ってか、顔を逸らし続けていた。
両者の間に生じた隔たりは、実のところ外野に過ぎないジュリや完全に傍観者であるヴェールからしても、原因も理由も明らかなものだ。
リリスは止めてほしくて言ったのではない。長く積もったすれ違いは重い決断を彼女にさせた。ルキの制止を振り切るだけの悲壮な意思が感じられた。
「い、いいの、魔王? リリスちゃんは」
「魔王様! リリス様は本気で……!」
「……そうだな」
一歩、ルキは足を踏み出した。
漆黒の双眸には迷いの色が宿る。
たとえ命令しても懇願しても、返ってくるのはおそらく拒絶の回答だろう。拗れてしまったリリスの心が、そう簡単に覆せるとは到底思えなかった。
リリスを取り戻す。それがルキにとっては必要かつ至上の命題だった。
だが、いざとなってみると、紡ぐべき説得の言葉が出ない。もどかしさに苛立つ。思い返せば、過去一度としてルキはリリスと正面から向き合ったことなどなかったのだ……。
「……リリス」
「魔王様……、私はね」
リリスは困ったような、少し悲し気な笑みを浮かべた。
「貴方がどう思っていたかは知らないけれど、私はずっと、純粋に魔王様に尽くしてた訳じゃあないの。不純なのよ。本当はあのとき――貴方のエヴァを無為に死なせてしまったのは……多分、私、だったから」
「何を、言っている」
「私はエヴァに惹かれる貴方を見るのが面白くなかった。あれは避けられる不幸だった。私が一言、貴方たちに逃げろと伝えていれば」
「そんなものは結果論だろう。彼女を守れなかったのは、私が非力だったせいだ。お前ではない」
大きく首を左右に振り、リリスはルキの考えを否定する。
「では……お前はずっと、罪滅ぼしのために私と共にいたと言うのか」
「命がけで戦ったのも、私を助けたのも」
「ええ……」
「野心もないくせに妃の地位を受けたのも」
「……かもね」
「っ! お前は!」
殊更に無感情を装って答えるリリスを見て、ルキは苛立った。
意地と言うには頑な過ぎる。決意と言うには独り善がり過ぎる。
おそらく最早何を言っても、どれほど言葉を尽くしても弄しても無為に終わるだろう。このままではいつまでも平行線から脱せない。
「……もういい」
やがて諦めたように、ルキは吐き捨てた。
「……?」
しかし投げ遣りとは程遠い強い視線を向けられて、リリスは戸惑いを見せる。
「魔王、様?」
「他人行儀に呼ぶな。建前はいい。言い訳も要らん。馬鹿馬鹿しい。我慢して失うなぞ御免だ。私は……好きにさせてもらう」
「――力ずくだ」