7.本当のコト
本当は千年二千年も以前の想い出など、微かな記憶の残滓に過ぎないのかもしれない。
ふんわりと淡く、甘やかな恋に溺れた日々は確かに在った。初々しい若者だったあの頃、心を焦がした情熱の焔は、今もなお仄かに胸の奥で灯火として輝く。
「エヴァ……」
魔王ルキは幻の名を呼ぶ。
もはや二度と会えぬと諦めていたその女は、しかし時代を違え姿を変え世界を越え、己が手の内に戻ってきた。
そう……思っていた。
「……エヴァ」
「違いますよ」
前世の自分とやらの名を、ジュリは真っ向から否定した。
リリスの出奔から数日が経っていた。
普段の様子は表向き変わっていないように見える。一部の重臣以外には事実が伏されているからに他ならない。
ここ暫くの間、リリス自身が外の仕事を主としていた経緯もあり、不自然さに気づく者もいなかった。しかも既にかなり前倒しにして、早急に懸案を片付けていたため、リリスの不在が与える影響もまだ少なかった。
つまりは最初から、リリスはそのつもりだったということだ。
王妃であり、最も長きを共にした側近の立場を捨てると判断した。
何故――と問うのは容易い。
けれど答えを出したくないルキは、未だ戸惑いの中にいた。
迷妄と葛藤から逃れるように、いつかの慰めを求めてジュリの――嘗ての恋人の元を訪れる。ジュリは彼の心情を理解しつつも、やはり自分は違うのだと、強く感じていた。
その日もルキはジュリの部屋に来た。
リリスが去ってから毎日のことだった。特に何をするでもない。抱き寄せもせず、触れることすらない。どころか、殆ど言葉も交わさなかった。
彼はずっとジュリを見ていた。
否、ジュリを通り越して遥か遠くを見つめていた。昔を懐かしみ、悲しみ、まるで消えていくのを惜しむかのように。
そして、ただひとりの名を口にする。
「エヴァ」
「違いますよ」
「私はそのひとじゃない」
少しの憐憫を抱きながら、ジュリは静かに断言する。本当はもっと早くに伝えるべきだったと密かに悔いていた。
「生まれ変わりだとしても、私は違う。同一人物じゃないし、貴方の恋人にもならない」
「そ……う、か」
ルキの肩は薄く震えたが、致命的な衝撃を受けた印象はなかった。どことなく予想していた現実を改めて受け入れた――ジュリの直感ではそんな風に思えてならなかった。
「魔王、貴方……」
「言うな」
「自覚してたの? 恋人を追うふりをして、本当はとっくに別の……」
「言うな。たとえそれが真実でも、お前が言うのだけは駄目だ。私はお前に……エヴァに」
「申し訳が立たない?」
時を経て拗れすぎた想いを目の当たりにして、呆れ半分、同情半分で、ジュリは深く息を吐く。
「なんというか……ただの人間に過ぎない、それも私のような若輩が、魔王だの大魔女だのにどうこう言える筋でもないんでしょうけどねぇ」
「僭越ながら」
わざとらしく慇懃に、私見だと前置きしながらも、ジュリは自身の考えをはっきりと述べた。
「亡くなった方に操を立てるのをいけないとは思いませんが、一度全部置いて、今の自分に必要なものを見直すのも大事だと思いますよ」
「……許されまいよ」
「許しますよ。私が真実そのひとの生まれ変わりだって言うなら」
ジュリの科白に、ルキは軽く瞳を瞠く。
惚けているようにすら見えた。
「ずっと忘れないでいてくれただけで充分だって、思うはずです」
「だが……私は」
「過去に囚われて、貴方だけでなくリリスちゃんまで不幸になるなら、私は悲しい。生憎今の私は貴方に恋愛感情はないけど、もし貴方を好きになっても、リリスちゃんに未練のあるひとと付き合ったりできないよ」
きっぱりと告げたジュリの眼差しはどこまでも真っ直ぐだった。記憶の奥に眠るエヴァの面影がちらついた。重なる部分は何一つないにも拘わらず、ルキは錯覚に陥る。
懺悔が聞き入れられた訳でも、苦悩が昇華された訳でもない。ただようやく自覚しただけだ――。
「どうしたらいい、私は」
「そんなこと訊きます?」
「いや……愚問だったな」
ようやく吹っ切れたらしいルキに、ジュリは晴れ晴れとした笑顔で促す。
「気づいているか知りませんけど、貴方はね、あのとき――リリスちゃんの名前しか呼んでなかった」
「……そうか」
「だからきっと、やるべきことは決まってる」
「……そう、だな」
自らの行動を思い返して、ルキは自嘲気味に頷いた。今更言われても詮なきこと、指摘されても時は戻らない。
――だとしても。
「リリスを探す。連れ戻す。何があっても、この世のどこにいても、必ず」
◆ ◆ ◆
少し前に――とある人間の国には異変があったという。
勇者召喚と、まさかの魔族による勇者誘拐事件である。一国の王城の一部を吹き飛ばし、右往左往する人々を嘲笑うかのように、漆黒の魔族が現れて異世界の勇者を連れ去っていった。幸い死者は出なかったが、恐怖は国中に伝播し、一時は混乱を極めたものだ。
歴史ある王城は半壊したまま復興の目途は立っていない。国の中枢は拠点を他に移し、丘の上の古城は打ち捨てられた。城下町の人々も今は殆ど残っていないに等しい。
(賢明と言うべきね。今更壊れたものを直しても元通りにはならない。新しく始めた方が遥かに早いし安上がりだわ)
廃墟になりかけの場所に潜り込んでいたリリスは、皮肉を込めて人間たちを評価した。
魔族に穢されたと噂が広まり、最早この城跡には誰も近づかない。だからリリスがこっそり根城にするには丁度良かった。
(誰も来ないと思ってたけれど)
「まあ、人間は確かに来てないけれど」
「……こんなところにいらしたのですね、大魔女リリス様」
「まさかお前に見つかるなんて意外ね、ヴェール」
「魔王様が……お探しになってます。自分も捜索隊に。人間の領域にも手を広げられましたが、自分の心当たりと言えばここくらいでしたから」
邪魔な瓦礫を無造作に放り投げて、ヴェールはリリスのところまで道を作る。幼い少年の姿をしていてもやはり魔族である。
「私の不在を公にしてしまったの?」
「いえ、さすがに内密です。魔王様と王妃様の不和が表沙汰になれば、混乱を招きかねません」
「そう」
特に安堵するでもなかったが、リリスは僅かに嘆息した。
「お戻りには……なりませんか?」
心配気にヴェールが尋ねる。
「あの人間の娘の存在が、それほどまでに厭わしかったのですか? 魔王様を……その、お見捨てになるほどに」
「大胆な物言いね、ヴェール」
意外にも豪胆な少年の科白に感心して、リリスは面白そうに口端を上げた。ヴェールは慌てて頭を下げる。
「いえ、不敬でした」
「別にいいの。どう言い繕ったって、おおよそ間違ってはいないし」
「……では」
「そうね……ええ、きっとそうなんだと思うわ」
「ただ、私も往生際が悪いというか、焼きが回ったというのか……」
「何故?」
見かけだけでなく内面もまだ真に子どもであるが故に、男女の機敏を知らぬヴェールは純粋に疑問を抱く。
「あの娘に直接手を下すことが難しくとも、リリス様であればどうにでも排除する方法はありましたでしょうに」
「そうねえ」
無邪気かつ残酷な問い掛けをされても、リリスは解を明確にはせず、曖昧に誤魔化した。
「かもしれないけれど、過去の経験からそういうのはよくない結末を生むと知っているの。卑劣な手段を取れば、きっと後悔すると思うのよ」
「高潔でいらっしゃるのですね」
「あら、随分と買い被られたこと」
ふふ、と声を立ててリリスは笑った。
「馬鹿ね、負け惜しみよ」
リリスの朱い瞳は清々しいほど青く澄み切った空を仰ぎ、遥か果てを睨み、再び地に戻る。
視線の流れた先を追ったヴェールは、小さくあっと叫んだ。
「リリス、様……」
「お前から関知されたようね、ヴェール。もうじきいらっしゃるわ」
「……すみません」
「何が? お前は務めを果たしただけ」
細い指先をしならせて、リリスはそっとヴェールの髪を撫でた。
「ヴェール、きっと私のしていることに、色々矛盾を感じるのでしょうね」
「それは……」
巧く返事を紡げずに、ヴェールは口ごもる。
リリスは答えを求めてはいなかった。相手を素通りして消える音の羅列は、既にただの独白に過ぎないのだろう。
「いつか、ヴェールも大人になって、恋を知ったら理解できるかもしれないわ」
「世の中にはとても不条理で、ままならなくて、腹立たしいことこの上ない、どうしようもなく振り回される感情があるの」
(けれど、とても大切な――)
しかし、続けようとした言葉は空気の中に溶けるようにかき消えた。と同時にリリスは目撃する。青空が瞬きの速さで暗雲に覆われ、いくつもの雷鳴が轟く様を。
強大な力を纏う者は、時に気分ひとつで世界に影響を与える。事象と連れ立って現れる存在を、リリスは熟知していた。
「来たわね、魔王様」