6.貴方のコト
「リリス……!」
(ああ、ついにこの日が来たのね)
魔王ルキが異常を察知してジュリの部屋に突入したのは、リリスが宮殿のどこにいても関知できるほど大きく強い魔力を発動させたからだ。
もちろん意図的なものであり、ルキが即座にジュリの元にやって来るのを見越しての行為だった。
「魔王様」
「この部屋で何をしている、リリス」
ルキは渋面を作り、鋭く問い質した。
あれだけ言っておきながら、やはり妻が恋人の生まれ変わりを害する可能性を疑っていたのか……いや、信頼を損ねたのは、リリスが配下を放置し弁明もしないまま姿を眩ませていたからだろう。
「何をしていた、リリス」
リリスは軽く受け流して、ふ、と微笑った。
「……何も」
「確かに……ジュリは無事のようだが」
「そうね、……まだ」
次の瞬間、リリスは再び薄く唇を半月に歪めた。それが合図のように、ぶわりと一陣の風が起こる。
「――!!」
小さな竜巻は部屋の調度を滅茶苦茶にして、窓硝子を割り外へと流れた。
か弱いジュリの身を引き寄せ、ルキは腕の中で庇う。その隙にリリスは開けた窓際へするりと移動していた。
「リリス! お前、何を……!!」
「さよならよ、魔王様」
「!?」
窓枠に足を掛けたリリスは、深く暗い夜空を背にする。振り返ったのは長年共にいた相手への、せめてもの義理だった。
「いつまでも小姑よろしく傍にいるものじゃないのに、どうにも離れる時機を逸してしまってたから。いい機会だと思うの」
「意味が……わからぬ」
「察してちょうだい。怠慢よ」
夫でも主君でもなく年下の朋友に対する口調で、リリスは厳しく諭した。
「私は貴方に何も望まない」
言い切ったリリスは、少女の顔立ちには不釣り合いな表情を浮かべる。悲哀のようであり、苦渋のようであり、虚ろのようでもあった。
「……嘘よ」
「本当はね、たったひとつだけ、あったの」
「リリス……?」
「でも、もうそれも望まないから、さよならなの」
「何を、言って……」
「リリスちゃん!! 待って!!」
何も悟らない鈍感なルキと、賢しくも理解して制止するジュリの声を振り切って、リリスは窓から飛び出す。
(望みはなかった)
(たったひとつ、貴方の傍にいたい。それ以外は、何も)
――ルキ。
終焉の見えぬ遠い道のりだった。
息継ぎなしでひたすら進み、ただ必死で駆け抜けた――もはや戻れぬ恋路の果てに、リリスはすべてを手放した。
◆ ◆ ◆
未必の故意、と責められるならば、きっとそうなんだろうと今は思う。
あのとき――。
エヴァが死ぬべくして死んだのか、本当はわからない。
敵対する魔族との戦いの渦中に巻き込まれ、ルキが庇い切れず、彼女は致命傷を負った。戦場で流れ矢に当たったようなものだ。
今更ながら正直に言えば、リリスはエヴァという人間自体について、さほど詳しくは知らない。
リリスとルキは幼体であった頃からの知己であり、親しい友であった。世界が魔族も人間もなく戦乱に明け暮れていた当時、台頭する若い世代があちらこちらで徒党を組み、勢力を築いていた。
ふたりも例に漏れず協力し合い、仲間を増やしながら名を上げていく。
時折、気紛れに異種族である人間と接触することもあった。寿命や魔力は魔族が圧倒的に優位ではあるが、人間の文化は一方で独自の発展を遂げており、野卑なだけの古い魔族しか知らぬリリスたちには興味深く思えた。
人間たちは魔族を恐れると同時に、庇護を求める場合もあった。引き換えに恭順を示す者もいたが、特に人間の奉仕など必要としないリリスたちは、他愛もない交流を愉しんで、ただ良き隣人のごとく彼らと友好関係を結んでいた。
そんな中で――ルキとエヴァは出会った。
瑞々しく自信に溢れた若者と美しく快活な陽だまりのような乙女が、種族を超えた恋に落ちるのに時間はかからなかった。
リリスはただ、見守っていた。
不毛だとか愚かだとか、他の仲間が口々に余計な、或いは妥当な忠告をする中、リリスは何も言わず関わろうともせず、少し遠くからずっと横目で見続けていた。
理由は簡単だ。
所詮、魔族と人間では生きる時間が違う。どんなに愛し合おうといずれ無慈悲な別れが訪れるのは自明の理である。リリスは待っているだけでいい。
何年でも何十年でも、放っておくだけでルキは戻って来る。ほんの束の間その心を奪われても、最後まで傍にいるのは人間の娘ではなく、同じ魔族であるリリスなのだ。
振り返れば、ただの負け惜しみだった。
叶わぬ想いを自覚しながらも嫉妬の苦しみを誤魔化した。友を演じながら彼の恋を本心から祝福することはできなかった。
だから、あのとき――。
リリスはわざと、ルキに教えなかった。
自分たちの陣営が敵対する他の魔族の勢力を挑発し誘き寄せたため、軍勢が付近まで迫っていることを。急ぎ脱出を促さなければ、エヴァの住まう人間の集落まで戦火が及び、被害が出る可能性が高いことを。
告げないまま、リリスは他の仲間たちと共に戦闘に赴いた。
ルキはおそらくエヴァの傍にあり、全力で彼女を守るだろう。
だが、魔族同士の集団が全力でぶつかり合えば、周辺にいる人間の生命など風前の灯火だ。助かる方が奇跡に近い。ルキだとて自分だけであれば兎も角、ひ弱な人間の娘を抱えてどこまで防御し切れるのか。
避難させなければエヴァは死ぬかもしれない。運が良ければ生き残るかもしれない。リリスは積極的にエヴァを殺そうとはしなかったが、結果として死んでもおかしくない状況に陥れた。
そして、その通りに事は運んだ。
やがて戦闘が終わり、辺り一面が焼け野が原になった頃、リリスは疲労し傷ついた自身の身体を引きずって、ルキを探した。
仲間も多く斃れた。草木も鳥も獣も……人間も、燃え滓が辛うじて地に散乱するのみで、瓦礫すら形を成さないものが多かった。
ルキは生きていた。
多少の怪我は認められるものの、致命傷は見当たらない。戦場の規模は想定していたリリスだったが、置き去りにした想い人の無事を確認して密かに安堵する。
が――それも一瞬の間に覆された。
無事だった。確かにルキは無事だった。正確に言えば、ルキの身体は無事だった。しかし。
蒼褪めて真っ白になった横顔に、焦点の合わぬ双眸に、遺体を抱き締めて震えることすらしない両腕に、言葉を失くした唇に、リリスは衝撃を受けて立ち尽くす。
……ルキの精神は壊れていた。
後悔した。
リリスは決してこんな結果を望んでいた訳ではなかった。
けれど、エヴァの死の可能性を承知しつつ事態を招いたのは事実だ。また彼が絶望するのを承知しつつ、彼女の死を誘引したのも事実だ。
この日抱いた罪悪感は、以後のリリスの心に大きなしこりを残し、行動に影響を与えた。
実際、ルキの回復には百年を超える年月を要し、リリスの半ば命がけの献身がなければ戦乱の世で生き残ることは叶わなかっただろう。
最初の数年、いつまで経ってもルキはエヴァの墓の傍から動こうとしなかった。リリスは無理矢理にでも食事を摂らせ、身体を清め、敵が来れば追い払い、一言も発さないルキを守り続けた。
激化する戦乱はふたりがひとところに留まることを許さない。やむを得ず、嫌がるルキを引き摺って移動する。
仲間も散り散りになった今、最早まともに戦う余力はない。しかもルキと協力し合うどころか、保護する必要があるのだ。隠れる以外の手段はなかった。それでも何度死にかけたか、死なせかけたか。死に等しい苦痛に耐えたか。
もしも――見捨てる、という選択肢を思いついていたら。当時は考えも及ばなかった己はさぞや滑稽なのだろう。
麻痺していたのはリリスも同じだった。
必死というより躍起になっていた。
ルキが。
ルキだけは。
ルキさえいれば。
あの昏い感情は何に因るものだったろう。
恋心や執着があれば無我の境地に辿り着けない。罪悪感や懺悔があれば無償の愛は語れない。リリスの想いはいったいどこに帰結するのか。答えを出せぬまま、時間だけがひたすらに過ぎてゆく。
百年が過ぎ二百年を数える前に、気がつけば、何がきっかけかは知らぬが、ルキはいつのまにか自分を取り戻していた。以後は何か吹っ切れたように覇道を求めて邁進することになる。
ただリリスの感情は、未だあの日のあの場所に取り残されたままだった。