5.自分のコト
扉の内側に緊張が走ったのは、外のリリスにも伝わった。怒りの感情は緩く細波を立てて広がり、向けられた相手に恐怖を抱かせる。瞬く間に空気の色が変わっていった。
少しの沈黙の後、くっ……と小さく嗤った魔王の声が、静寂を破った。
「……愚なことを」
「お前たちに……あれの何がわかるか。もしあれが真に邪魔に思うのならば、娘のひとりなどとうに始末している。そうしないのは、あれにとってはどうでもいいということだ。確かにあれは王妃だが、お前たちが考えるような浅はかな感情に囚われたりする者ではない」
「そもそも……あれが王妃の座を望んだことなど、本当は一度もなかろうよ」
「……っ」
扉を開けようとした手を引いて、リリスは低く響くルキの言葉を受け止めた。
その通りだ、とリリスは胸中で深く頷く。
ルキの評は正しい。
昔も今も……そして未来も、リリスは名ばかり王妃の身分などに固執することはないだろう。
(そんなもの本当は要らない)
元より――リリスがルキに望むものなどない。
何もない。
その事実が示す本当の意味を、想像力の足らぬ魔女たちはおろか、ルキ自身とて理解してはいまい。
(要らない)
「リリス様……?」
ヴェールが訝し気にリリスの名を呼ぶ。
リリスは何かを堪えるように口を結び、いつまでも動けずに立ち尽くした。
◆ ◆ ◆
結局、リリスはあの玉座の間に立ち入らなかった。立場を考えれば、弁明なり狼藉者たちに適切な処置をするなり、相応の振る舞いが求められていたはずだった。
けれどリリスは魔王に会わぬまま、戻った事実すら口止めをして、宮殿の片隅に身を隠した。
――夜を待つ。
逃げた訳ではない。
思うところがあっただけだ。
宮殿内が寝静まる頃に、リリスはひとり忍んで行動を起こした。
配下の愚かな企みにより警戒が強まった場所でも、大魔女たるリリスにとって障害ではない。
リリスは厳重に守られているはずの部屋に、殆ど苦もなく侵入を果たした。
暗闇の中、彼女は眠る。
そうだろう、人間という生き物は、魔族よりも多くの休息を必要とする――。
「……ジュリ」
「……う、あ?」
「起きて、ジュリ」
寝台に沈む娘を揺さぶると、リリスは小声で覚醒を促す。ジュリは寝惚け眼を擦りながら、見えない視界を凝らした。
「リリス……ちゃん?」
「ええ」
「え、本当に?」
「いつお城に戻って来たの? ていうか今までどうしてたの!? 知ってるかもだけど、実は今日ものすっごい大変だったんだよ?」
「そうね」
リリスはしぃっと、声を荒げそうになるジュリの唇に人差し指を当てる。下手に騒がれて見張りの警備兵が出てきたりしたら面倒極まりないからだ。
「夜分にごめんなさいね。昼間は魔王様がべったりだったようだから。ジュリとふたりで話したっかったの」
「まずは……下の者が随分と迷惑をかけたみたいで、申し訳なかったわ」
「え、ううん」
素直な謝罪の言葉を聞いて、ジュリは大きく頭を振った。
「魔王も言ってたけど、部下のひとたち? ……が暴走しちゃったって」
「私を信じるの? 配下をけしかけて貴女を襲ったのかもしれないのに?」
「まさか……」
「まあ……貴女を殺したかったら、そんなまどろっこしいことする必要は全然ないのだけれどね」
「え?」
「簡単なことよ」
やや意地悪く微笑むリリスは、細い指をジュリの唇から首元にすっとずらしてなぞった。
「このまま少し魔力を入れるだけ」
「リ、リス……ちゃん」
「私には造作もないこと。こう見えても、古から生きる大魔女なんだから」
「それは、聞いたけれど」
「怖い?」
ジュリは少し考えるように小首を傾げた。
「怖い……? いえ、怖くないと思う」
「どうして?」
不思議そうにリリスは理由を問うた。
「容姿のせい? 年下の小娘にしか見えないから油断してるの? 魔族は人間みたいな老化現象はないのに?」
おそらくは答えは違うと確信しながらも、リリスはわざとらしく尋ねる。
すでにジュリは魔族と人間の生態の差異を理解しているはずだ。己の常識に捉われて偏見を捨てられないほど愚かではないだろう。
「確かに、私からするとリリスちゃんは高校生か、下手すると中学生くらいにしか見えないから……まさかリリスちゃんが魔王の奥さんだなんて、最初は信じらんないというか意外だったけど。でもまあ、王様と魔女のトップなら文句なしにベストカップルなんだろうね」
言いつつも、どことなくジュリは納得していない様子だった。
「……うん、やっぱり怖くないな」
「今ので何故、その結論?」
「だって魔王が言ってた通り、リリスちゃんがその気だったら、とっくに私のこと始末してたはず」
「そんなの……魔王様が許さないから」
「本当に? リリスちゃんが本気出せば、魔王だって止められない気がする」
暫く離れていた間に魔王とジュリの距離がどれほど縮まったのか、リリスは詳しくは知らない。だがルキはリリスのことを――つまり魔王として君臨するまでと、その治世と、即ち己の半生を概ね話したのだろう。それはリリスとルキが共に生きた時間でもある。……恋人が、死んでからの時間でもある。
「私は数えるほどしかリリスちゃんと話してないから、ほんとの性格とかわかんないよ? でも魔王に聞いた限りだと、リリスちゃんはずっと傍にいて、苦楽を共にしてきたんだよね? つまり……リリスちゃんの行動原理って」
「……っ」
リリスはぎくりと身体を強張らせた。
他者から勝手に心情をはかられるのは好まない。たった二十年しか生きていない人間の娘に悟られるのは許し難かった。
「駄目よ、ジュリ」
「気づいては駄目。言っては駄目。誰に告げるのも駄目。目を閉じてすべて消しなさい。眼を抉られ脳をかき混ぜられたくなければ、すべて」
呪いめいた言葉を口にしながら、リリスはジュリに顔を近づけた。ゆっくりと互いの額を当てる。朱い瞳と黒い瞳が交差した。
「リリスちゃん……」
「忘れてちょうだい。だって今から私はそれを捨てようと思うのよ」
「は?」
「……………………」
驚くジュリの耳元で、リリスが囁く。
ジュリは息を呑んでそれを聞いた。
「リ……リスちゃん、それって」
「さて、ここまでね」
「え? ――ッ!」
ぐいと突き放すように、リリスはジュリの身体を突き飛ばして立ち上がる。と、ほぼ同時に大きな衝撃が響く。
力任せに扉が開かれる音がした。
「……リリス!!」
現れたのは――魔族の主にして絶対の支配者、リリスにとって唯一の拘りであり、ジュリにとって前世の因縁である魔王そのひとだった。