4.彼のコト
「リリスはどう思う?」
「……何がです?」
「エヴァ……いや、今はジュリだったか。彼女のことだ」
自室まで報告に来たリリスに、魔王ルキは遠慮がちに尋ねた。
(なんで妻に訊くかしら)
恋人のこととなると威厳の欠片もなくなるルキを、形式的に膝を折ったリリスが苛立ちを込めて見上げる。
確かにリリスは王妃といっても愛し愛されて結婚した訳ではない。
ひとつに魔王と大魔女の間で勢力が割れる可能性を防ぎつつ、統治を効率よく協力し合う体制作りのため、今ひとつは権力に群がり寵を求める面倒な女たちへの牽制のためだ。
無論、成熟した男女である以上、過去には夫婦生活が皆無でもなかったが……すでに周囲に知れ渡る程度には職務としての妃である側面が強い。
(まあ……じゃなきゃ、恋人候補の世話を押し付けたりなんて普通しないでしょうけれどね)
ヴェール少年に世話係を任せて、ジュリは宮殿の一室に閉じ込めてある。順応性が高い性格なのか嘆きも騒ぎもしていないから大したものだ。
相手は落ち着いているから気になるなら自分で会いに行けばいい、とリリスは殊の外冷たく告げた。
「いや……その……」
「ご自分で連れ帰ったんでしょうが」
「そうだが……彼女は知っての通り記憶はないようで、いや、エヴァには違いないと思うのだが」
「みたいですね。私には魂の判別はつきませんから何とも言えませんけど、言語にも不自由していないので、彼女の魂にこの世界の情報が刻まれているのは確かでしょうね」
「そうか。そうだな……」
ルキは何やら歯切れが悪い。
折角ずっと追い求めていた相手と出会えたのだ。記憶があろうがなかろうが口説くなり改めて距離を縮めるなりすればいいものを、天下の魔王が何を怖気づいているのやら。
ともすれば不敬にあたる科白をぽんぽん口に出しそうになり、リリスはぐっと堪えた。
周囲の目がないときにルキがリリスの発言を咎めるとは思わないが、秩序には一定のけじめも必要なのである。
無論、ルキの心情も理解できないではない。
守れずに死んだ恋人に関する記憶には、深い悔恨が刻まれている。若い初恋は悲劇で幕を閉じた。たとえ生まれ変わりに出会えたとて、苦く辛い感情が消える日は来ない。
(残酷ね)
昔はリリスも時間がすべてを洗い流すと信じていた。忘却が救いになり、遠くとも新しい道が拓けるかもしれないと。
(そうね、運命とは皮肉なもの――)
+ + +
思案の結果、リリスは当面の間、魔王の元から離れることに決めた。
表向きは仕事のためである。
王妃としてやれる職務は探せば山程見出だせる。魔族同士で起こった内紛の調停、辺境で頻発する人間共との小競り合いへの介入、逆に数少ない交易への支援、或いは都市部の再開発や地方の活性化策などの事業計画、流通の管理や調整、他にも個別の訴状やら質問状やらへの対応……挙げれば枚挙に暇はない。
普段は中の決済が多過ぎて後回しにされがちな現場の問題を、大魔女である王妃が自ら赴いて解決に励む。魔王ルキの長い治世の間で、そういう方策は初めてではなかった。
ただ今回は周囲の誰が見ても短期集中に過ぎるように思えた。当然それは一瞬でも隙間を作りたくないというリリスの意思が反映している。
気がついていないのは、当の魔王ぐらいだった。
数ヶ月が過ぎたある日のこと――面白くもない急報を受けて、リリスは久方ぶりに帰還した。
良くない知らせだった。なんと丁重に保護していたはずのジュリが、宮殿内で襲われたのだ。尤も、当たり前に魔王ルキが返り討ちにしたようだが。
――自分の女くらい自分で守れ。
という意味合いの進言を慇懃無礼に置き去りにして出掛けたリリスだ。ジュリが無事であれば、本来いちいち戻ったりはしない。
(ああ、厄介ね)
帰還の理由は襲撃の事実よりも、その実行者たちにあった。
「よくお戻りになりました、リリス様!」
「すまないわね、ヴェール。今の状況は?」
「主犯および共犯者は捕らえられ、魔王様が直々に尋問をされております」
入口ではヴェール少年が待ち構えていた。
「ジュリは放っておいても大丈夫なの?」
「今は魔王様のお傍に」
「あー……なるほど」
であれば、世話役のヴェールが単身でリリスを迎えても支障ない。あのヘタレ魔王が不在の間にどれだけジュリと打ち解けられたかは知らぬが、寄り添っていられるなら大した進歩だろう。
逆に言えば、それだけ周囲にもジュリの存在が目についたのかもしれない。
至高の魔王の傍らに、身元不明の、それも人間の女がいる――当然、許容できない者もいるはずだ。
今回愚行に走ったのはそんな一派だった。
そして残念なことに彼女らはリリスの配下なのである。
「魔女連盟の……ただの構成員だけでなく、一部幹部まで荷担していたらしいと」
「聞いたわ。私の管理不行き届きね」
尋問が行われているという玉座の間に急ぎ向かいながら、リリスは淡々と報告を受けた。
言わずもがな、魔族の殆どの女が名を連ねる魔女連盟の盟主は王妃である大魔女リリスである。名誉職のようなもので実務には携わらないが、何かあった際の責任は負っている。
リリスを主と仰ぐ魔女たちの動機は、実のところ明白だった。そもそも魔王の近くには概ね二種類の女しかいないのだ。
名目上の王妃を差し置いて己自身に魔王の寵愛を望む一派(いや、個人か)と、もう一方は大魔女リリスを信奉する一派だった。
普段の言動から前者の方が面倒を引き起こすと想定して多少は注意していたリリスだが、どうやら判断を誤ったらしい。
(いいえ、普通思わないでしょ)
伝説級の大魔女に心酔するだけならまだしも、当人の意思も確認せず勝手に忖度して、あまつさえ至高の王に刃向かうなどとは。
「……何故です!! 王よ! 何故そんな人間の小娘なぞに……!」
「リリス様のお嘆きを思うと……!! 陛下とて本当はご存知のはず!!」
「左様です!! 王妃様がいらっしゃるのに!!」
「長年お仕えなされたリリス様をないがしろにされて、人間の女ごときをお召しになるなど!」
「リリス様がお可哀想です!!」
暴挙を阻まれ、魔王からきつく咎められた(と思われる)襲撃犯の魔女たちは、どうやら逆ギレしたらしい。リリスが大広間に至る前から、金切り声が城中に響き渡っていた。
(頭痛いわー)
「大丈夫ですか?」
眉間を押さえるリリスの横顔を、ヴェールが心配そうに覗き込む。
「あの者たち……あんなことを言って、却ってリリス様のお立場が悪くなると考えが及ばないのでしょうか」
「いい子ね、ヴェール」
リリスは苦笑した。
まったく、子どもでもわかる道理だ。
慕われていると言えば聞こえは良いが、知らぬところで理想を押し付けられるのには辟易する。
(あれで私が関与してると疑われるなんて事態になったら業腹だけど……)
常であれば、魔王ルキが彼女らの戯言に耳を貸すことはないはずだが……お飾りのせいで最愛の身が危うくなったのは事実である。決して愉快ではないだろう。
リリスが予想した通り、玉座の間から漏れ聞こえてきた断罪の言葉は、酷く冷ややかだった。
「……ではお前たちの所業はすべて、リリスの意を汲んでいたと言いたいのか」