3.彼女のコト
恋人を喪ったときの彼の姿を、リリスはよく憶えている。
当時の彼――ルキはまだ魔王ではなく、リリスも大魔女ではなかった。
魔族と人間の領域も現在ほどはっきりと分かたれてはおらず、世界は混沌の中にあった。
戦乱の世で、魔族としてはまだ若く未熟だったルキは、更に無力である人間を守り切れなかった。
悲嘆に暮れ、生きる意思すら捨て去り自暴自棄になったルキを、リリスは無理矢理引き摺って放浪したものだ。
長い長い時間を共に過ごした。
姉代わりとして成長を見守り、友として恋路を見守り、仲間として覇道を見守り――最終的には表向きとは言え妻として隣に立った。
人間が生まれ変わるものと知ったルキが、待ち続け探し続けてから幾つの季節が巡り、どれほどの時間が経ったろう。
魔族間の勢力争いに終止符を打ち、魔王として君臨し、人間と領土を分かち、数え切れぬ争乱と短い平和を交互に繰り返す日々を送りながら、ルキは決して諦めてはいなかった。
いつの日か、かつての恋人に再会する。
夢が叶ったと自覚した刹那の――歓喜に震えたルキの横顔を、リリスはきっと忘れない。
◆ ◆ ◆
娘の名は江波戸樹理といった。
「ふぅん……エバトは家名なのね。じゃあ、ジュリと呼ぶわね」
「それはいいけど……リリス、ちゃん? さっきも訊いたけれど、私は」
「あら、可愛い呼ばれ方」
エヴァ――ではなく、ジュリよりも遥かに長く生きているリリスは、皮肉でもなく笑った。大魔女でありながらも見掛けは人間で言えば十代半ばの少女なので、ジュリが自分より年下と勘違いするのも無理はなかった。況してやリリスは王妃という魔王と並ぶ立場であることを告げてもいない。
聞けばジュリは二十歳そこそこらしい。異世界でも人間の寿命や成長速度は変わらないようだ。
さて、リリスたちは現在、人間の領域から脱し、魔王の居城たる宮殿にいた。
天敵だか宿敵だかの相手である勇者を、魔王そのひとが拐って逃げるなど、いったい誰が想像し得ただろう。
魔王ルキはエヴァ、否、江波戸樹理の手を握ると、もはや人間相手には何の興味はないとばかりに、膨大な魔力を爆発させてその場を去った。
向かう場所はもちろん、自身の支配圏である魔族の領域だった。
それはいい。そこまではいい。
(その後が仮にも妻である私に丸投げって……どうなの)
結局、ジュリを連れてきたはいいものの、二言三言話して、彼女に前世の記憶がないと判明すると、ルキはリリスに縋る目で助けを求めた。
(あんのヘタレ魔王……)
人間のジュリを魔族の宮殿内で放置する訳にもいかない。仕方なしにに客間の一室に押し込んで、事情を説明したり逆に訊いたりして、何とか双方が状況を把握するに至ったのである。
「異世界転移だけでも意味わかんないのに、そのうえ前世!? 異世界転生? 魔王の恋人? 設定盛り過ぎだわ……」
大まかな経緯を聞かされたジュリは、頭を抱えていた。記憶もないのに呑み込みが早いのは、本人によれば育った環境で流行っていた創作物(?)とやらのおかげらしい。
「だいたい本当に私がその、ええと、エヴァってひとなの?」
「どうなのかしら? 私に判別ができる訳じゃないの。正直、生前のエヴァとは容姿も全く違うし。ただ……魔王様がそう呼んで、貴女がその手を取ったから」
「あれは!」
「全然知らないところにいきなり連れて(?)来られて、寄ってたかってわけのわからない話をされてたところでお城の屋根が飛んで、突然現れたイケメンが名前を呼ぶから、つい! 確かに江波戸じゃなくってエヴァって言ってたけど」
ジュリはぶんぶんと首を振って、己の行動に慌てて言い訳をする。おそらく魔王にも同じように主張したのだろう。
(それであからさまにがっかりして、引き篭もってしまったのか)
魔族の王としては情けない限りだが、期待と喜びで高揚した分、落胆も激しかったのだろう。責めるのは酷かもしれない。
「まあ前世云々の真偽は兎も角、ジュリが召喚された勇者というのは間違いないの。人間共からも聞いたと思うけれど、勇者というのは」
「魔王の、天敵?」
「そうね……でも、もしかすると」
少し考えて、リリスは言い淀む。
何も知らないジュリに憶測を伝える必要があるか迷ったのだ。
「リリスちゃん?」
「……まあ、そうだとしてもどうしようもないし」
「は?」
「貴女が召喚された理由」
「えーと……まさか、今の話の流れからすると、その……前世が原因、ってことだったり?」
「そう」
肯きながら、リリスはやや感心する。やはりジュリの頭の回転はそこそこ速いようだ。
「私って、魔王の弱点になる?」
「生かしておいても、死なせてもね。魔族には良くない影響を与える……可能性が高い」
もはや隠さずにリリスは伝えた。
敏い相手だ。変に取り繕うより腹を見せ、理解してもらった方が得策だろう。
「結論から言うと、貴女は当分ここに監禁」
「……せめて保護って言ってほしかった」
「? 意味は同じだけれど」
リリスはがくっと項垂れるジュリを気遣いはしなかった。
「衣食住は保障するから、勘弁してちょうだい。そのうち前世の記憶が戻るかもしれないし」
「りょー……かい」
はぁっと大きく諦めの溜息を吐くと、ジュリはやけくそのように、しかし一縷の望みを託すかのように、ぽつりと尋ねた。
「元の世界に……還れたりは」
「還る……?」
思いもよらぬ発言を聞いたとばかりに、リリスは大きな瞳を瞬かせた。
少し考えてみれば当たり前だった。次元を超えて訪れたということは、帰還の方法とて存在する可能性はあった。
「……そうね、人間の編み出した術だから、今すぐにはわからないけれど、どうかしら」
「もし、あったとして」
「還してあげられるかはわからないわね。魔王様次第だから」
「ですよね……」
ジュリは再び肩を落とした。
生前のエヴァと特に親しくもなかったので真実生まれ変わりなのか判然としないが、この娘との会話自体は嫌いじゃない、とリリスは思う。
なかなか聡明で物怖じしない娘だ。政治的な思惑だけで妃の地位に就いたリリスよりも余程魔王に相応しく、その孤独な心を慰められる唯一になり得るのかもしれない。
(さて、どうするかな……)
王妃として、また忠義の臣下として、リリスは思考を巡らした。如何に対処するのが魔王に、ひいては魔族全体の益になるのか。或いは最も不利益が少ない道がいずれにあるか。
(こんなことが起きるなんてね)
想像だにしなかった状況に、リリスは自嘲する。
たかが人間の策と雖も侮るなかれ。
すべてが意図的ではないにせよ、間違いなく奴らは目に見えない鈍い楔を、リリスと彼女の王の胸に打ち込んでいったのだ。