2.勇者のコト
まずはこの世界について説明せねばなるまい。
この世は人間の住む平和な土地と、魔王が率いる魔族の勢力圏とで綺麗にふたつに分かれる。地積もおおよそ同程度とされるが、誰も測ったことはないため飽く迄も推定である。
創世の初、遥か遠い昔から、人と魔は対立を続けていた。
数の優位は繁殖力の旺盛な人間にあり、個々の力の優位は桁外れの魔力を誇る魔族にある。
魔王自身は直接人間の国を攻撃はしなかったが、多くの罪なき人々は末端の魔族に襲われ、怯えながら生きていた。魔族の勢力圏に近しい辺境の国では特に、長い抗争と犠牲が紡ぐ歴史の中で、恐怖と憎悪が培われた。
人間とは非力なもの、魔族とは、魔王とは――滅ぼすべきものだ。
やがて研究を重ねた人間の国のひとつが、遂に限界を越え、禁忌を破る。
召喚魔法、或いは異世界転移魔法と称される術を、呼ばれた被召喚者は知っていただろうか。
別の世界に干渉し、敵対する相手――魔王に最も都合が悪く、自分たち人間に最も都合の良い人物を顕現させる。
それが勇者召喚の真実だった。
◆ ◆ ◆
人間の城で発動された召喚術の気配を感じ取り、一足遅かったと気づいた瞬間も、大魔女リリスは別に焦ってはいなかった。
(寄り道に時間を取られたせいで、面倒が増えたじゃないの)
リリスは何度目かの溜息を吐く。
可能であれば召喚自体を邪魔したかったが、間に合わなかったのなら仕方ない。間髪入れずに対象を始末すればよい。
人間側が敵対勢力に如何なる手段をもっても抵抗したい、一矢報いたいと思うのは自然の感情だ。無論、受ける側が甘んじる必要はない。
そのためにわざわざ魔王がここにいる。
丘の上の古城を空中から見下ろしながら、魔王ルキとリリスは介入の時機を図っていた。
「リリス様、あの人間共は勇者召喚とやらに成功したのですか?」
「そのようね」
魔王の傍らに控えたヴェール少年が、早くも収束しつつある空間の歪みに目を凝らしていた。リリスは軽く肯定した。
「わかるのね、偉いわ」
「そんな、畏れ多い」
褒められて、ヴェールは顔を赤らめる。驕らない初々しい態度に、リリスは好感を抱いた。
「一目瞭然だろう」
それに比べて、主人たる魔王は面白くもなさそうに不貞腐れている。不遜というべきか、可愛い気の欠片もないというべきか。いや、世界の半分の支配者にそんなものがあっても気味が悪いが……。
「まったく、手間を掛けさせる」
「あーら、嬉々としてやって来たくせに、何を仰るかしら?」
「う、煩いな」
「御自ら人間共の愚かな企みを阻止せんと、足をお運びになったのでしょ? 生憎と、大っ変残念ながら、事は成ってしまったようですけど?」
「……わかってる! 召喚された勇者とやらを早々に始末すればいいんんだろう」
ふん、と投げ遣りに鼻を鳴らし、魔王ルキは地上へと手を翳す。淀みの中にある古めいた城は、ぐらりと揺らいだ。
「面倒だ。吹き飛ばす」
言い放った瞬間には、古城の上半分が消失していた。遅れること数秒、城内の人間の息を呑む気配を感じる。混乱と恐怖の声が続いた。
実は魔王は壊した場所にいた者のひとりすら殺してもいないのだが(万が一にも昔の恋人の生まれ変わりがいたら大変だという非常に利己的な理由だが)、人間たちにそれをすぐ確認する術はない。
爆風の隙間から覗く空を背景に、圧倒的な魔力を見せつけるように現れた――恐怖の名そのもの、漆黒の闇を纏う悪の化身。
(とか何とか、世界の終わりでも来たみたいに考えてるんでしょうね)
人々の絶望を前に、リリスは口端だけで薄く笑った。尤も、格好つけてるだけの夫に対してだ。
(中身は残念魔王様なんだけど)
見た目は少女だが妙に迫力のあるリリスの笑みは、人々に底知れぬ不気味さを印象づける。
魔族だ、逃げろ、もうおしまいだ、と口々に叫び右往左往する人間たちは、不様で滑稽だった。
そんな中、どこからともなく、一際高く絞り出した必死の声が上がる。
「お助けください! 勇者様!」
ざわり、と場の空気が変わった。
救いと希望の欠片が拾われて広がった。逃げ惑い狼狽えるしかなかった動きが停止し、無数の視線が一斉にひとところに集まる。
「――勇者様!」
「勇者様!」
「勇者様!」
人々は口々に叫び出す。
リリスも思わずつられて、彼らが救いを求める対象を見遣った。
(勇者……?)
城の大広間、だだっ広い大理石の床に描かれた精密な紋様――召喚陣の中央に立つ人物を。
困惑顔でそこに佇んでいたのは、歴戦の戦士でも徳の高い賢者でもなかった。
「え……何?」
奇妙な衣服を着た若い娘が、長い黒髪を揺らして呆然と呟いた。
普通の娘――ではないだろう。おそらく。
風変わりな装束以外にこれといった特徴は見受けられずとも、リリスは警戒を露わにする。
前情報が正しいのであれば、彼女は異世界から召喚された勇者なる存在であり、魔族の天敵だ。
特殊能力があるのか、常軌を逸した知謀の持ち主か、はたまた強力無比なる武器を携えているのか。
たかが人間の扱う術だ。大した結果ではないかもしれない。だが万一の危険を孕んでいたら……。
あらゆる可能性を考慮に入れて、リリスは咄嗟に動けるよう魔王より前に出た。
「……待て」
「? 魔王様?」
低い制止の声と合わせて、魔王ルキはリリスの腕を掴んだ。
「ちょ、痛い」
「……だ」
「は?」
力任せに引っ張られた腕を振り解けずに、リリスは身体を半分捻って魔王に顔を向けた。
「魔王、様?」
(何なの?)
リリスは眉を顰める。
魔王ルキは蒼褪めていた。その表情は真剣というよりは苦悶に満ち、驚愕というよりは信じ難い悪夢を見るかのようだった。
彼の漆黒の双眸はただ一点、同じ色の瞳を持つ勇者と思しき娘だけを捉えている。すでにリリスのことなど眼中にない。
「エ……だ」
「え?」
「エヴァだ!」
名を呼ぶや否や、魔王はリリスを押し退けて一直線に娘の元へと下り立った。
求めるように――或いは焦がれるように手を伸ばしながら。
「まさか……」
「リ、リリス様、魔王様はいったい」
「エヴァ……」
何も言えずにいるリリスも、訳がわからず心配する従者の少年も、再び混乱に陥る人間たちも、彼の意識のほんの片隅にすら存在しない。
魔王ルキは熱と困惑が混ぜった声音で、ただひとりの名を繰り返した。
「エヴァ……?」
「……は、い?」
やや躊躇いつつも、異界の娘は差し伸べられた手を取った。