1.魔王のコト
何だかお久しぶりかもです
すでに書き終わっているので
お気軽にお読みいただければ幸いです
「――君は私の運命の女性だ!」
見れば黒髪の美丈夫がうら若い乙女を口説いている真っ最中だった。
(まーた始まったか)
リリスは今更呆れもせず嘆息もせず、大きな欠伸をひとつ漏らして成り行きを見守ることにする。
街外れの道端で相対する長身の青年と美しい町娘――傍目には互いに惹かれて見つめ合っているかのように映るが、現実ではそんな甘ったるい恋物語は始まっていない。
よくよく観察すれば男の方の瞳が異様にギラギラと燃え盛り、受けた娘が脅え切っている様子が見て取れる。
(まったく、あんなのに目をつけられるなんて、可愛そうなお嬢さん)
娘を気の毒に思いながらも、リリスは路上の樹木の枝に座ってのんびりと観察を続けていた。
「は……?」
「君は私の運命だと言っている!」
「……は?」
「その円らな瞳、真っ直ぐで艶やかな髪、白く滑らかな肌、愛らしい薄紅の唇」
「ちょ、ちょっと」
「花のような芳香、鈴音のような声」
「……(いや何このひとキモイ)」
「ああ、どれを取ってもあの頃のままだ! 君だろう、エヴァ。ようやく私の元に生まれ変わってきてくれたのだろう!」
「……!(ヤバイ、本物だ!)」
尋常ならざる面持ちで娘に迫る男は、いくら美形でも怪しいことこの上ない。
本能的な恐怖に押され、娘はぞぞと後ずさった。
「あーあ、何やってんだか」
「……えっと、リリス様」
小さな少年が樹の下から困惑した表情でリリスを見上げた。
「よろしいんですか?」
「んー? ま、いつものことでしょ。百年に一回くらいの恒例行事なの」
リリスはくすりと微笑んで少年の問いに答える。今日たまたま彼に同行していた従者は、まだ年若いらしく事情をよく知らないようだった。
「恒例……ですか?」
「そうなの。あの方はああいう感じの人間の女を見かけると、すぐ飛びついてしまうのよね。見たのは初めて?」
「は、はい。お恥ずかしながら、自分は人間の国にご一緒させていただくこと自体が初めてです」
「ふぅん? 名前は?」
「ヴェールと申します」
遠慮がちに名乗りながら、ヴェール少年はぺこりと頭を下げた。
「いい子ね。見ない顔だけど、私の素性も知ってるの?」
「も、もちろん存じております。大魔女リリス様。その、恐れ多くも――」
「魔王様の……奥方様」
「そう。お飾り王妃サマね」
言い淀むヴェールの語尾に重ねて、リリスは自らの立場を主張した。同時に枝の上からふわりと下り立ち、風のように軽く着地する。柔らかな銀髪が舞った。
「だ、誰がそんな……大魔女様をお飾りなどと」
「言い回しがおかしかったかしら。えーと……形だけの妃? 仮面夫婦? ま、兎も角そんな感じ。どちらかと言うと古くからいる側近みたいなものね」
特に何の感慨もないようにリリスは淡々としていた。むしろ言われたヴェールの方がややたじろいでしまう。
「あの……」
「気にしないで。ほら、あの通り、魔王様の行動を見ればわかるでしょ」
仮にも夫であるはずの男が初対面の娘に言い寄る姿を目の当たりにしても、リリスはまるで動じてはいなかった。
「黙っていれば超絶いい男のはずなんだけどね、我らが魔王様は。本当しょうもないというか、残念な方なの」
長く仕えるリリスにとってはすでに見慣れた奇行だが、ヴェール少年には意味がわからないだろう。リリスは苦笑して続けた。
「魔王様にはお探しの相手がいらっしゃるのよ。もう何千年も」
「お探しの?」
「そう。遥か昔の……まだ王になられる前に出会った、最初の恋人ね。人間の女だったの」
「ええっ?」
ヴェールは驚いて小さく声を上げる。
「そんなまさか。人間だったらとっくに死んでるんじゃ……あ、いえ、失礼なことを申しました」
「当然よね」
軽く肯くと、リリスは右の掌を空に向けるように開いた。ぽうっと淡い光線が宙で震え、ぼんやりとした絵を描く。それは何もない空間に映された人の像だった。
「彼女」
魔女の力で女性の幻影を作り上げたリリスは、ヴェールに指し示す。
「似てるでしょ? 今ちょっかいをかけられている娘と」
「確かに……」
なるほど、とヴェールは幻と現実の光景を交互に見返した。
波打つ豊かな金色の髪にやや気の強そうな青く澄んだ瞳……確かに特徴に共通点はあり、パッと見の容姿も酷似している。
「さあエヴァ、私と共に行こう」
「いやぁっ!! 変態!!」
そのそっくりさんに、今まさに彼らの魔王陛下はこっぴどくフラれていた。奇声を上げられ、更に強烈な拳を振り上げられた瞬間を、リリスとヴェールはばっちり目撃した。
「あちゃー……」
「ま、魔王様に、無礼な」
「あれは、しょうがないでしょ」
リリスは肩を竦めた。
突然見ず知らずの男にギラついた目でにじり寄られたら、若い娘が逃げ出さない道理がない。
「さて」
「いい加減になさいな」
ここでようやくリリスは傍観者を辞めた。
やや離れた物陰にいたはずが、あっという間に夫である魔王に近づき、見も蓋もなく言い放つ。
「ドン引きされてるでしょうが。本っ当にその娘はエヴァさんなの?」
「いや……しかし、リリス」
「ほら、よぉくご覧ください。貴方のお力でしたら見かけに惑わされず、魂の色でわかるでしょう?」
リリスが割って入った隙に、娘はこれ幸いと逃げ出していた。その背中に手を伸ばそうとして、魔王は動きを止める。
「……違う」
残念そうな否定の呟きに応えて、リリスは大きく首を縦に振った。
「エヴァ、ではない……か」
「似た容姿の別人です。だいたい生まれ変わっても同じ顔の訳ないですって」
「そういうものか」
「容姿はおろか、人種も体格も性別すら違うかもしれないって、何度も申し上げましたよ?」
落胆する夫に対してリリスは容赦ないどころか辛辣だった。何しろ過去何回何十回と同じ遣り取りを繰り返しているのだ。苦言を呈したくもなる。
「確かに人間の魂は転生するというのが定説ですが、再び出会える可能性は限りなく低いとも」
「……ああ、そうだったな」
「ま、ご承知の上で待ち続けるのは個人の勝手なので、別に止めたりしたことはありませんけれど」
「そうだな、お前は」
「仮にも魔族を統べる魔王様であらせられるのですから、形振り構わず女の尻を追い掛けるのはちょぉーっといただけないです。周囲への影響とか、威厳というものを少しは考慮してくださらないと」
「う……」
あからさまに憮然とする夫に対しても、リリスは遠慮しなかった。
何しろ彼女は大魔女リリス――気の遠くなるほど長く魔族の領域を治める魔王ルキ、彼が覇権を握る前時代から名を轟かせた古き魔女なのである。
まあ尤も、放っておいても不老のまま遥かな時間を生きる魔族は、年齢などには些かの価値も置かない。彼女が認められているのは無論、大魔女としての実績と威光があってこそだ。
伝説級に語り継がれる旧き者であり、現在の魔王ルキが台頭するにあたり最も尽力した右腕でもあり、その治世に口出しできる唯一の女と言われる。それがリリスだった。
「だからお前がついてくるのは嫌だったんだ……」
「何か仰いまして?」
口煩い妻に臍を曲げる魔王ルキを、リリスはぎろりと睨んだ。
「だいたいね、魔王様。こんなところで油を売っている暇はないでしょ。わざわざ人間の領域までやって来た目的は――」
「わかっている」
(嘘ばっかり)
リリスは胡乱気に朱い瞳を細めた。
知っている。理由など、事情など体のいい言い訳に過ぎない。魔王たる身が軽々しく人間の営みに関わってはならず、禁を破るにはそれなりに説得力のある理由付けが必要なのだ。
(何でもいいから兎に角、人間の領域に行きたかっただけなのよね、このひと)
「建前でもいいから、せめて格好くらいは取り繕ってくださいな」
夫に対すると言うより出来の悪い弟でも相手にするかのように、リリスは呆れた感情を隠さない。魔王ルキはぐむむと押し黙った。
「まったく、魔王様ともあろう方がそんな為体で、本当に可能なのかしら。勇者召喚の妨害なんて」
リリスはやや遠く、高い丘の上に視線を移す。古めかしい城から漂う空気は、宙に向けて不自然な流れを作っていた。