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領主の交渉が始まります

「魔物が現れただァ!? ただの山の狼の間違いじゃないのか!?」


 朝一番の静かな街、シンクレアの屋敷前で叫ぶ男性の声が否応なしに耳を劈く。

 魔物の出現。それは長い間続いていた魔物からの圧力に解放されたばかりだったシンクレア領の、ようやく暗い穴の外に出られそうだった未来を一気に上から叩きつけられたようだった。


 屋敷の前での二人の会話は続く。


「そりゃあ狼だって恐ろしいが、あの紫色の身体が動物なわけねえよ! ちくしょう、昨日はどんなに目のいい奴でも森まで見渡す限り草しか見えなかったってのによぉ……!」

「どうなっちまうんだ……くそっ、またオレらは、ギャレットの連中に頭下げながら大金取られなくちゃなんねえのか……!」


 二人の会話から、大体の状況が把握できた。

 そしてその二人の声を聞きつけてか、エドナさんが真っ先に屋敷から出てきた。


「領主様!」

「今の話は本当なのですか……?」

「……ええ、本当です……」


 エドナさんは、顎に手を当てて考え込むよう少し黙ると、すぐに顔を上げて二人に伝えた。


「……わかりました、対策を立てましょう。くれぐれも街の人は外に……なるべく家からも出ないように」

「家からも、ですか?」

「ええ。恐らくギャレット領の冒険者は、今日のうちにやってくるわ」


 エドナさんの宣言に一瞬目を見開き、そして悔しそうに歯噛みする。しかしエドナさんに黙って頷くと、すぐに二人はアイコンタクトをして走り出した。


 僕はその様子を見ると、エドナさんのところまで出て来た。

 後ろから、クラリスさんが顔を出す。


「……本当に、ライさんの言うとおりになりましたね」

「ええ。必ず魔物は現れると思っていましたよ」

「きっとこの後もライさんの言ったとおり、クレイグ殿が来るのでしょうね。私は、どこまで耐えればよろしいでしょうか。領民のためなら、私自身がどんなに傷つくことも構わないのですが……」


 僕の視線を正面から受け止めて、決意に満ちた顔をするエドナさん。……ビスマルク十二世とはえらい違いだな、なんてことを思いながら少し羨望の眼差しを向け、首を振ってその考えを振り払う。

 ——今、自分たちの村には最高の領主様マーレさんがいる。

 だからこの領主様を持つシンクレア領の人々を羨むのはやめよう。以前ならいざ知らず、今の僕には羨ましいと思う権利もない。それぐらいマーレさんは素敵な王だから。


 だけど、彼女にはビスマルク十二世ともマーレさんとも違う部分がある。それが現在のエドナさんの最大の弱点。それは『力を持たない』ことだ。それ以外の全てが備わっているだけに、ここがどうしても踏ん張れない。

 きっと姉貴も、エドナさんの人となりを知って協力したんだろうな。


 だとすると、僕が協力するのは————。


「それではまず始めに…………」


 ————姉貴がやり残した最後まで、だ。


 -


 屋敷の玄関ではなく、横にある居間の窓で待機をする。そのカーテンの隙間から、外を見ることができるようになっている。


 昼過ぎ、シンクレア領にものものしい集団がやってきた。それが軽装鎧を人と馬に着込んだギャレット領の人間だと一目見て分かった。

 見ただけじゃ分からない、なんてことをエドナさんは言ってたけどとんでもない。身に纏う雰囲気が全く違う。


 その護衛達の中から、先日見たばかりの馬車が現れる。

 中はもちろんクレイグ・ギャレット。もう一人は、背の高い壮年の男だ。


 二人は乱暴に門を叩くと、家の扉を開いたエドナさんが、憔悴した顔で門の近くまで出た。その痛ましい老婆の姿を見たクレイグは……にやりと意地汚い顔で嗤いながら門を開けた。


 うん、やっぱ僕あいつ嫌いだわ。




 エドナさんがクレイグともう一人の男を奥のサロンに招待し、僕は予め扉を開けている隣の部屋から聞く。


「では、話し合いといこうか。いやしかしエドナ殿も不幸が続きますな。せっかく平和になった街だというのに」

「……ええ」


 エドナさんの沈んだ声が聞こえる。それが演技であることは分かるのだけれど、同時に本心でもあるだけに心が痛む。


「サイラス、話を任せてもいいかな?」

「はい。まず。交渉するにあたって、先日話したとおり、こちらが出せる条件は、冒険者一人につき月金貨五枚、手数料は私が半分いただきます」

「な……それは、以前の倍以上ではないですか!」

「クレイグ様から言われたはずですよ、以前と同じ金額にはならないと」


 サイラスと呼ばれた男は、冒険者ギルドの代表か。

 なるほど確かに、そう言われると腕っ節で成り上がった感じの男だったな。


 それにしても、月金貨五枚を人数分は無理だ。強い魔物が山から溢れた以上、一つのパーティが数人でなければ安全に魔物を狩れない上に、そんなパーティが当然複数必要になる。

 しかも街から街へ出向く人もいるであろうに、それら全てに護衛が必要となると、一体どれほどの金額となるのか。

 この街の、カヴァナー連合国の力関係を見せつけられてしまった形だ。


「エドナ殿、あなたには断る理由はないはずです。むしろ選択肢自体ないと言っていいでしょう。頼みにしていた者達はいないですから、被害は広がる一方」

「そ、それをどこで……」

「民草は人の噂が好きでね、こういった噂話は広がるのが早いのですよ。件の魔人族とやらがいない上に、シンクレア領の守りの要であるエルフのクラリス様も案内役で不在ときました。……しかも今回は、空の魔物が現れています」

「……ッ!?」

「対して高い外壁もない街。断れば……分かっていますね?」


 サイラスという男が、逃げ道を塞ぐようにエドナさんを追い詰めていく。


「さあ、返事をどうぞ?」


 クレイグの、にやついた口元が見えずとも分かるような声色の言葉が僕の耳に張り付く。

 ……あんな心優しいお婆さん一人をいじめ抜くことが、そんなに楽しいか。


 しかしエドナさんは、はっきりと答えた。


「……いえ、今回私は、あなたたちの協力を受けません」

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