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ブラック・ボックス

作者: 秋田 槌男

 幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。

       ―レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』より―



 三人の男が居た。

 三人の男にはそれぞれの生活があり、それぞれに不幸と幸福を抱え込んでいた。

 一人は中小企業の社長。事業を初めて何年か経ち、ようやく会社が安定してきたところだ。少々悪どい商売をしているようだが、彼は他者からの批判に一切耳を貸さない。

 一人は遊び人。女を取っ替え引っ替えにしては、それぞれの家に転がり込んで日々の食を得るような生活をしている。言ってしまえばろくでなしであるが、そう言ったところで彼は気にもしないだろう。

 最後の一人はフリーターだ。新卒時の就職に失敗し、職を転々としては何とか毎日の生活費を捻出している。いつも景気の悪そうな顔をしているのだが、本人は生まれつきだと言い張っている。

 そんな彼ら三人は今でこそ立場は違えども、元は同じ大学の同級生であり、月に一度、各々で酒を持ち寄ってそれを飲み、酔っ払っては雑魚寝をし、朝になって解散するような集会を開いていた。話題はいつも大体同じで、社長は会社の愚痴や自慢話をし、遊び人は自分が抱いた女の話や小遣いを貰うための手練手管について語り出し、フリーターの男がそれら全てを如何にも調子の悪そうな、今にも胃の中身を吐瀉しかねないような真っ青な顔で聞き続けるのが常だった。

 この日、彼らはいつものように酒を持ち寄り、集会を開こうとした。普段は社長の部屋でその調度品に関する自慢話を聞かされるのがいつもの流れであったが、この日は珍しくフリーターが自身の住む部屋で酒を飲もうと誘ってきた。それを聞いた残り二人はおお珍しいと驚き、フリーターの住む家へと出向くことを決めた。

 彼の住む家は最寄り駅から歩いて十分以上かかる立地にある二階建てのアパートで、部屋は一階の左端にあった。その部屋は周りを塀に囲まれていて、部屋の入口前には丁度二階へ上がるための赤錆びた階段があるので、自然の光が入ることのないじめじめとした何処か肌に障るような、嫌な感じのある部屋になっていた。

「狭いけど、くつろいでくれよ」

 社長は言った。

「お前はよくこんな部屋に住めるな」

 続けて、遊び人が言った。

「こういう部屋に居ると、気が滅入っちまうよ」

 フリーターは嫌な顔一つせず、寧ろ笑顔でこたえを返す。

「住めば都さ。どんな場所だってね」

 そしてフリーターは台所から一本の酒を取り出す。プラスチック容器に入った安ウィスキーだ。四リットルはあるであろうその容器の中身は既に半分を下回っていたが、三人の男の飲酒欲を一晩満たすには十分な量だと思われた。

 三人は畳張りの部屋に座り込み、酒会を始める。安いものでも飲めば酒だ。彼らは程々に酔い始め、各々の近況について多少誇張を交えながら語り出す。

 社長は額に汗を流しながら言葉を発する。

「最近の新入りが生意気でさあ。変にプライドが高いもんで、俺達のやっていることにケチつけてくんだよ。無礼講ってのを真に受けてぺらぺら喋るような阿呆の癖に、意見だけは一丁前なんだよなあ」

「若い奴なんてそんなもんだろ。お前だって学生の時は口ばっかだったじゃねえかよお」

 そう言って遊び人は笑う。二人の様子を見ながら、フリーターはにこにこと笑みを浮かべ、そこに鎮座している。いつもの景気の悪そうな表情は見受けられない。

「おう、俺だって口だけだったさ。でもよ、今じゃたった五十人とは言え、会社の社長様だぜ。ただの口だけ野郎じゃなかったのさ。でもあいつは駄目だ。直にやめさせてやるよ」

「そう簡単に出来るもんか? 一度雇ったら理由なしにクビには出来ないんだろ?」

「そんなんあれだよ。ザル法だよザル法。本人が一筆書いて自分の都合で辞めますって言えばそれで終わりなんだよ。ようはそいつが勤めてて嫌になるよう仕向ければいいんだ」

「うわ出た。ブラック企業じゃん」

 社長は笑った。

「そう言うなよ。給料はしっかり払うし、パワハラにならない程度にするし、法に触れるようなことはまずしないね。まあグレーかも分からんけどなあ。社風に合わない奴を据え置くっていうのはお互いにとって不幸なんだ。早めに見切りをつけてもらうのがお互いのためってもんさ……それに、もし仮に相手が労基署に駆け込んだって、金が絡んでなけりゃロクに動かないし、動くだけ損になるのさ。でも税務署だけは駄目だね。あいつらは金がないなら腕を切り落とすし、腕もないなら内臓持っていくような連中だからな。俺達経営者からすれば税務署のほうがよっぽど悪どいと思うね」

 この会話の間、フリーターは一言も発さず、ただ浮ついた笑みをその顔に貼り付けるのみであった。

 二人はそれを奇妙に思い、フリーターへ質問を投げかける。

「おい、今日は妙に上機嫌じゃないか。正社員採用でもされたのか」

 社長の質問に、フリーターは言葉を返す。

「そんなわけないさ。俺はうだつの上がらないフリーターさ。コンビニの廃棄品が俺の主食だよ」

 遊び人は言った。

「じゃあなんでさっきからお前は機嫌が良いんだ? 普段はあんな景気の悪そうな顔をしてるっていうのにさ」

 遊び人の中には、ある種の虫の知らせのような予感があった。彼の経験則によれば、唐突に機嫌が良くなるような時と言うのは、周りにとって傍迷惑な物事が進んでいることが多い。もっともこれは、彼が今まで付き合ってきた女性たちの共通点に過ぎないのだが。

「まあ、良いことがあったのは事実だね……あのさ、そこの押入れを開いてみてくれよ。いいものがある」

 社長が立ち上がり、押入れの戸を開く。その中には、黒い物が置かれていた。

「なんだこりゃあ」

 遊び人もまた押入れの中を見た。

「なんだこれ。変なの」

 二人の言葉を聞いて、フリーターはニヤニヤと笑っている。

「それ、何だか分かるか?」

 フリーターの言葉に社長が答えを返す。

「現代アートの一種かね。この押し入れにあることそのものに意味がある、とか。もしそうなら、結構良い値段したんじゃないのか」

 社長は自身の見識を自慢するように言って、じろじろと黒い物を見る。確かに、そう考えれば何か意味があるように思えるなと社長は思った。

「いや、ある意味それよりもずっとすごいものだよ。これには価値とかそういう、なんていうのかな、平凡な表現に該当しないような、そういう代物なんだよ」

「お前まさか霊感商法か。ここに霊が居るからそれを追い出すために……とか」

 遊び人はそう言って一歩引いた。そういったものに没入する女性と彼は付き合ったことがあるのだ。

「ははは、そんなものじゃないよ。これはもっと分かりやすい、シンプルなものさ……二人は、竜宮城の話を知ってるかな」

「当たり前だろ」

 二人共同じ反応をする。フリーターは続けた。

「言うなればこれは玉手箱さ。中身を見ると、そいつは地獄に行くんだ」

 遊び人は言った。

「やっぱり霊感商法だ!」

「いやいやいや。それが事実であるか否かは重要じゃない。だからこれは俺にとっては地獄行きのパスポートだし、二人にとってはただの黒い物でしかないかもしれない。でも、世の中の大体の物はそうじゃないかな。自動車事故を起こす奴らは、まさかその車で事故を起こすだなんて思っちゃいないだろうし、初めからそう考えて車に乗る奴は居ない。でも、事故を起こした奴にとってその車は地獄行きのパスポートなのさ」

 そうだ、と言ってフリーターは手を叩いた。乾いた音が湿った空気の中に響き渡る。

「肝試しをしよう。三人のうち二人が外に出て、残された一人は少しの間あの黒い物を見つめるんだ。勿論、何でもないただの黒い物でしかないそれと一緒に居たところで何かが起きるでもない。どうだ?」

「それをやって俺達に一体何の利益があると言うんだ」

 社長はそう言った後、ナンセンスだと吐き捨てる。

「うーん、そう言われるとちょっと悩むな……そしたらそうだな。これから俺はこいつと一緒に外に出て、つまみを買ってくる。その間お前はここに居さえすればいい。つまみ代は俺が持つ。お前からすれば端金だろうが、お前はつまみの分千円ちょっとぐらい得をする。こんなんでどうだ。まさか、社長ともあろうものが、ただの黒い物に怖気づくとは思えないんだけど」

 社長は、フリーターの挑発に乗り、啖呵を切る。

「おう。怖くなんてねえよ。さっさとつまみ買ってこい」

 それを聞いて、フリーターはにやりと笑った。

 フリーターは遊び人を連れて部屋を出た。

 社長は狭苦しい部屋の中、ただ一人であの黒い物を見つめることとなった。

 社長は酔いが回ると誰かと話をしたくなる、いわゆる絡み上戸だったが、この場には誰も居ないし、オフの時に社員に連絡を取るのは彼の流儀に反している。

 仕方ないので、二人がつまみを買って戻ってくるまでの間を、あの黒い物を見つめて過ごすことにした。

「しかし……」

 社長は考えた。

 フリーターはこの黒い物を『地獄行きのパスポート』と表現していた。だが、この黒い物をどうすれば地獄に行くのかというような具体的な話は一切していないではないか。

 そうだ。あいつは確かこれを玉手箱と言っていた。つまり、何か開くような動作をすると、あいつの言う地獄が現れるのであろうか。社長は、フリーターに何か試されているような気がしてきた。

 その手は伸びる。社長は黒い物に触れ、それを開いた。


 変化は劇的だった。

 社長は自身の部屋に一人立っていた。あちらこちらに書類や荷物、洗濯物が積み上げられた部屋は、間違いなく社長のものだった。

 普段、自慢話の種にしている芸術品達は全て貸倉庫にしまわれている。そもそも、それらの品物は彼の所有品ではなく、会社が所有しているものである。程々の値段の芸術品を会社の備品として計上することで、税金を節約しつつ会社に資産を蓄え、自身の収集欲を満たしている。会社が危うくなればそれらの芸術品は放出され、経営資金の足しとなる。

 社長の住む部屋は月額家賃四万円の事故物件だ。日々の業務に追われているため、部屋の掃除は行われていない。その癖貴重な書類やら印鑑やらが大量に埋まっているために、業者へ清掃を委託することも出来ない。

 社長は酒を飲み、友人達に虚偽の繁栄を誇示するという至福のひとときから、無味乾燥な現実へと引き戻されたのだ。ここには山積みの現実だけがある。彼が誰にも見せない、社長の中の生々しい、実態としての精神がここにはある。

 何故自分はここに居るのか。その疑問が脳髄から警告のように吐き出されてくる。何故だ。何故なのだ。

 社長は腕時計の針を見た。時間は朝六時五十二分。

「仕事の時間だ」

 とにかく、会社に行けば間違いない。何かやらねばならぬことがあるはずだ。社長はそう考えた。

 過密状態の電車に揺られて三十分。社長はようやく自身の会社のあるビルの前へと辿り着く。

 そうだ。ここだ。この場所こそ俺の原点にして俺の全てだ。この中に居る限り、俺は王様で居ることが出来る。ビルの三階を丸ごと使った会社がそこにはある。社長は自分にそう言い聞かせながら階段をのぼる。

「……おかしいな」

 そう。確かにこのビルのはずだった。いつも通っている場所だし、そもそも自分の会社の位置も分からない社長が居るわけがない。

 しかし、目の前にあるのは違う。見たことも聞いたこともない会社。末尾に有限公司とつけられた会社だ。そんなもの聞いたことはない。

 社長は試しに、入口のセキュリティ装置に自身の社員証をかざしてみた。装置はそれを読み取り、扉のロックを解除した。

「おはようございます!」

 中へ入った直後、社員達から元気な挨拶が飛んできた。彼らは皆一様に笑顔を浮かべ、社長の方を見ていた。

 なんだ。俺はここでは王様じゃないか。そう理解して、社長は安心した。さっきの何とか有限公司というのはきっと馬鹿な印刷屋が間違えて塗り替えるかしたのだろう。後でクレームを入れてやらなきゃならない。その時にはうんと怒鳴り散らしてやろう。相手がうつ病になろうが会社をやめようが、そんなのは知ったこっちゃない。この俺を心底驚かせたことの罪だ。それぐらいの報いを受けて然るべきだ。社長はそう考え出した。

 だが、社長を真に驚愕せしめたのは、次の出来事であった。

「ああ、おはよう。今日も共に労働に従事しよう」

 社長の特等席。そこには、何とあの小生意気な新入社員がどしんと座り込んでいたのだ。

 社長は叫んだ。

「お、おい! なんでお前がそこに座っているんだ。さっさとそこをどけ!」

 社長の言葉に新入社員は動じることなく言葉を返す。

「何を言っているのです同志。私達には指定の席があるではありませんか」

 その言葉に、社長の怒りはさらに激しくなる。

「席が決まっているのは当然のことだ。会社ってのはそういうもんだ。そしてお前の場所はそこじゃない、もっと端の日がよく当たる、エアコンの風が当たらないような、そんな席だ。俺がそう決めたはずだ!」

「何を仰っているのかがよく分かりません。席の配置を決めるのは上層部の仕事で、私達の仕事ではありませんよ」

「何を言ってやがる。俺は、俺はこの会社の社長なんだぞ!」

 その言葉を放った直後、周りに居たニコニコ顔の社員達の表情は一変した。

「おい、労働監察官を呼べ!」

「こいつは私有財産を肯定したぞ!」

「俺達から搾取していたのか。この野郎!」

 彼らの発する言語は日本語であるはずなのに、社長には全く意味が理解できなかった。何を唐突に言い出すんだ。労働監察官? 搾取? 一体何の話をしているんだ。社長は困惑していた。

「お前達こそ何を言っているんだ。俺は、俺はな」

 そして社長は言ってしまった。致命的な一言を。

「社長なんだぞ!」

 その場に居た全ての社員達が、社長を取り押さえた。社長は狂っている、と吐き捨てたが、彼らは皆一様に社長の方をこそ狂人のようだと思っていた。

 多勢に無勢。力で捻じ伏せられた社長は直ぐ様警察車両へ連れ込まれた。装甲車じみたその車両の中は真っ暗で、付き添い一人居ない。まるで非人道的な取り扱いであった。

「なんなんだこの世界は! 畜生め!」

 社長は叫んだ。その声は暗い車内で反響した。

 すると、どこからともなく声がする。その声に聞き覚えがあったので、社長は違和感を覚えた。

「この世界は、君にとっての地獄だよ」

 その声は、フリーターのものだった。社長は言った。

「一体何の話をしているんだ?」

「とぼけたって無駄だよ。きっと君はあの黒いものに、ブラックボックスに手を付けたんだろう。それが原因だ。好奇心猫を殺す、って奴だよね」

「もし仮に、この世界が俺にとっての地獄だとして、これは一体どんな世界なんだ。俺がただ自分を社長だと言っただけでこんな目に遭うなんて」

「大体見当はついていると思ったんだけどね。俺が考えるに、ここは労働者の天国だ。労働者のために存在する、労働者の理想郷」

「そんなこと言っても、俺だって労働者じゃねえか!」

「確かにそうかもしれない。君はきっと自分を労働者だと思っているし、実際そうなんだろう。でも君は、自分の会社や、その下に居る人間を何か使い捨ての、使い方さえ間違えなければ便利に使える道具のように思っていたんじゃないかな。それがきっと、この世界を産んだんだ」

 一拍おいて、フリーターは言葉を続けた。

「誰かにとっての天国は、誰かにとっての地獄だ。この世界はきっと君にとって、紛れもない地獄なんだろうね。さあ、お迎えが来る。君はそこで強く反省しなければならない。何故ならここは、地獄なんだからね」

 車は止まり、扉は開かれた。


 フリーターと遊び人が家へ戻ると、そこには誰も居なかった。半端に残ったウィスキーのグラスだけが、ぽつねんと畳の上に置かれている。

「あれ、あいつどこいったんだろ」

 フリーターはそう呟きながら、コンビニ袋を台所に置く。

「おいお前。怖くないのか? 自分であんなこと言っておいてさ」

 遊び人が真面目な口調でそう言ったので、フリーターは笑った。

「何言ってんだよ。あんなお遊び真に受けて怖がる方がどうかしてるって。寧ろ、あいつがお前をビビらせるためにどっか行ったんだろう。タクシーでも拾ってさ」

 そんな風に淡々と、全く驚く素振りを見せずに語るフリーターの姿を見て、遊び人は寒気を覚えた。

 確かに彼の言う通り、過剰に驚く必要はないし、誰かが何もなしにいきなり消えるなどというのは本来考えられない。だが、それにしても彼の落ち着きようというのは、少々異常なように思える。普通、自分の部屋に居たはずであろう人物が居なくなったら、少しは動揺もするだろうし、もう少し狼狽えたっておかしくはない。けれど彼は、そういった様子を少しも見せはしないのだ。

「もうちょっと、なんつうかお前……ビビれよ。あいつどっか行っちまったんだぜ? 少しは心配する素振りとか、見せていいんじゃないか」

 フリーターは部屋の窓、鍵、靴置き場を見る。おかしいところはない、そう呟いた後に、フリーターはしれっと言い放った。

「うん、心配してる。だから俺さ、ちょっと探してこようと思うんだ。あいつの住所とか知ってるし、何となく宛はあるしさ」

「それなら、俺はどうすればいい?」

「もしかしたらあいつ、いきなり戻ってくるかもしれない。行き違いになるのもなんだし、お前はここに居てくれよ」

「そんな。何でそうなるんだよ、気味が悪い!」

 遊び人が言うと、フリーターはにやりと笑う。

「なんだよ。怖くないんじゃなかったのか。別にお前、俺の言うことなんてそんなに信じちゃいないんだろ?」

 こんな風に言われてしまうと、遊び人も引き下がれなくなってしまう。

 とうとう彼も、一人その部屋に置いてけぼりにされてしまった。フリーターは家を出て、遊び人は一人あの黒い物と相対する。

「何が怖いものか」

 そう言って遊び人は黒い物をじっと見る。こんな感覚は久々だ、霊能商法にハマった女と付き合っていた時以来だ。そんな風に考えて自分を誤魔化そうとするが、黒い物は微動だにしない。当たり前だ。誰もそれに触れていないんだから。

「ん、おかしいな……?」

 誰も触れていないものが、何故そこに存在するのかと彼は自問する。大体、触れるだけで地獄に飛ばされてしまうような、そんなものがこの世に存在してたまるか。大体地獄とはなんだ。

 彼の中では様々な考えが渦巻いている。そしてそれらは何の解答を得られることもなく、暗中模索の様相でもって彷徨い続けている。

 解答を得る手段は一つだけ。あの黒い物に触れるだけ。不快な夢に近付くかのように、彼は一歩ずつそれに近付く。

 そうだ。俺はあれにただ触れて、それで何もなかったかのように振る舞ってやればいい。社長がどこに行っていようと、フリーターがどんな怪しい宗教にハマっていようと関係ない。俺はただ、俺のためだけにこれに触れ、証明をするのだ。不思議なことなんて、この世には何一つ存在しないのだと。


 遊び人は、いつの間にか自分が、あのフリーターの薄暗い家でなく、病的なほどに片付いた自分の部屋の中に飛ばされたことが分かった。

 飛ばされた、という表現は正しくないかもしれない。何か自分の身体に衝撃が伝ったとか、痛みがあるとか、そういったのは一切ない。ただ、認知できないほどの短い間に、自室へ移動させられたのが分かったというだけだ。

 遊び人の部屋の中には、いくつかの収納とテレビ、ノートパソコン、テーブルぐらいしか置かれていない。下着や冷蔵庫と言うような、どうしても格好良く配置出来そうにないものは全て押入れの中にしまい込んである。その冷蔵庫の中にも酒ぐらいしか入っていないし、元々それぐらいしか入らない。

 部屋には埃は勿論、髪の毛の一本さえも落ちていない。それはまるでモデルルームとか、潔癖症の人間が作り上げた空間のようにしか思えず、そこからは生活の匂いを感じ取ることは出来ない。

 この部屋は彼の部屋だが、彼の生活する部屋ではない。彼が持つ様々な舞台装置の一つであった。

 彼は女を落とすための手管というものを、幾つも幾つも持ち合わせている。ロマンティックなバー、レストランを行きつけにしているし、相手にストレスを感じさせない豊富な話題も脳髄に叩き込まれている。この部屋は、そういった舞台装置の一つなのだ。彼は間違ってもこの部屋を住処にすることはない、不便極まりないからだ。

 この部屋は、彼が口説き落とす女性たちが見る夢の一つなのだ。並べられた本は読みもしない経済の本や村上春樹、中島らもなどで、そこからはただ瀟洒な感じだけが漂ってきて、中身は何もない。

 彼が考えるに、男の前で酔っ払い、男の部屋に連れ込まれる女というのは、それだけでもう身体を許したに等しいのだ。酔い潰れた人間がマトモに歩けなかったり、判断が出来なくなったりするなんて誰にでも分かりきっているのに、その上で飲むのだから、それは相手からのOKサインに決まっている。

 しかし、それでも寸前で逃げられる場合がある。それは男から何か嫌な空気を感じ取った時であるが、その嫌な空気というのはあくまで彼女たちの間抜けな勘でしかないので、簡単に麻痺させることが出来る。そのために設えられたのがこの部屋なのだ。

 お酒や、店の雰囲気などでたっぷりと麻痺させられた彼の獲物は、最後にこの部屋に連れ込まれる。部屋の空気は女にとって格好良い男性の証明とも言えるようなものになっていて、彼女たちはそこでとうとう最後の警戒を解く。

 彼女たちは理解していない。男である以前に人間である彼が、そんな空間で生活を営むことなど出来ないことを。そしてこの空間そのものが、彼女たちを騙すために存在しているのだと言うことを。

 彼は腕時計を見て、時間を確認した。朝だった。次に日にちを見る。バイトのシフトは入っていないはずだ。

「……となると」

 今日一日俺はフリーだ、と遊び人は考えた。先程まで自分がフリーターの部屋から飛ばされたということなどとっくのとうに忘れ果て、さて外にでも出て食事でも取ろうかなどと思考を巡らせている。いくら見た目に気を使おうとも中身はただの男だ。牛丼やラーメンは食べるし女とはセックスしたいと思うし、頭の中にあるものはそれ以上でもそれ以下でもない。ただ、異性の前ではそういった態度をおくびにも出さないというだけの話だ。

 普段の彼の生活は渡り鳥に似ている。住所をこの家に置きながら、殆どは自分が落とした女の家に転がり込む。もし、女の家に泊まれそうにないとなったら、その夜は漫画喫茶などで過ごす。女性の目がない場所では多めに食べ、女の前では少なめに食べる。彼の生活は自身がカモにする女達によって成り立っている。

 彼は外に出て、街を歩き、道行く人の顔姿を見る。こういった場面でも気は抜けない。彼のお眼鏡にかないそうな女性が居るなら、即座に声をかけなければならない。それこそが彼の生命線だからだ。

 しかしどうしたことか。この日は何故か、そういう風な彼のお眼鏡にかなう、いわば『チョロそうな』女が全然見当たらなかった。

 彼の考える、カモに出来る女には何個かの特徴がある。暇そうにしているのもそうだが、服装は綺麗なのにバッグはエナメル製の安いものだったり、靴だけがボロボロだったりするような、何処か隙のようなものがある場合が多い。だが、この日見た道行く女たちときたら、皆何かしらのブランドを身に着けていて、靴も綺麗で、心の隙も何もないような、充足した様子の者ばかりだった。

 胸糞悪い。彼は内心そう感じた。勿論その感情を表情に出すことはないものの、心の中は荒れ果てていた。

 彼は異性にこそよくモテるが、実際は女性を心底見下していた。彼ら女という生き物は、自分のような女を落とす以外に何の特技もないような男を重宝がってちやほやして、あまつさえ金も身体も差し出すのだ。彼からすればこのような感情を持つのは寧ろ必然かもしれない。彼のようないわゆる女好きというのは、女をいかに生き物として、ものとして分析するかが重要なので、そういった目線で見れば見るほど、女という生き物が自分と同じものとは思えなくなるのだ。なので、彼からすれば充足した女というのは服を着せられ車に乗せられて移動する愛玩犬なんかと同じように、分不相応な幸福を得ているように感じ取れる。

 彼は食事を終えた後、ある女性に対して電話をかけた。その女性は彼の手持ちの女性の中でもいっとう不幸で、就寝時は睡眠薬がなければ眠りにつけず、仕事中には栄養ドリンクが、夜には酒と承認がなければ息が詰まって泣き出してしまうような、そんな女性だった。そして彼は、彼女を慰めながらいつも内心ほくそ笑んでいたのである。

「もしもし」

 相手はすぐ電話に出た。分かりやすい女だ、と彼は思った。

「やっほー。元気かなって思って電話入れたよ」

「本当? どうせ何か買ってくれとか言い出すんじゃないの」

 相手からそう言われたので、彼は内心むっとした。

「そんなことないよ。それより今夜、飲みに行かない?」

 相手から、予想外の答えが帰ってくる。

「あ、今夜は駄目。予定あるから」

 おかしい。普段の彼女だったら相手をしてくれる異性はもとより、同性の友人さえ居ないはずなのに。

「あ、そうなんだ。そっかあ。誰か友人でも出来たの?」

「え、違うよ。別の男だよ」

 相手は事も無げにそう言ってのけたので、彼は困惑した。

「男? それって浮気っていうんじゃない?」

「何言ってるの。それは昔の話でしょ? 今は男が複数の女たらしこむのが浮気っていうの。人聞きの悪いこと言わないでよね。あ、もし君がそんなことするのなら慰謝料ふんだくってやるんだから」

 そこまで言われて、彼は怒った。

「テメエ、何を女風情が調子に乗ってやがんだ!」

 相手も電話の先で何か叫び声を上げたが、彼には認識できなかった。彼の心内は今怒りで満ち満ちていた。何を女風情がふざけたことを言い出しやがって、そんなルールが生まれたことなんて一度もないだろうが。彼は言葉を続けた。

「何が浮気だ。テメエ今まで何人の男に股広げたんだよ。女がそうなら男だって同じだ! 俺だって沢山の女とやってきたし、テメエだってその一人に過ぎないんだよ。テメエ一人居なくたって他の女に電話かければ一発なんだよボケ!」

 そこまで言ったところで、彼は肩を叩かれた。

「なんだよ! 今電話してんだよ!」

 彼が怒鳴った先には、警官の男が居た。それも複数人が警棒を持ち、彼を睨みつけている。

「ちょっと署まで来ていただけないかな。どんな会話をしていたのか、聞かせて欲しいんだけれど」

「んだよ。テメエ何の権利があってそんなこと」

「今の電話の相手は恐らく女性ですよね。この場合、あなたには公然わいせつ罪等々、様々な性的犯罪に該当する場合があります。署までご同行願えないかな」

 そこまで言われて、彼は青ざめた。

「そんな馬鹿な! そんな、俺はただちょっと言い合いを」

「話は署で聞くから」

 彼は手錠をかけられ、警官たちに引っ張られた。


 その後彼は警察署に連れて行かれ、尋問を受けた。それらは彼の価値観で言えば当然の事柄であったが、それらが全て犯罪行為であると告げられ、愕然とした。

 拘置所。暗く冷たい部屋の中で、彼は一人呟く。

「ここは一体どうなっているんだ」

 すると、何処からともなく声が聞こえてきた。彼はその声に聞き覚えがあった。

「君は君の地獄に居る。君にとっての地獄は、誰かにとっての天国なんだ」

「この世界が地獄……何を言っているんだ」

 遊び人は、その声の主がフリーターであることに気付いていた。

「ここはきっと、女性の地位が高い世界。女性にはありとあらゆる悪徳が許され、男には許されない世界だ」

「そうか。そういうことか。女どもにとって、この世界は天国なんだ」

「そう。でも君にとっては地獄なんだ」

「なあ、俺はこれからどうなるんだ」

「分からない。けれど、きっとそれなりの罰が与えられるだろうね。何せここは、君にとっての地獄なんだから」

 彼の声はしなくなった。遊び人は一人になった。


 フリーターは一人自分の家に戻った。そこにはもう誰も居ない。ただあの黒い物だけが押入れの中に鎮座している。

「二人共、触っちゃったな。まあ、そうなると思ってたんだけどさ」

 そう言ってフリーターは一人笑う。

「え、俺? 俺はいいよ。みんなの行き先の様子を見るだけで楽しいからね、それに」

 一拍おいて、彼は言葉を続けた。

「君達のことも、よく見えているしね」

 目の前には、真っ黒な本が一つ置かれていた。

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