第四扉 「契約書」
ヨハネの第一の手紙 2章15節
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。」
ある村に、とても真面目な男が住んでいました。男は妻と子供二人の四人で小さな家に住んでいました。男は真面目に働き、妻を助け子供達の良き父親になろうと日々努力し過ごしていましたが、男は少しも幸せを感じることが出来ませんでした。
妻は男に隠れて借金をし、男のことを少しも愛している様子ではありません。上の子供は男のことをひどく嫌っており、男と言葉を交わそうとしません。下の子供は病弱で家から出ることはできず、とても臆病な性格でした。
男は自分の人生に絶望しそうでしたが、自分がここから逃げ出したら全てが終わってしまうと思い、毎日、毎日、やり切れない想いを噛み殺しながら、日々の現実と向き合い過ごしていました。
そんなある日、男のもとへ女性が現れます。
とても品の良い服装に礼儀正しい言葉遣い、そして人懐こい優しい笑顔。彼女は自分が行商人であると男に自己紹介をしました。そして彼女は言ったのです。自分が扱っている商品それは……人間の願望……であると。彼女の商売道具は人間の望みを何でも叶えることが出来る契約書だとも言いました。
男は最初、彼女の言っていることが全く信じられませんでしたが、何故か彼女を疑う気にはなれませんでした。むしろ男は、彼女を信頼したいと何の根拠も無く思っていたのです。
そこで男は彼女と最初の契約を交わしたのです。
正確には彼女の契約書にサインをしただけでした。彼女自身が男の願望を叶えてくれるのか、どうやってそれが実現されるのか、男には全くわかりません。それでも男はよかったのです。自分がもし騙されたとしても構わないと思ったのです。何故なら男が自分の願望を叶える代価として支払うのは自分の寿命の一部だったからです。男は正直、もうこの世で生きることを諦め、未練など何もないと思っていたからです。
男がその女の契約書にサインをして数日後、驚いたことが起こりました。なんと男の妻が国王が主催する大きな祭りで豪華な懸賞品を引き当てたのです。妻はその懸賞品を早速お金に換えて借金を返済しました。すると妻はとても機嫌がよくなり男にとても優しくなったのです。
その数週間後、あの女性が男のもとへ再び訪れました。
男はすっかりその女性を信頼、いえ信用していました。そこで男はもう一度、彼女と契約をしたいと申し出ました。男は下の子供の病気を治してやりたかったのです。
女性は男に言いました。支払う代価は叶える願望に相当する。それでも宜しいですかと。男は迷わず構わないと言いました。そして彼女の差し出した契約書にサインをしたのです。
その数日後、異変が起きました。男の髪の色が真っ白になってしまったのです。そして、それと引き換えに下の子供の顔色はとても良くなりました。顔色だけではありません。咳は止まり、体中に力がみなぎっているのか元気に野原を駆けだしたのです。
男はその姿をみて涙を流しながら心底喜びました。
そして言ったのです、これは神の奇蹟だと。
しかし、そんな男の姿を見て、上の子供が言ったのです。
「父さん、父さんは間違っているよ。これは神の奇蹟なんかじゃない。神様は契約書にサインなんか求めたりしないし、神様は奇蹟に代価を求めたりもしないよ。あの女きっと……」
男は子供の言葉を最後まで聞かず子供の前から立ち去りました。男は子供の言葉に腹が立ったのです。自分が己の命を削りながら妻や子供のためにしていることを批判されたからでしょう。
しばらくして、男のもとに老人が訪れました。とても貧しい身なりで、言葉も何を言っているのかよく聞き取れません。それでも耳を澄ますと、その老人が何と言っているのかようやく判りました。
「……この世を愛してはならない……」
男は老人の言っていることの意味が分かりませんでした。
その後、間もなくして男は亡くなります。
彼の妻は妻子ある男と関係を持ち、その男の妻に刺されて死にました。
病弱だった下の子供は、国の戦に身を投じてほどなく命を落とします。
そして生き残った上の子供……そう僕は今こうして僕の家族の物語を書き記しているのです。この物語に何の意味があるのか、今の僕には正直判りません。それでも、きっと何か意味が在ったのだろうと信じてます。そしてその意味を誰かが解き明かしてくれると信じてこの物語をここに記します。
もちろん、その誰かは僕自身かもしれません。
いえ、そうありたいと心から願っています。
いつの日にか必ず……。
完
ヨハネの第一の手紙 2章16―17節
「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」