武田弘毅
最近、不思議な足音が聞こえる。ストーカーとかそういう類いのものではない。その足音は、雑踏の中でも一際異質な存在感を放っている。聞いているだけで背筋が凍るような、そんな足音が聞こえる。耳を塞いでも叫んでも、その音は消えることはない。困ったことに、その足音は日に日に大きくなっているようだ。病院にも行ってみたが、早々に鬱と診断され、薬を処方された。最近はこういう相談が多いのだそうだ。
病は気からとも云うので、医者に言われた通り、少し休みを取って家族と遊びに行ってみた。確かに家族皆で笑っているときなどは、あまり気にならないが、ふとしたときにあのおぞましい足音がまた聞こえてくるのである。
「ねえ、薬もう切れたんじゃないの?また貰いに行ったら」
「ああ」妻にはこの事を言っているので、妻はとみに心配してくれる。だが、もう薬を飲んでいないことはまだ言っていない。あれはどう考えても鬱や精神病の類いではない、恐らくそれを言っても、妻は医者に言われた通りに鬱の人はみんなそう言うと言うだろう。私自身も馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、あれはそんな生易しいものではないと感じるのだ。
今日は散歩をしよう。足音を自分でたてたら、気分も紛れるかもしれない。妻に出かけると伝え、靴を履く、足音は消えない。
「やあ、これは武田さんお出かけですか、珍しい」老人が話しかけてくる、隣に住む峰岸さんだ。私のことは妻から聞いているのだろう、平日の昼下がりに散歩している私を見てもちっとも訝しむ様子はない。
「ええ、こんな状態ですし、少し気分を変えようかと」自嘲気味に自分を指し、笑うと、峰岸さんは首を振って否定した。
「そんなことはありません!心を病んでも、改善しようとする気持ちが大事なのです!あなたはすばらしいですよ」
「ありがとうございます。その言葉だけで救われますよ」
「申し訳ない......少し、失礼な言い方になってしまった」峰岸さんがすまなそうに顔を伏せながら謝った。
「いえいえ、お気になさらず。私はそろそろ行きますので」
「私で良ければいつでも話し相手になりますので、いつでも来てください。お待ちしております」最後まで他人を心配してくれる峰岸さんの優しさに胸に暖かいものが込み上げてくるのを感じ、丁寧に謝辞を述べながら、その場を去る。
やはり、今日の散歩は正解だったようだ。とても軽やかな足取りで商店街を横切る。今日は気分が良い、何か美味しいものでも買って帰ろう。そう思い、ケーキ屋に入ったとき、足音が聞こえたような気がした。しかし、後ろを振り返っても誰もいない。
「変だな」首を捻りながらも、娘の好物であるマスカットのレアチーズを間違いなく買い、店を出る。
今日はすごく良い気分だ。いつも聞こえるあの音も聞こえない。そう思いながら交差点を渡っていると、異様に大きな足音が聞こえた。しかし、振り返っても誰もいない。ただ、運転席が空の乗用車が猛スピードで走ってくるだけだ。
「あっ......」世界が回った、果てしない時間が過ぎ去ったと感じたとき、世界は再びくっきりと浮かび上がった。隣にひしゃげた小箱が落ちている。娘の大好きなマスカットのレアチーズ。
「これじゃあ、食えねぇな」力なく笑うと、色が消えた。まだその機能を失ってはいない聴覚は、ひどい耳鳴りの間に、確かに聞こえる冷たいリズムを捉えていた。