第一話 帝都の平穏
東大陸の強国、崇ノ国。
帝都では、今日も穏やかな一日が始まろうとしていた。
ラッシュアワーの交差点で、慌ただしく交通整備を行う憲兵。午前八時を告げる時計台の鐘。冷たい冬の風。
そんな中、開店の準備を終えつつある、一つの小さな喫茶店があった。店員の少女が、扉の前にメニューの書かれた黒板を立て掛けている。
歳の頃は十六~十七くらい。整った顔立ちで、短くした黒髪がよく似合っている。鼻にかかった眼鏡は最近掛けはじめたものだ。小柄なので、店のエプロンが地面に触れそうだった。
「ユウさん。」
その背中に声がかかる。ユウと呼ばれた少女は、慣れ親しんだ声を聞き、花の咲いたような笑顔を浮かべて振り返った。
そこにいたのは、空軍飛行兵学校の制服に身を包んだ、一人の少年。穏やかな顔立ちで、軍服を模した制服が何となく似合わない。
「遠野さん!久しぶりですね!」
少年……遠野雄一は、ユウに懐かしげな表情をむける。
「休暇が出てさ。先週、選考試験が終わったところで。……実家に帰るついでに立ち寄ったんだ。」
だが、ユウは雄一の話などまるで聞いてないらしく、脱兎のごとく店内に駆け込んでいた。
「店長!遠野さんですよっ!……はいっ!帰ってきたんです!」
(相変わらず、元気だなあ。)
雄一は、何だか微笑ましい気持ちになった。
数分後。店内。
「それで、首尾はどうだった?」
気さくに聞いてくるのは、店長の根河清。朗らかなおじさんといった人柄で、子供によく懐かれる。最近は、増え始めた体重が悩みだ。
「戦闘機からは落ちまして。急降下爆撃機に乗ることに。」
「そりゃ残念だったな。去年は近衛戦闘機隊に入る、とか息巻いてなかったか?ま、頑張れや。急降下爆撃機といえば、前線の花形だろう。」
「そうですよ、あんまり落ち込まないでくださいね。遠野さんは、笑ってる時が一番なんですから。」
「ははは。……大丈夫ですよ、後悔はしてません。五年間頑張った結果ですから。」
雄一のような平民階級の人間が飛行士になるには、一つ簡単な方法がある。空軍飛行兵学校に入り、前期三年、後期二年を修了するのだ。前期は、地元の分校で座学。後期で、空軍の基地へ出向き、飛行訓練を行う。雄一が帝都を二年間留守にしたのも、そういう訳だった。最終選考試験で、戦闘機乗りか、他機種かが決まる。
「どうぞっ。いつものですよね。」
ユウが、雄一のテーブルにコーヒーを運んだ。アップルパイと並んで店の目玉である。
「こらっ、ユウちゃん。注文も採らずに。」
店員の土岐優香が、やんわりと注意した。
「いえいえ……。ユウには、遠野さんの心を読む、目が備わっているんですよ。」
エッヘン、と腰に手を当てるユウ。
「目?」
雄一が聞き返す。優香は溜息を吐いた。前にも、この話を聞かされた経験があるらしい。
「そうです。例えば月曜日。休日明けで憂鬱そうな遠野さんは、必ず……。」
「はいはい。兎に角、ここは一応お店なんだから、注文は必ず採る事。」
「酷いですっ!?」
「あー……。このコーヒー、何だか味が変わったような。豆か何か、変えたの?おいしくなってる。」
雄一は二人の間に割って入った。
ユウの表情が輝く。
「でしょう?どうですか遠野さん。淹れかたを工夫してみたのですが……。」
雄一は久しぶりに喫茶店「しらはね」のコーヒーを飲み、ホッとした。
(ここは、いつまでも変わらないでいてほしい。)
そんな思いが、頭をよぎる。
変わったといえば。
「ユウさん。見ない間に、少し身長伸びた?」
また、ユウの表情が輝いた。
「やっぱり!遠野さんなら気づいてもらえるとおもってましたよ!これでも……」
四人で会話を楽しんでいると、店に来客があった。
「おや、遠野君。しばらく見なかったね。」
初老の、痩せすぎている憲兵。雄一と同じく、店の常連だった。
「駒角さん。お久しぶりです。飛行学校に通っていたので。」
「ああ、そうだったな。時期からすると、来年には軍に?」
「ええ。これで夢が叶います。」
「念願の飛行機乗りか。確かに、今は飛行兵学校が一番速いよな。しかしまあ、帝都に帰れなくなるのは寂しいんじゃないか?」
「はい……。ですが、休暇には必ず帰りますよ。ここのコーヒーを飲みに。」
「それまで帝都を守るのは、私の役目だな。」
そう言うと駒角は笑う。
帝都の一日は、始まったばかり。
帝都に住む誰もが、戦争が起こるなど考えた事もなかった。平和が永遠に続くと思っていて、疑いもしていない。想像できなかった。これが薄氷の上の平和だと。
しかし中央海では、資源の宝庫であるシウアン島を巡り、ナチャーロ帝国と崇ノ国の対立が続いていたのだった。