第十話 港町の一角
オッヘンバッハとナチャーロの紛争は、早くも泥沼化の兆しを見せていた。「ゴリアテ」の長距離射撃で後方からズタボロにされた「クラーキン線」は、既に要塞としての機能を失っている。
その為ナチャーロは戦力の移動が難しくなり、森の近くに布陣したオッヘンバッハに対し、決定打を打てていない。
ナチャーロ帝国皇太子ヴィクトールがこんな場所に居るのは、その問題を解決する為であった。
ベゴットから汽車で二日、馬車だと五日かかる。彼にしてみれば辺境中の辺境。
港町ミランカ。港町といっても人口は一万人程度で、漁村と言い換えた方がしっくりくる。皇族が来るような場所ではないし、実際ヴィクトールは、町中に漂う生臭い臭いに顔をしかめていた。
南方にありがちな、質の悪い煉瓦造りの建物。道路は土を固めただけで、雨上がりでベチャベチャとしている。彼の雇った馬車は、その為泥だらけになっていた。
狭い街路は、頭上に干された洗濯物が陽光を遮り、薄暗い。道端では、漁師の籠から落ちた魚が腐り、悪臭を放つ。不衛生ここに極まれり。
(臭いの元はアレか……。)
ヴィクトールは、早くもベゴットが恋しくなる。
「まだ着かないのか?」
この町に来て三十分。馭者を叱り飛ばすのは、これで三度目だった。ちなみに彼は、身分を明かしていない。お忍びという訳である。
「へい。イワン・イワノフの家は、町のずっと西にあるんで。」
馭者は振り向かず、短く答えた。ヴィクトールは、臭いと彼の態度、両方に憤る。思えば馭者の態度は、目的地を明確に伝えてからおかしかった。ミランカに行くと言った時点では、快活で喧しい普通の馭者。しかし、どうせなら道案内も頼もうと思い、「イワン・イワノフ」の家まで、と道中で付け足したのである。……その名前を出した途端、彼の表情は凍結した。
それから、ヴィクトールに目を合わせようとしない。
「……だんな。本当に、「イワン・イワノフの家」へ行かれるんで?」
突然、馭者が問いかけた。
「何故聞く。」
「何故!そう言われるんですか?いや、分かりますよだんな。貴方、貴族様でしょう?平民の恰好をしてたって、あっしにゃ分かるんです。……それにしたって、物を知らな過ぎる!」
「どういうことだ?」
馭者の無礼を、頬をひくつかせながら見逃してやる。
「あいつは魔術師ですよ!あいつに目をつけられたら最期、魂を抜かれちまうんです!」
恐怖の色が濃い、馭者の声。
「知っている。だからこそだ。」
「……あっしは、忠告しましたからね。」
やがて、馬車は浜辺に近い「イワン・イワノフの家」にたどり着く。辺りは人どころか、動物さえ近寄らない。他の砂浜では多く見かける海猫も、影ひとつ存在しなかった。人工物は一つだけ、ポツンとたっている木造の平屋のみ。
馬車はヴィクトールを降ろすなり、逃げるように去って行った。
「臆病な奴だ。」
ヴィクトールは鼻を鳴らし、平屋に歩み寄る。
古代兵器は元々魔法使いが操縦し、戦闘に使っていた物。
その魔法使いが居ないというのに、どうしてナチャーロ軍はそれを大量に運用できるのか。
イワン・イワノフ。
この男が、古代兵器を動かす為の魔法を全て、肩代わりしているからである。
作戦ごとに古代兵器を戦場に移動させ、後は古代兵器の自由意思で戦闘させる、といった操縦の仕方。精度には欠けるが、一人で動かす分には仕方無い。
いずれにせよ、その魔力はパナスブラン王家に勝るとも劣らないレベルであった。しかも、それを家から一歩も動かず、指令書に目を通しただけで行うとか。
町の良からぬ噂を聞いた軍が雇い、戦争に協力させていた。誰も正体を掴めておらず、ただ命令には従う出自不明の軍属という、意味の分からない存在である。
ナチャーロ軍苦戦の一因は古代兵器の動作不良。おかげで思うように戦果が上がらず、代わりに味方の被害が拡大しつつある。
流石に無理をさせたか……と考えた軍令部が、面を拝む目的も兼ね、探りを入れさせたのだ。ヴィクトールは皇位継承権第九位にして、軍令部付の参謀だった。
「何を考えているのやら。どうであれ、仕事は熟して貰わんと困る。「例の巨人」の実戦投入が遅れるようでは、崇人との戦争に支障が出るのだ。」
ヴィクトールは平屋のドアを叩く。
暫く待つと、扉が嫌な音を立て僅かに開いた。立てつけが悪いのか、ぎこちない動きである。
「……ん?」
しかし、そこから覗くはずの顔が、一向に見えない。
(これも魔法か?)
そう疑ったヴィクトールだが、すぐに自分の考えに赤面する。そこに居たのは小さい子供。予想よりずっと低い頭の位置に、一瞬気付けなかったのだった。こちらを赤い瞳で、不安げに見上げている。銀髪を床に付く程伸ばしていて、顔も中性的だ。しかし、着ているものから男だと分かる。
「やあ、こんにちは。君のお父さんに来客だと伝えてくれないか。軍令部からだと。」
子好きのヴィクトールは、口調も親しげに語りかける。腰を屈めると、多少警戒を解いたようだった。
その子供は奥の方へ、パタパタと駆けて行った。
(それにしても。イワン・イワノフに子供が居るなぞ聞いていないが。)
ヴィクトールが首を傾げる。そうこうする内に子供が帰ってきて、再び扉が開く。
「……入って。」
「おう、ありがとう。」
扉が、ヴィクールと共に閉じる。
「……あれ、お客さんはどうしたんだい?」
少し後。平屋の居間に、不思議な声が響いた。声の主は一匹の黒猫。ソファーに座る先程の子供が、そちらに目を向けた。口元にはいびつな笑みが広がっている。指を噛み過ぎて流血し、その血が口元に付着していた。彼が感情を昂ぶらせる時の、癖である。
「さあ?帰ったみたいだ。」
その言葉には幼い響きなど微塵も感じられない。他に人がいれば不気味に思っただろう。
「そうか。その様子だと、何かいい話が聞けたみたいだね。良かったじゃないか。」
「内容までは聞かないの?」
「話したけりゃ、話せばいい。」
「嫌な奴だなぁ。」
少年はケタケタと笑い、猫の頭を撫でる。
「ローシ。僕は外に出る事にするよ。」
「へえ、珍しいね。どういう風の吹き回し?」
「おじさんが言うには、外では面白い事が起こりつつあるんだ。数か国を巻き込んでの戦争だってさ。本当にそうなれば、「例の巨人」の制作が捗るよ~。是非、見に行かないとね。」
戦争を「面白い事」と称した少年はソファーから跳び降り、玄関へと向かう。
「いつもの事だけど、随分と急だね。」
ローシと呼ばれた猫は、少年……イワン・イワノフに、そう文句をつけた。
翌日。ヴィクトールの亡骸と引き換えに、オッヘンバッハ軍は壊滅した。その日のある大手新聞社の朝刊には、「皇太子殿下、旅先で怪死」とある。




