後編「罰火」
不意に熱が頬を擽った。
宙をひらひらと舞う脆弱な火の粉が、俺の顔に染みついたのだ。
遅れて何かの焦げる悪臭、慌ただしい喧噪、そして――。
「起きてください、先生」
古い莢人の声が、俺の意識を覚醒させた。
「蒙火……?」
そこは自室のベッドの上では無く、
崩壊しかけた尖塔の屋上だった。
「蒙火、これは一体?」
俺の体は椅子に鉄紐で雁字搦めにされ、まったく動けない。
腹の歩肢も根元から紐で固定され、ただ無為に体の前で振う事しかできない。
「落ち着いてください先生、私は危害を加えるつもりはありませんから」
そう言って椅子の背もたれに手を載せ、そっと俺の耳にその口を近づけた。
「先生は黙ってみていてくれれば良い、この世界の魂の覚醒を」
彼の囁きで、俺はようやく気付く。
目の前、はるか前方で燃えゆく物の正体を。
何が焼け、何が崩れ、何が起きようとしているのかを。
工場だ。
鍾鎚の工場が燃えている。
黒い炎、嘗て地上を焼き尽くした、禍つ焔。
「あれは、あれはお前がやったのか」
言葉が震える。
意識が歪み、熱烈な感情の起こりが体を走る。
喧噪が大きくなる。
下層の莢人達の悲鳴が、炎への恐怖から、絶望の嗚咽へと塗り替わっていく。
「えぇ、綺麗な物でしょう。彼方では全てが燃えているのです」
醜い魂も、美しい魂も。
汚れた思想に犯された工場長も、愚かな計画の贄となった老莢人も。
――そして、自由を夢見た幼き男娼も。
「蒙火、お前がそんな命令は……」
「命令? はは、貴方がそんな事を言うとはね」
彼は笑っている。
こんな状況でも、こんな常軌を逸した事態の中でも、こんな災禍の中心だというのに。
彼は酷く楽しそうだった。
「君は、自分が何をしたのか判ってるのか」
工場が燃える。
この世界、分化による闘争が始まりつつあった莢人を、一つに纏め上げつつあった工場が。
この下層の救世主が、この世界の希望が。
「先生こそ、私の真意をご理解なされていますか?」
彼は到って冷静で。
動揺を隠せず激昂する俺を、嘲笑するかのようで。
「お前は滅茶苦茶だ、この世界を混沌に貶めて、それが楽しいのか!」
このままでは再び人の分化が始まる。
人の遺伝子の乱れは濃くなり、殺し合いが始まり、人類は駄目に為る。
「駄面な莢人というのは、此処下層の人々ではない。上層の人々を指してこそ相応しい」
彼は淡々と言葉を紡ぎ続ける。
煌々と輝く炎を全身にうけ、まるでそれを自身の力とするかのように。
「何を言ってる……」
「爭わず、愛し合わず、殺さず、憎まず、変化せず、そんな物は生き物ではない」
私はね、人の持つ魂が燃え盛るのをもっと見たいんだ。
たった一つの魂が、燃え上がるその瞬間。
その究極的な美を魅ていたい。
「蒙火、君は何を言っているんだッ!」
「分化を阻止する? 物理交雑を禁ずる? 争いを回避する? 駄目だ。駄目だそんなのは」
そんな事の先に何がある?
魂を押さえつけ、種全体を生きながらえる事ばかり見据えて。
抑制される必要なぞ何もない。
制御する意義なぞない。
たった一つの命だ、好きなように燃え、好きな様に輝き、好きな様に尽き果てる。
それがもっとも美しい。
それ以上に美しい魂が、存在しようか?
「君はバカか蒙火ッ、滅びるんだぞ。工場が消え、分化が進めば、全ての人が爭いによって死に絶えるんだぞ」
「それの何が悪いというんだ先生」
蒙火の声は一段と高く、強く、大きく、より意志の濃い物へと変貌して行く。
世界を燃やす黒い炎にも劣らぬような、激しい熱の籠った言葉。
人の心を焼き尽くさんとする、啓蒙の焔。
「何も悪くないのだよ先生。爭い爭え、混ざり混ざれ、愛し愛しあえ、憎み憎みあえ、殺し殺しあえ、それが人の真の有り様だ」
もしそれで、その結果滅びを迎えたというのなら。
――それは、とても美しい瞬間だと思わないか?
燃える世界を背景に
蒙火は瞳を輝かせ
世界の終わりを夢見ていた
一つの魂が盛り
その黒炎と照応を保つように
全ての魂がきらめきを放って
この世界を焼き尽くす事を夢見ていた
――嗚呼、なんと美しいのだろう