中編「穢水」
足元の水路では数万匹の針金蟲たちが蠢き、さながら白濁した水流の様であった。
直径三ミリ程の巨大類線形動物が、一斉に蠢き、体をくねらせ、思い思いの方向へと体躯を動かすその様子は、正しく「混沌」と形容するに相応しい。
「この針金蟲は肉食だから、気を付けるのだぞ」
連絡通路の先を行く彼が振り返って、私に注意を促す。
私は素直に通路の手すりを強く握り直す、すると右手に妙な痒傷が駆け抜けた。
見れば一匹の針金蟲が小指の先に喰らい着き、体内に潜りこもうとしていた。
私は慌ててむんずとその虫を掴み、引き千切るようにして体外へと捻りだす。
「おぅおぅ大丈夫か脊膜の、やはり貴様は引き返すべきだ」
流石の彼も歩みを止め、目を縦にして懸念の瞳を向けた。
脊膜の私は、駆蟲と違って硬質な表皮を持たない、それ故針金蟲に食いつかれやすい。
もっとも彼、「鍾鎚」の様に駆蟲の中でも殊更硬い皮膚を持ってしても、肛門や口腔に集われればひとたまりも無いのであるが。
「大丈夫ですよ、この程度は」
私はそう言って余裕の頬笑を浮かべて見せた。
しかし鍾鎚は納得できない様子で、不満げに口内の襞を震わせて泡を吐き出す。
「無理はするなよ、貴様を殺してしまっては『色鴉』に合わせる顔が無い」
色鴉とは、先生の今の偽名だ。
私はこれまた素直に応と頷き、再び彼の背を追うようにして連絡通路を歩き出す。
「で、何故貴様は色鴉と儂の間に交流があると?」
鍾鎚は伸びた眼球によって、背後を歩く私に注視している。
「上層部から人を匿うような力を持つ莢人は、それ程多くはないですから」
一先ず、黒い疣疽が大量に湧き出た彼の背甲に目を置きながら話す。
鍾鎚、クロベンケイガニの莢人だろうか。
「隠せるような力? 貴様が私の元へ来たという事は、結局は隠せていなかったのだろう?」
「まぁそういう事になりますね」
ふん、と不愉快気に彼は鼻を鳴らす。
そんな彼の応対に、意味も無く本意無い気持ちになった私は、再び視線を脚元に落とした。
針金蟲の流れ。
白く細い数万もの群体が、私達の足音に反応し、躍起真剣な様相で追いかけてくる。
音を発しない生き物と仄聞していたが、これほどの数が集まったせいか、不思議な事に蝙蝠の様なキーキーという音が微かに耳朶を擽る。
これ程の数の虫を飼うのに、一体どれだけ飼料を日々与えているのだろうか?
鍾鎚の話では、莢人の死体を好んで喰うとの事だが、十は二十では訊かないだろう。
「本当に、儂らを殺しにきた訳ではないんだな」
「……はい?」
私は反応が一拍遅れる。
「貴様らの秘匿技術を盗みだした儂を始末しに来たのか、そう聞いとるんだ」
「秘匿秘術? あぁ、妊睾の事ですか」
それは杞憂だ、くだらない杞憂だよ。と言い切りたくも思ったが、恐らく真剣に懸念し続けて来ただろう彼の苦難の日々を慮ると、当然そんな残酷な宣告なぞできるわけもなく。
「心配無用だよ鍾鎚、上層部はそれ程問題視していない」
一応気もち柔らかな言葉で、軽く事実を匂わせておく。
「其れはどういう事だ。いやそもそも、今上層部はどうなっておるのだ?」
何時もの物問だ。
空っぽで無価値な問い掛け。
僕は今ひとたび、放精直後の如き虚脱した心境の波に揉まれる。
「さぁね、君が行ってみればいいさ」
「嫌味か貴様」
「本心だよ、純然たる私の本心からでた言葉さ」
投げやりに言い放つ。
君が行ってみればよいのだ。
あの魂の死滅した世界に。
種の保存とかいう、下らん全体主義の為に一人の一つの魂が腐り落ちてしまった世界に。
腹が立つほど醜い上層の世界に。
「まぁよい。着いたぞ蒙火、ここがこの工場の中心だ」
鍾鎚の呼びかけに指差す方を見る。
そこは水路の果て、巨大な貯水湖だった。
なみなみと溜められて血痰色の液体、その波間を泳ぐ針金蟲。
さらに湖の中央に、巨大な鉄骨のケージで覆われた妊睾が――
「――老いた莢人を使ってるのか」
私は思わず感嘆の声を上げてしまう。
「そうだ、貴様らの物ほど質の良い睾がないのでね」
妊睾、それは上層部が開発した、新たなる次世代更新手段。
莢人の雄の睾丸を改造し、子宮に近い機能をもたせ、次世代の出産を行わせる。
この技術さえ完成すれば、例えこの地上から全生物の雌が滅びても莢人は生き残れる。
そんな思想のもと開発が進められていた技術だったのだが……
「先に断わっておくと、儂らとて『遺伝子の単一化』や『ヘテローシスによる遺伝子ジャンプ』あと『ホモ化による致死遺伝子の発現』そういった問題をクリアできてるわけじゃない」
彼の言葉を聞きながら、僕はその妊睾をジッと観察していた。
鉄鎖に結ばれ、湖の底に沈む老いた莢人達。
下半身には肥大化した六つもの睾丸がぶらさがり、その表面はまるで藤壺の様な疣にびっしりと覆い尽くされていう。
そしてその藤壺から無数の針金蟲が出入りを繰り返していた。
老人たちの表情は壊死し、まるで能面のように統一された苦悶の表情を浮かべている。
その睾丸、内部で莢人の幼生が幾匹も蠢き、膨大な数の回虫が這い広がる肉塊に、犯し尽くされたかのような、苦悶の表情。
「だが胎盤機能……つまるところ胎児への免疫支援や、代謝処理なんかは貴様らのよりも合理的だ」
調教した針金蟲を一人頭二千も当てているのだ、それはそれは健康な次世代を産んでくれる。
上機嫌に自身の開発した妊睾の性能を語る鍾鎚。
しかし彼の様相とは対照的に、私の脳内は完全にシラけていた。
思考は凍った金剛石の様に冷たく、饂飩な感情が鋭さを持って駆け廻る。
「だが鍾鎚、結局は貴方の妊睾も、遺伝子混濁は避けられないのだな」
結局は雌の遺伝子が手に入らないのだ。
雄の遺伝子の改造で作った物は、何故か直ぐに癌化する。
人の遺伝子発現機構は、人工遺伝子を受け付けない。
「その通りだ蒙火、確かに儂らの妊睾は『雌の遺伝子』が必要だ、それをあの老人たちの睾丸の子宮に打ち込んでやらねばいかん」
意外な事に鍾鎚は怯まなかった、それどころか「その質問を待っていた」と言わんばかりに嬉々とした口調で、より熱の籠った講釈を続ける。
「しかしそれは問題ではない。儂らは貴様らのように『遺伝子の保存』を目的としていない、『生存競争』の回避こそが、最大の目的なのだ」
儂らの目的は、莢人の分化の阻止だよ。
分化を阻止する。鍾鎚その言葉、それは私にとってあまりにも……
「つまりだ蒙火、あそこに沈む母莢人達の睾丸には、みな統一された雌の遺伝子が入っておる。ゆくゆくは下層の人々の『物理交雑』を禁じ、この工場の母莢人とのみ交雑を繰り返すことを絶対の規則とする」
そうなれば、次世代莢人全ての母遺伝子が統一化され、多用な遺伝子混濁による分化が止まる。
人類がまた一つの種に返る。
生存競争という最悪の結末を、回避する事が出来る。
「当然、遺伝子のホモ化を避けるために、儂らは定期的に母遺伝子の交換を行う、二世代起きにやれば致死遺伝子もそれほど発現せんじゃろう」
どうだ? 儂の工場は。
鍾鎚はそんな自信満々の言葉を、釈義の締めとした。
「……なるほど、確かに貴方は『救世主』かもしれない」
この下層を覆うはずだった、この下層から生まれるはずだった生存競争。
そんな戦火を未然に擯斥してみせた、稀代の英雄。
それは、それはあまりにも――
――あまりにも、醜い。
嗚呼、なんて醜いのだろう。
「工場見学はこんな物で良いかな? では、約束どおり『鷹の早乙女』に関してだが……」
「その前にもう一つ、よろしいですか?」
私は場を締めようとする彼の言葉を強引に堰く。
「なんだ? 約束と違うぞ、貴様はただ工場さえ見れればそれで良いと」
「すみません、しかし大した条件ではない。貴方なら造作も無くこなせるような些細な依頼です」
私は彼に有無を言わさず、そのまま論を強行させる。
「この工場に、鼈孔という名の莢人はいらっしゃいませんか?」
彼と少しだけ話をさせて頂きたく。
ひび割れたガラスの隙間から、室内に風が流れ込む。
硫黄に血瘡が混ざったような、鼻腔を痛める排ガスの気流。
鼈孔は天井から吊下がり、その微風にそよそよと、鉄風鈴の如く揺れていた。
「やぁオッサン、よく僕がここの莢人だと気づいたね」
両の手足がねじ切れ、自身の体重を支える手段を失った彼は、天井から伸びる襤褸布で体を縛り、どうにか私と視線を並べていた。
「勘だよ、当たって自分でも吃驚している」
そう格好はつけてみたが、確然たる勘ではない。
供碑、女は残っているのか? 妊睾。
一応はそういった物から些かの推理をした上での、勘だ。
「あっははは、そうかいそれは良かった」
彼の体は無残の一言に尽きた。
美しい橙の甲殻をまとっていた両の腕は、肘のあたりから万力で砕いたかのように千切れ、壊死白濁した神経が零れている。
両脚も同様に打ち砕かれ、血の様に赤いゲルで傷口を強引に塞がれている。
そして酒場の時と違い、服を着ていない。
あの時、妙に胴体が太めだったのは「着太り」かと思っていたが、それは心得違いだった。
腹が異様に肥大化している、まるで妊娠しているかのように。
臍を中心にして四角く切開されたような傷痕。
急激な肥大に耐えかねたのか、妊娠線に類似した亀裂が走っている。
それは先生の家の、「供碑」のそれと良く似ていた。
「何故私に『鍾鎚』と会う事を勧めた?」
「とぼけないでよ、わかってるんでしょ」
彼は唐突に声を荒げる。
それまでの老成した雰囲気を突如投げ捨て、まるで我儘な幼児の様に。
「君も、上の世界に行きたいのか……」
虚無の微風が、私の体腔に吹き荒む。
「上の世界には、まだ秩序があるんでしょ。そこに行ってもっと真面に生きたい」
改めて彼の体をジッと見る。
妊隷という存在を聞いた事がある。
妊睾を体内に埋め込まれ、アカエイの類から削ぎ取った人工性器と接着された、愛玩用の奴隷。
彼は「鍾鎚」の妊隷であり、あの酒場で在ったときは逃げ出していたのだろう。
手足をもぎ取られたのは、その罰か。
「お願いだ、僕も上層に連れて行ってくれ」
――幼子特有の白い柔肌、暴行の痕であろう全身に散らばる青い傷、細く硬い鼈甲蟲の四肢、砕け体液の零れる切断跡、無理矢理植えつけられたような二つの性器――
嗚呼、美しい。
私は純粋にそう思った。
「残念だけど、君を上の世界に連れていく事はできない」
彼の表情が悲哀に滲む。
複眼からは涙が零れ、口元が哀れな彎曲をする。
「連れて行ってよ、僕はもう、ここでは生きてけない」
「残酷な宣告になるのだろうが、上層部にもまた生は無い」
上には死しか無い。
「人」という種全体の命ばかりを重んじた上層部の人々は、世代交代という生命の原則を捨て、自らのクローンを複製し続けるという愚行に走った。
永遠と続く同じ系譜、同じ莢人、同じ世代、そして同じ世界。
彼らは変容を恐れ、停滞を望み、個の命の重みを軽んじた。
残ったのは留まり濁り腐った、一つの魂が崩壊した醜い世界。
魂は壊死し、全ての時が止まった世界。
「そんな世界でもいい、ここよりはマシだ。僕はただ、ただこの苦しみから解放されたいんだ」
彼は力の限り叫び、体を縛る撚糸を揺さぶった。
でも私はすっと手を伸ばし、彼の絹肌に触れてそれを制す。
弱り切った生命の発する、冷えた温もりが私の手に伝わった。
「君は美しい」
彼と視線を結ぶ。
怯え切った、生命の脈動する、莢人の魂。
「その魂を、私が救ってみせよう」
「おうおう、長かったな」
巨大な貯水湖の縁に立たずむ鍾鎚は、私の姿を視認するや否や、堪え切れずといった様子で声をだす。
「気が済んだか、しかし貴様ら上層部の人間はそろいもそろって――」
――いやぁ、なんでもない忘れてくれ。鍾鎚は野卑な笑みを浮かべながら口角から泡を漏らす。
でも私は、なにも答えない。
彼の言葉は、私の心には着到はしなかった。
「たっぷり楽しんだろ蒙火。じゃあそろそろ仕事の話をしようか、『鷹の早乙女』について」
「醜いとは思わないか」
今の私には彼の言葉を遮ったという自覚さえない。
「あ?」
「訊うているのだ、君は己の営みの醜さと、己の性合の醜さに気づいているか?」
私の言葉をちっとも理解できない鍾鎚は、その大鋏を翳し、警戒の所作を見せる。
「貴様ァ、何を言ってやがる!」
「生命の本質とは炎だ、煌々と燃えゆく一つの魂こそが生命の体現である。『種』などという茫漠とした集団は、ただの醜悪な舞台装置に過ぎない」
私は右腕に気を込めた。
被毛が逆立ち、皮膚が泡立つ。
細胞の一つ一つが振戦するのを感じる。
「気でも狂ったか蒙火!」
鍾鎚が駆け出す。
私目がけ、その万力の様な大鋏を掲げ。
「燃えろ、せめて最期は美しく」
私は指を一つ打ち鳴らした。
――漆黒の炎が鍾鎚の体から吹き上がる。
身をジリジリと焼き焦がす、滑着くような真っ黒な焔。
体のいたる所から燦爛と吹き上がり、彼の苦難の悲鳴が木霊す。
「蒙火ッ! 貴様ァッ!」
その黒火は床に壁に伝わっては鋼を燃やし、零れ落ちては水を燃やした。
触れた物全てを焦がし尽くす墨溜まりの火炎。
鍾鎚は悲鳴と共に貯水湖へと飛び込む。
だが、その火は弱まることなく、むしろ水を燃やし、より涅色濃く燃える。
彼をエサと勘違いした針金蟲たちが集り、その肛門や口腔より体内を食い破ろうとしたが、直ぐにその異変に気付いた。
黒火に乗り移られた蟲が、一斉に鍾鎚より逃げ出し、水路は瞬く間に火の海となった。
「焼き払え何もかもを、かくも卑陋なる概念さへも」
燃える、黒い焔がすべてを包み込んでゆく。
回虫の群れはキリキリと金切声をあげなら悶え苦しみ、睾宮を抱えた老人たちは悲哀塗れの断末魔と共に黄色い体液を噴出する。
湖のほとりにぷかりと浮かぶ鍾鎚は、もうぴくりとも動かない。
死が、汚穢に塗れた嚢肉の体から溢れ出た死が、空間を覆わんと叫び駆く。
私はその中で舞っていた。
そして憐れんだ。
醜き肉体に備わったが為に、死によって今生を離れることしか叶わなかった魂へと、哀憐の意を送った。
この悲鳴が、この黒炎が、この狂騒が、この私の舞が、この魂の奔流が。
せめてもの救いになれば。
――嗚呼、なんて美しいのだろう。
すべての魂が、一つへと還ってゆく。
私はあかあかと燃え続ける魔晄の合間で、ただひたすらその美に酔っていた。