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一つの魂  作者: 黒部雅美
1/3

前編「蔓病」


 明らかに「何かの精子」と思われる白い液体がなみなみと注がれた燗徳利が出てきたとき、流石の私も吐き気を覚えた。

 強い黄色味を帯びたその泡立つ液体は強烈な刺激臭を放ち、顔を向ける事さえ困難に感じる。

 

「まいったな、私もそれなりに覚悟を決めてたつもりだったのに」


 そんな愚痴を小さく零すと、私はフードをより深く被り、シュマグを引き上げ口元を隠す。

 この酒場の空気に溶け込むことを早々に諦め、せめて顔を見られぬようにとそんな浅知恵を私は働かす。

 だがそれは滑稽な悪足掻きだ、既に私は随分とこの場の注目を集めてしまっている。

 脂に濡れた黒い体毛を持つクロゴキブリの店主は、その細く節の多い触角を私へと向けているし。

 後ろの座卓に座るマダラコウラナメクジの男たちは、柄眼をこれでもかと伸ばして私を睨んでいる。

 ――ここは店を出るべきか?

 そんな考えが脳裏に浮かんだが、私は直ぐにそれを追い払う。

 逃げては駄目だ。

 私はこの世界になじむのだ。

 ここ「下層」こそが、私の居場所なのだ。

 自分に強くそう言い聞かせ、ひとまず「酒」と「つまみ」に意識を戻す。

 酒は諦めよう、流石に今の私にこれは無理だ。

 白い粘つく体液の入った燗徳利を遠ざける。

 僅かに中身が零れ、手のひらにボタリと張り付いたが、心を抑えて冷静に外套の端でそれを拭った。

「つまみ」こっちはまだなんとか処理できそうだ。

 恐らく蛭の稚児と思われる環状の生物が、黒い汚穢の臭いのする液体に浮かんでいる。

 意を決してその一つを指で掬い、口に運ぶ。

 あまり言葉で説明したくない類の悪臭が口内に満ち、さらにそれが鼻へと抜けていった。

 遅れて強烈な苦みと、謎の刺激が舌に広がり、私は壮絶な吐き気に襲われる。

 これは……これは無理だ……

 不味い、吐きそうだ。

 吐くのは駄目だ。

 もし吐こう物なら面倒な事態になる、店主はその発達した四本の腕で私を散々に殴りつけるだろう。

 が、しかしこれは……

「おっさん、無理するな。吐き出せ」

 若い男の声、そして私の背中を細い腕が撫でた。

 見ると、いつの間にか私の隣の席に若い男が座り、呆れと好奇の混じった瞳で私を視ていた。

「ほら、ここに吐き出しな」

 彼はそう言って、襤褸布の手巾を差し出してくれる。

 慌ててそれを受け取ると、そこに口の中の蟲を吐き出した。

 口内から追い出された稚蛭は、まるで私に喰われなかった事を惜しがる様に、激しく頭部を振り回して踊る。

 男はさっとその蛭を手に取ると、口に放り込んで一飲みにした。

 よく見れば男は随分と若い。

 蛭を嚥下する喉には瘤も無く、男と呼べるかどうかも疑わしい程に若かった。

「酒もつまみも僕に寄越しな、文句はないだろう?」

 彼はその若さに似つかわしくない、大人びた口調で私に言葉を投げかける。

「あぁ、構わないよ」

 これ幸いと私は即答した。

 すると今度は逆に年相応に無邪気な笑みを浮かべ、少年は意気揚々と酒とつまみを手繰り寄せた。

 






「おっさん、上層の人間か?」

 よほど腹が減っていたのか、三分も掛からずにつまみと酒を胃袋に収めた少年は、今度はその感興を私へと向ける。

「いいや、これでも下層の生まれだよ。蒸機区から来たんだ」

「下手な嘘だな、嗤える」

 彼は私の悪足掻きを軽くあしらうと、自身の右腕をずいと伸ばして見せつけた。

「せめて駆蟲の『莢人』になってから下層民を名乗るんだな、脊膜のおっさん」

 彼の右腕、いや右腕だけでなく、彼の四肢はどれも細く黒く硬くしなやかで、淡い橙色の滲んだ鼈甲の如き艶を持っていた。

 駆蟲、おそらくベッコウガガンボの「莢人」だろうか。

 異様に細い手足とは対照的に、何故か厚着の胴体は酷く着膨れしてるようで……

 その対照性が、より強烈な印象となって観る者の脳髄に刻まれる。

「『私も駆蟲だ、脊膜ではない』そう言ったら君は怒るかね?」

 私は真顔で尋ねた。

「当然だろう」

 彼の瞳の好奇の色が、あかあかと燃え上がる。

 私を上層の人間だと確信したのだろう。

 下層の人々は、いつもそんな瞳で私を視る。

 その度に私は酷く白けた気分になるのだ。

 彼らもまた本質を捉えていなという事実を、まざまざと見せつけられる。

「上は今、どうなっているんだ?」

 何時もの物問だ。

 空っぽで無価値な問い掛け。

「さぁね、君が行ってみればいいさ」

「勿体ぶるなよ、おっさん」

 周囲の莢人たちも、私と彼のやり取りに関心をを示している。

 先ほどの露骨で恣意的な視線と違う、ジッと潜むような野暮ったい看視。

 私はそれがたまらなく厭わしかった。

 先ほどの「稚蛭の糞煮込み」の方が遥かに衛生的と思える程に不快だった。

 ――教えてくれおっさん。

 ――「疽の原虫」はどうなったのか?

 ――特効薬はまだ完成しないのか?

 ――上層は下層をどう認識しているのか?

 ――遺伝子混濁の治療術はまだなのか?

「……ではこうしよう。君はこれから二つ私の質問に答えてくれ、そうすれば私は一つ君の問いに答えよう、どうかな?」

 際限のない怒涛の言葉にウンザリした私は、そんな提案をしてみた。

「それは良い、さぁさぁなんでも質問してくれ」

 彼はあっさりとその条件を呑むと、さも愉しそうに身を乗り出して私の質問を待つ。

 ――こいつは僥倖、なんとも都合の良い巡り合せをしたものだ。

「では一つ目。この下層で一番偉い莢人は誰だ?」

 背後のマダラコウラナメクジ達の失笑が耳に入る。

 かような事も知らないのかこの過人は、そんな蔑みの籠った嗤いだ。

「それは当然偉大なる『鍾鎚』様さ、二区の大工場を治めてらっしゃる」

 賤しい彼らとは対照的に、鼈甲模様の少年は実直に私の質問へ臨んでくれる。

「鍾鎚か。ふむ、よくよく憶えておこう」

 その名は上層に居た頃、一度ならず耳にした。

 たしか「妊睾」の大量鋳造を行っているの者だったか。

 妊睾の鋳造術は上層だけの秘匿情報であった筈だ……さてさて一体何処から掠め取ったのだろう?

「おっさん、一度鍾鎚様に挨拶しておくべきだと思うぞ」

「挨拶?」

「『ただ下層観光に来た脊膜』という訳でなは無いのだろう? 何をするにしても一言断っておくのが通りだ」

 あのお方はあれで中々強欲で在らせるか、彼は良く知った素振りでそう言い切った。

「なるほど、心遣い痛み入る。だが心配は無用だ、私に禍乱を招く心算はない」

「ふん、つくづく嘘が下手だな」

 小生意気な喜色を浮かべながら、穿った眼差しを私に向けた。

 おっさんの嘘は見抜ける、そういった驕慢な自信に取りつかれているようだが。

 残念ながら今の私は、真実ただの旅人に過ぎないのだ。

 まぁよいさ。

 そんな事はどうでもよい。

「では二つ目の質問、君の名を教えてくれないか?」

 私の発したその言葉に彼は目を見開き、その不遜な笑みを崩して、吃驚の表情を浮かべた。

 さぞ予想外だったのだろう、返答までにたっぷり五秒は待った。

「……名前? 僕の名前かい? 随分可笑しな質問をするもんだね」

「仮にも君は私の恩人だから。称呼を知りたいと思うのは、普通ではないか?」

 私は到って真面目な表情でそう論じる。

 すると少年は腹を抱え、呵呵とばかりに大声で笑った。

「面白いおっさんだ、案外本当に下層部の出身だったりしてな」

 そんな事を言って一頻り嗤い転げると。

「僕は『鼈孔』だ」

 そう名乗って手を差し伸べ、私に握手を求めた。

「私は『蒙火』」

 彼と握手をする。

 彼のその膚は駆蟲特有の硬い外骨格に覆われ、陶器の様な冷涼とした触感であった。

 私の毛と肉に覆われた膚とは違う、もっと堅牢で力強い物。

 嗚呼、羨ましい。

「では今度は僕が質問をしても?」

 繋いだ手をするりと解くと、彼は今日一番濃い関心の色彩を瞳に浮かべた。

「構わないぞ、約束だからな」

「じゃあ教えてくれ――」


 ――上層になら、まだ「女」は残っているのか?





















 ――種を問わずありとあらゆる動物に感染し、雌にのみ強い致死性を発揮する流行病。

「疽の原虫」と呼ばれたそれは、後にも先にも他に例の無いほどに珍妙な病魔であった。

 まるで「地上の全ての動物から、次世代更新の手段を奪い去る」という明確な意志の元に創造されたかのような、洗練された虐殺の病。

 

「疽の原虫」の発生から十年も経つ頃には、地上全体で動物の数は三割程にまでに減少し。

 こと人間にいたっては、全盛期の一割未満に人口は低下、もはや人類種の絶滅は避けては通れぬ未来と思われていた。

 


「莢人」それは人類最後の希望。

 絶滅の間際にまで追い込まれた人々は、その技術を用いて「まだ生き残る他の種」の雌と交接することによって、次世代を産み出す道を選んだ。

 こうして作られた子供たち、人外の血が大量に混じった、人と呼べるかも疑わしい彼らは「莢人」と名付けられた。

 それは多少の歪を含んではいたが、「人類」という存在の系譜を保つには十分な存在であった。

 

 莢人が誕生して五年、純粋な意味での「人類」は全て滅び、「獣」や「魚」や「蟲」と混ざり合った莢人だけが残った。

 だが彼らもまた滅びの運命を完全に退けたわけではない。

 依然として疽の原虫は蔓延しつづけ、ありとあらゆる雌の死亡率は高騰し続け。

 全ての動物が緩やかに、しかし着実に絶え果てようとしていた。

 何れ母体として用いる「まだ生き残る他の種」の雌が死に果てる事は自明の理であった。

 

 さらにもう一つ問題がある。

 莢人たちの間で、遺伝子のズレが生じ始めていた。

 本来莢人はその体内の「ヒト遺伝子の保存」が最重要目的であり、多種の雌と交接を重ね、世代交代を繰り返して行っても、決して「ヒト遺伝子」は他種の母体遺伝子に影響されること無きように、厳重に守られていたはずであった。

 だが、その守りは僅か三世代で破られた。

「遺伝子混濁」、ヒト遺伝子の変質。

 その混濁は、世代を重ねるごとに爆発的に加速し。

 五世代目が生まれる頃には、性器の形状が明らかに異なる莢人の数が過半数を超え「ヒト遺伝子」という統一規格の消失は明確な物となった。

 

 

 つまり莢人たちは「ヒト」という種から離れ、別の何かに進化してしまったのだ。

 それは「ヒトの分化」を意味する。

「ヒト」という大きな一種であったはずの莢人が、母体の遺伝子によって三つの種へと分化したのだ。


 「脊膜」

 「鱗咢」

 「駆蟲」

 

 当然莢人達は気づいていた。

 やがて訪れるだろう「生存競争」という生物の定めに。

 生き残りの座を駆けて、異種になった莢人同士が殺し合う世界が間もなく始まるという現実に。

 

 

 

 莢人もまた、ヒト同様に滅びようとしているのだ。

 

 

 

 

「――だから戦争が始まる前に、此処『下層』へ遊覧に来れたのは本当に喜ばしい限りです」

 私はそう言って、腐敗の進んだの死体を黙々と縫い続ける男の前に立った。

 彼はそんな私の方を視ようともせず、虚ろな様子で茫々と湧き立つ蛆虫を散らし、糸と鍵針を繰り続ける。

 その無視は完璧そのものであり、私は自身が空気になったような錯覚を覚えた。

「お久しぶりです先生。私です、『蒙火』です」

 フードを脱ぎ、シュマグを下し、素顔を見えるようにすると、私はその場に跪いた。

 だが、そこまでしてもなお、そのお方は一切の視線を向けようとはしなかった。

 ……妙だな。

 流石に違和感を感じた私は、ジッと先生の様子を伺った。

 ただ只管に莢人の死体の十二指腸に糸を通すばかりの、憫然たる廃棄芸術家。

 その指先は錆鉄の如く傷み。

 嘗ては煌びやかに腕部から延びていた一対の羽も、今や腐肉と膏に糊塗され、見る影も無い。

 冷然とした眼球が特徴的だったご尊顔は、両の眼を失ったのか、黒ずんだ縛帯で幾重にも巻包まれている。

 そして何よりも、姿形が大きく変造されている。

 ハシボソカラスの莢人だったはずの先生は、腹部から三対もの歩肢を生やし。

 両手の甲には蚯蚓腫れのようなイボと共に、一本の触角が伸びていた。

 しかしそれでも、そこまで変わり果てていても、私は彼が「先生」だと確信して疑わなかった。

「やつれましたね、まるで別人ですよ」

「……上層の奴等は、俺の事を忘れていなかったのか」

 何時までも揺らぐことのない私の視線に耐えかねたのか、先生はぽつりぽつりと言葉を溢し始めた。

「いいや廃忘してますよ、彼らは何もかも忘れる」

 そういう点は相変わらずだ、先生もご存じでしょう?

 相変わらず、彼の反応は鈍い。

「それで蒙火、お前は俺を殺しに来たのか?」

「殺す? 私が先生を? まさか」

 あぁ合点、それ故先ほど私を無視しようと。

「だったらどうして、今さら下層に?」

「『鷹の早乙女』の捜訪です、連絡は見ていないので――しょうね」

 もう二十年もアサインメントを放棄している先生が、上層からの定時連絡を確認している所以がなかった。

「そんな事の為に、わざわざ下層へ降りてきたのか、嘘をつくな」

 嘘をつくな、その言い方が先刻酒場で出会った少年と若干似通っており、私は思わずほくそ笑んでしまう。

「仰る通り『捜訪』は方便です。私の真の目的は先ほど申し上げた通り『遊覧』なので」

 今の私はただの一過人、旅人に過ぎません故。

 そこで初めて、先生は顔を上げ、私の存在に注意を向けるような素振りをした。

「蒙火、君は本当に……」

「八年前、先生は此処下層の素晴らしさを毎晩私に聞かせてくれた」

 貴方の語ったその寝物語に導かれ、今私は此処へ降り立った。

「此処は本当に良い所ですね、全て先生の仰っていた通りだ」


 ――上層と違って、人々の魂が活きている。


 と、そこで物音が鳴った。

 それはちょうど先生の座る椅子の後ろ、燻んだ真鍮製の折り戸から聞こえた。

「『供碑』か? もう大丈夫だ出てきて良いぞ」

 先生がそう声をかける。

 よくよく見れば僅かに開いた折り戸の隙間から、子供の姿が覗いていた。

 良く見えないが、手足が無い?

 それでいて腹部に奇妙な肥大が視られ、不整合な全身像となっている。

 或いは子供では無いのかもしれない、手足が無いが故に小さく見えているだけで……

「それで蒙火、お前は結局俺になんの用で?」

 先生の声で、私は意識を彼の元へと戻した。

「あぁ、或る人への紹介を頼みたく」

「紹介?」

「妊睾の工場を経営していらしい、『鍾鎚』という名の莢人とお会いできればと」



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