第四話: 冒険の始まり
夏休み六日目の朝。東の空が白み始める頃には、潤はもう越辺川の土手にいた。
昨日と同じ場所で待っていると、やがて富岡が「おはよー!」と声を弾ませながら自転車でやってきた。昨日ほどではないものの、二人のビクは朝の時間だけで数匹の魚で満たされた。
土手に腰を下ろし、母が持たせてくれたおにぎりを頬張る。
「なあ、富岡くん」潤が切り出した。
「この川、もっと上の方ってどうなってんのかな?行ってみない?」
その提案に、富岡の目が探検家のようにキラリと光った。
「面白そうじゃん!行ってみようぜ!」
二人は釣り道具をまとめ、川伝いに上流へと歩き始めた。
いつも釣りをしている場所は、川の流れを緩やかにするためにコンクリートで堰き止められ、小さなダムのようになっていた。そこから下流へは、白い飛沫を上げながら滝のように水が流れ落ちている。その堰の上流側は、流れがほとんどなく、水深もぐっと深くなっていた。川底の石は見えず、深い緑色をした水が静かにたたえられている。大人の釣り人が、胸まであるゴム製の長ズボン(ウェーダー)を履いて、水に浸かりながら竿を出している姿が見えた。
「うわ、あんな深くまで入ってんだ。すげえな」
「見てみろよ、伊藤くん!」
富岡が指さす先、岸辺近くのよどみに、黒く大きな魚影がゆらりと動いたのが見えた。軽く30センチは超えているだろう。鯉か、あるいはもっと別の、未知の大物かもしれない。二人はゴクリと息をのんだ。
川岸は、人の手が入っていない鬱蒼とした茂みになっていた。草いきれと湿った土の匂いが立ち込める中、かろうじて人が一人通れるくらいの幅の、獣道のような踏み跡が続いている。
「行くぞ」
潤が先頭に立ち、草をかき分けながら道なき道を進む。足元でガサガサッと音がするたびに、心臓がドキリとした。当時は、蛇なんて当たり前にいた。何度か茶色い縞模様の蛇と出くわし、そのたびに二人は木の枝を拾って応戦し、蛇が茂みの奥へ消えるのを待った。それは恐怖というより、冒険にはつきものの障害物といった感覚だった。
三十分ほど歩いただろうか。茂みを抜けた先で、富岡が「あっ」と声を上げた。
川岸から、二メートルほど川の中央に向かって、木で組まれた足場が突き出している。誰かが無許可で作った、手作りの釣台だ。年季が入って、すっかり周囲の景色に溶け込んでいる。まるで、二人のために用意された秘密の釣り場のようだった。
「すげえ…ここなら、さっきのデカいやつ、狙えるんじゃねえか?」
「絶対そうだよ!今度、絶対ここでやろうぜ!」
二人は顔を見合わせ、固く約束を交わした。
昼近くまで川の周辺を散策し、元の場所に戻る。冒険の興奮が冷めやらない潤は、勢いで富岡を誘った。
「なあ、今日の夕方、今度は高麗川行かないか?この間俺が見つけた場所、あっちもすげえ良いんだぜ!」
しかし、富岡は少し困ったように眉を下げた。
「行きてえけど…今日、親に夕方まで遊ぶって言ってないからなあ。一回家に帰って聞かないと。だから、明日の朝、ここで返事するんでもいい?」
その言葉に、潤はハッとした。
自分から誘っておきながら、自分も親に何も言っていなかった。あのまま富岡が「行こうぜ!」と言っていたら、きっと二人で出かけて、親に余計な心配をかけるところだった。富岡が当たり前のように「親に聞く」と言ってくれたことに、潤は少し気恥ずかしくなると同時に、彼の堅実さに感心した。
「そっか…そうだよな。ごめん、俺も何も考えてなかった」
「いいってことよ。じゃあ、また明日な!」
富岡はそう言って、手を振って帰っていった。
家に帰った潤は、今日の小さめの釣果を母に渡すと、少し緊張しながら切り出した。
「母さん。明日、富岡くんと夕方も釣りに行ってきてもいい?」
「まあ、お友達と?いいわよ。でも、暗くなる前には必ず帰ってくるのよ」
あっさりと許可が出たことに、潤はほっと胸をなでおろした。
富岡が言ってくれてよかった。
一人だったら気づかなかったかもしれない、大切なこと。
潤は、富岡への感謝と、友情がまた一つ深まったような温かい気持ちで、明日の朝を待つことにした。