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第三話: 初めての竿出し

 5日目、まだまだ夜の気配が残る、早朝五時。潤が目を覚ますと、すでに台所から物音がしていた。リビングに行くと、母が「おはよう。眠そうね」と笑いながら、ラップに包まれたおにぎりと、タッパーに入った卵焼きを差し出した。

「富岡くんの分も入れておいたから。二人で食べなさい」

「うん…ありがとう」

眠い目をこすりながらも、潤の心は弾んでいた。渡されたビニール袋はずっしりと重く、母の優しさが詰まっているようだった。


 ひんやりとした朝の空気の中、潤は自転車を走らせた。昨日と同じ越辺川の土手に着くと、富岡はもう先に来ていて、竿を片手に潤を待っていた。

「おはよ、伊藤くん!早いな!」

「富岡くんこそ!」

朝の挨拶を交わすだけで、何だかおかしくて、二人で笑い合った。


「さて、どこでやるか」

「あそこの段差の下、やっぱり気になるよな」

二人は昨日潤が目を付けていた、運河のようになっている場所へ向かった。まずは餌の確保からだ。

小さな石をゆっくり持ち上げる。裏返した石の裏には、昨日高麗川で見たのと同じように、たくさんの川虫がうごめいていた。

「うわ、いるいる!」「こっちもだ!」

夢中で餌を捕まえる。一人でする宝探しも楽しいが、二人ですると楽しさは何倍にもなった。


 餌箱が川虫でいっぱいになると、いよいよ竿を出す。それぞれが選んだポイントに、そっと仕掛けを流し込んだ。

朝靄がまだ川面にかかる中、二人は息を殺して竿先を見つめる。

最初に沈黙を破ったのは、潤の竿だった。

ククンッ、と竿先が小気味よく水中に引き込まれる。潤は逸る気持ちを抑え、ぐっと竿を立てた。

「きた!」

銀色の魚体が、朝日を浴びてキラリと光りながら水面を割った。15センチほどの、きれいなオイカワだ。

「すげえ!一投目じゃん!」

富岡が自分のことのように声を上げる。その直後、「俺もきた!」と富岡の竿が大きくしなった。


 それからは、まるでお祭りのようだった。仕掛けを入れれば、面白いように魚がかかる。釣れるたびに「やった!」「でかい!」と喜び合い、最初は賑やかだった二人も、次第に釣りに没頭し、口数が少なくなっていった。


 会話はない。でも、気まずさなんて微塵もなかった。

時折、視線が合うと、互いににやりと笑う。竿がしなる音、魚が跳ねる水音、そして隣で釣りをしている友達の気配。それだけで、十分すぎるほど満たされた時間だった。

それぞれがもっと良さそうな場所を探して少し移動したり、釣れた魚を見せ合ったりしながら、夢中で竿を振り続けた。


 二時間ほど経った頃だろうか。気づけば、それぞれのビク(魚籠)の中には、十数匹の川魚が入っていた。

「釣れたな。ちょっと休むか」

富岡の提案で、二人は土手の上に腰を下ろした。


 潤は母が作ってくれたおにぎりを富岡に渡した。

「これ、うちの母ちゃんが。富岡くんの分もって」

「え、マジで?おばさんによろしく言っといて!うまそう!」

富岡は大きな口でおにぎりを頬張り、潤も自分の分を食べ始めた。塩気の効いたおにぎりと、ほんのり甘い卵焼きが、空っぽの腹に染み渡る。


 景色を見ながらのご飯は、格別だった。

いつの間にか朝靄は消え、川の向こうの町がくっきりと見えている。遠くの道路を走る車の音が聞こえ始め、土手の上を自転車で通り過ぎていくワイシャツ姿の人がいた。世界が、ゆっくりと動き出している。


「この辺はさ、夏になるとカブトムシも採れるんだぜ」

「へえ、どこ?」

お互いの学校でのこと、好きなテレビ番組のこと、そしてもちろん、釣りのこと。ぽつりぽつりと交わす会話が、心地よかった。


 腹も満たされ、二人は釣りを再開した。しかし、陽が高くなるにつれて、あれほどあった魚の当たりはぱったりと止まってしまった。代わりに、河原には水遊びをする子供たちの姿が増え、賑やかな声が響き始める。

「…そろそろ終わりかな」

「だな」

二人は顔を見合わせ、頷いた。


 釣った魚をビクごと水につけて持ち帰り、途中まで二人で自転車を並べて走った。

「今日はマジでサンキューな。すげー楽しかった」

潤が言うと、富岡は「こっちこそ!またやろうぜ!」と笑った。

「明日も、どう?同じ時間で」

「もちろん!」

別れ道で、力強く手を振り合う。

明日も、またこの楽しい時間が待っている。


 帰り道、潤の自転車のペダルは驚くほど軽かった。左のハンドルにぶら下げたビクが、走るたびにカタン、カタンと音を立てる。その中には、今日一日の成果と、新しい友との楽しい記憶が詰まっていた。

一人で来た昨日までの道とは、見える景色がまるで違っていた。


「ただいまー!」

玄関の引き戸をがらりと開けると、昼前の日差しが土間に差し込んだ。

「おかえりなさい。早かったのね…って、まあ!」

奥から出てきた母は、潤が差し出したビクを覗き込むと、驚きに目を丸くした。

「こんなにたくさん!すごいじゃない!富岡くんと二人で釣ったの?」

「うん。入れ食いだったよ」

得意げに胸を張る潤の頭を、母は「そう、よかったわね」と優しく撫でた。魚の生臭さと、川の水、そして汗の匂いが混じった潤を、母はそのまま風呂場へと押しやった。

湯船に体を沈めると、「はあー」と思わず声が出た。早起きした体と、ずっと竿を握っていた腕の心地よい疲労が、湯の中にじんわりと溶けていくようだった。まぶたを閉じると、竿先が引き込まれる感触や、水面で跳ねる魚の銀色の輝き、そして隣で笑う富岡の顔が浮かんでくる。


 風呂から上がると、急激な眠気に襲われた。自分の部屋に戻り、畳の上に寝転がると、潤はそのまま深い眠りに落ちていった。夢も見ない、久しぶりの爆睡だった。


「潤、ごはんだよー」

母の声で目を覚ますと、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。部屋の中には、香ばしい油の匂いが立ち込めている。


 食卓には、こんがりとキツネ色に揚がった魚のフライが山盛りになっていた。

「わあ、すげえ!」

潤が席に着くと、父が「どれ、今日の成果をいただこうか」と箸を取った。

揚げたてのフライを一口食べると、サクッという軽い衣の歯触りの後、ほろりと崩れる白身の柔らかさと淡白な旨みが口いっぱいに広がった。ソースなんていらない。ほんの少しの塩だけで、川魚本来の味が引き立っている。


「うまい…」

潤が呟くと、父が満足そうに頷いた。

「自分で釣った魚は、格別だろう」

「うん。富岡くんていうんだけど、そいつもすげえ釣りが好きでさ。明日もまた一緒に行くんだ」

潤は、今日の出来事を夢中で父に話した。どんなポイントで釣れたか、富岡がどんな仕掛けを使っていたか、二人でどれだけ笑ったか。


 黙って聞いていた父は、潤の話が一段落すると、湯呑を置いて静かに言った。

「よかったな、潤。いい友達ができて」

その言葉は、釣りの成果を褒められるよりも、ずっと潤の心に響いた。


 この町に来てから、ずっと胸の内にあった寂しさや不安が、今日一日で遠くに流されていった気がした。自分で見つけた川。自分で作った友達。そして、自分で釣った魚を囲む家族の食卓。


 潤は、また一つフライに箸を伸ばしながら、明日も早いんだった、と嬉しそうに呟いた。


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