第二話 越辺川の出会い
高麗川での発見は、潤の心に小さな灯りをともした。夏休み四日目、潤は昨日とは逆の方向へ自転車を走らせていた。目指すは、父が言っていたもう一つの川、越辺川だ。北坂戸の駅の方へ向かう途中にある。
毛呂山高校を横目にペダルをこぐ。大類越えて県道突っ切って、田んぼ道抜けると鳩山手前の県道沿いを少し走ると広い河川敷を持つ大きな川に行き当たった。高麗川よりも川幅が広く、空が大きく見える。潤が自転車を止めたのは、川の流れの一部が人工的に整備されている場所だった。
護岸はコンクリートで固められ、川底には等間隔に段差が設けられている。まるで小さな運河のようだ。水がその段差を乗り越えるたびに、白く泡立ちながら低い音を立てていた。自然のままの姿だった高麗川とは、まったく違う景色だ。
今日も釣り道具はない。潤は自転車を土手に停めると、コンクリートの護岸をそろそろと下りていった。そして、水際にかがみ込み、じっと流れを見つめる。流れがよどむ場所には、小さな藻が引っかかり、その周りにはメダカのような小魚の群れがキラキラと体をひるがえしているのが見えた。段差の下の、水が巻いて深くなっている場所。ああいう所には、きっともっと大きな魚が身を潜めているはずだ。
「こっちはこっちで、面白そうだな」
潤は独り言を呟きながら、川沿いを歩き始めた。面白そうな岩場はないか、魚が隠れそうなの隙間はないか。二時間ほど、夢中で川を観察し、頭の中に自分だけの釣りマップを描いていく。退屈だったはずの時間が、今は宝探しのように輝いていた。
「あれ…伊藤くん?」
不意に後ろから声をかけられ、潤は驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、同じクラスの富岡だった。あまり話したことはない。でも、転校してきたばかりの潤に、「わかんないことあったら何でも聞けよ」と最初に笑顔で話しかけてくれたのが彼だった。その優しさを、潤はよく覚えていた。
「富岡くん…」
「やっぱり伊藤くんだ。こんなとこで何やってんの?」
富岡は、人懐っこい笑顔で尋ねてきた。
潤は少し照れながら、正直に答えた。
「いや、まだこっちの土地がよく分かんないからさ。色んな所を見て回ってるんだ。川を眺めたり、生き物探したり。あと、釣りも好きだから、釣れそうなポイント探したりして」
その言葉に、富岡の目がぱっと輝いた。
「へえ、伊藤くんも釣り好きなんだ!マジで!?俺もすげー好きだよ!」
「ほんと!?」
思わぬ共通点に、潤の声も弾む。
「俺、いつもこの辺でやってるぜ。あそこの橋の下とか、結構釣れるんだ」
そう言って富岡が指さした先には、古い橋の橋脚が影を落としていた。
堰を切ったように、二人の間で釣りの話が始まった。今まで釣った大物の話。話せば話すほど、富岡も自分と同じくらい釣りが好きなのだとわかった。
「よかったらさ」と、富岡が切り出した。「明日、一緒に釣りしない?俺、いい場所知ってるぜ」
その誘いは、潤にとって予想外の、そして最高に嬉しい言葉だった。
「え、いいの?」
「もちろん!朝早い方がいいけど、来れる?」
潤は、力強く何度も頷いた。時間と待ち合わせ場所を決め、手を振って別れる。富岡の背中が見えなくなるまで見送った後、潤は空に向かって「よっしゃ!」と小さく叫んだ。
初めてできた、この町の友達。
高揚した気分のまま、潤は自転車を飛ばして家に帰った。
風呂で汗を流し、少し冷たいくらいが心地よい麦茶を飲み干す。夕食の席に着くと、潤は待ちきれないといった様子で口を開いた。
「父さん、母さん。明日、友達と釣りに行くことになった」
少しはにかみながらの報告に、母は「まあ、よかったじゃない!」と顔をほころばせ、父も「そうか。富岡くん、っていうのか。よかったな、潤」と、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
食卓を囲む両親の笑顔が、いつもより温かく感じられた。潤は、昨日父が話してくれた言葉を思い出していた。この町を選んだ理由。その意味が、今日、はっきりと形になった気がした。
窓の外はすっかり暗くなっていた。潤は、明日の朝が来るのが、心の底から楽しみだった。この町での新しい物語が、ようやく本当に、動き出す予感がした。