第一話 ささやかな宝探し
夏休みに入って、三日目。
昭和五十六年の夏は、まるで溶けたアスファルトのように、じっとりと肌にまとわりついてきた。伊藤 潤は、玄関に置いたままの自転車にまたがると、目的もないままペダルをこぎ出した。
家が建ち並ぶ小道を抜け、畑の脇のあぜ道を通る。青々とした稲が風にそよぎ、土と草の匂いがむわりと立ちのぼった。川角駅の小さな駅舎を横目に通り過ぎる。電車を待つ人もまばらな、のんきな昼下がりだった。そこからさらに自転車を走らせると、やがて視界が開け、きらきらと光る川面が見えてきた。
高麗川だった。
河原横に自転車を止めた。目の前に広がる川は、新座の汚れた柳瀬川とは全く違う顔をしていた。川岸には緑が鬱蒼と茂り、流れは穏やかで、太陽の光を浴びて銀色に輝いていた。
今日は釣り道具を持ってきていない。ただ何となく、川が見たかった。
新座にいた頃、父に連れられて何度か釣りに行ったことがある。所沢までバスに乗り、そこから西武池袋線に揺られて西吾野まで。駅から川伝いに上流へと歩きながら、父が「ここだ」と見定めた場所で竿を出す。川の流れの読み方、魚が潜んでいそうな岩陰の見つけ方、そして餌となる川虫の捕まえ方。父は一つ一つ丁寧に教えてくれた。
それ以来、釣りは潤にとって、一人でも没頭できる大切な趣味になっていた。
水際に近づくとひんやりとした空気が漂っていた。流れが緩やかな、水深がくるぶしくらいになる場所を見つけると、潤はそこにしゃがみ込んだ。
釣り好きならわかる、宝探しの時間だ。
こぶし大の平たい石を選んで、そっと裏返した。石の裏側には、黒い影がうごめいていた。ヒラタカゲロウの幼虫だ。平たい体に三本の尾を持つ、きれいな水にしか住めない虫。その隣には、少しごつごつとした鎧のような体を持つカワゲラの幼虫もいた。
「…いるじゃん」
思わず声が漏れた。潤は次々と手頃な石をめくっていく。どの石の裏にも、大小さまざまな川虫たちが張り付いている。動きは素早く、潤の指から逃れようと体をくねらせた。その生命の感触が、指先からじかに伝わってくる。
川虫は、川からの便りだ。
こいつらが大きく、そして沢山いるということは、それを食べる小魚がいて、さらにその小魚を食べる大きな魚がいる証拠。何より、この川の水が生きているという証拠だった。潤は、新座の友達に自慢してやりたいような、それでいて誰にも教えたくないような、不思議な高揚感を覚えていた。
どれくらいそうしていただろうか。ふと顔を上げると、西の空がオレンジ色に染まり始めていた。カナカナカナ…と、昼間の蝉とは違う、ヒグラシの涼しげな鳴き声が辺りを包み込む。水面近くを、黒い影がすいすいと不規則に飛び交っている。コウモリだ。
一人でいるのは、嫌いじゃない。夕暮れの河原は、この世界に潤と、川の音と、虫の声、そして時折飛んでいくコウモリだけしかいないような、静寂に満ちていた。それは何とも寂しげで、それでいて、不思議と休ませてくれる空間だった。
日が落ちきる前に、自転車で家路についた。
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃない」
玄関を開けると、台所から母の声と、醤油の焦げる香ばしい匂いがした。
食卓には、母が作った鶏のチューリップが並んでいた。テレビからは、ヒット曲を紹介する番組が流れている。潤は黙々と箸を進めた。
「今日、高麗川に行ってきたんだ」
夕食の後、風呂から上がってきた父に、潤はぽつりと話しかけた。
「ほう。どうだった?」
「うん。川虫、いっぱいいたよ。でかいのが。魚、絶対いるよ、あそこ」
目を輝かせて話す潤を見て、父は少し驚いたように、そして嬉しそうに目を細めた。
「そうか、よかったな」
父は湯呑を置くと、少し真面目な顔で言った。
「潤。父さんがこの家を選んだ理由の一つはな、きれいな川が近くにあるからなんだ。この毛呂山って町は、西に高麗川、東に越辺川っていう、いい川が二つも流れてる。お前がいつでも釣りに行けるようにな」
潤は、父の顔をまじまじと見た。大人たちの都合で、一方的に連れてこられたとばかり思っていた。自分のために、という響きが、すとんと胸の奥に落ちた。
「…そう、なんだ」
と言った矢先に、母が
「お父さんが一番行きたかったからよ」
と洗い物しながら言い放った。
父の言葉に納得しようとしたのに。
ちょっとがっかりした。
それでも、心は清々しかった。少しここも悪くないと思い始めていた。
それでも新座の友の顔が消えることはなかった。あの河原で見つけた宝物を、一番に話したいのは、ここにいないあいつらなのだ。
窓の外の暗闇を見つめながら、そんな事を考えていた。