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プロローグ

この物語は十二歳で出会い三十一歳の若さで亡くなった友との青春の思い出を交えた物語です。

 昭和57年(1982年)8月埼玉。伊藤 じゅん、13歳。一年前、潤は慣れ親しんだ新座の町を離れ、ここ毛呂山にやって来た。理由は、家を買ったから。大人たちの都合で、潤の世界はがらりと変わってしまった。


 蝉の声が、アスファルトに染み込んでいくような暑い午後だった。潤は、真新しい家の玄関先に座り込み、ただぼんやりと目の前の道を見ていた。道端の草いきれと、遠くで豚の鳴く声が、この町ののどかな、そして潤にとっては退屈な時間を象徴しているようだった。


 一年前まで住んでいた新座は、もっと騒がしかった。駅前にはデパートがあって、友達と寄り道するゲームセンターもあった。自転車を飛ばせば、大きな公園やスポーツセンターがあって、いつも誰かの声がしていた。それが、潤にとっての「当たり前」だった。


 ここ毛呂山は違う。西には山が連なり、東には田んぼが広がる。家の周りは、まだ新しい住宅がぽつりぽつりと建ち始めたばかりの造成地で、夜になると蛙の合唱が響き渡る。東武越生線が通っているが、新座の駅のようにひっきりなしに人が行き交うことはない。


「潤、またそんなところに座って。宿題は終わったの?」


 家の中から、母の声が飛んでくる。潤は返事の代わりに、わざと大きなため息をついた。新しい中学校にも、まだ本当の意味では慣れていない。転校生というレッテルは、思った以上に厄介なものだった。話しかけてくれるクラスメイトはいるものの、彼らの会話の中に出てくる地元の店や遊び場、そして幼い頃からの共通の思い出に、潤は入っていくことができない。


休み時間に、クラスの男子たちが夢中になっているのは、任天堂の「ゲーム&ウオッチ」の話題だ。「『パラシュート』で最高何点取ったか」、そんな話で盛り上がっている。潤も新座の家では、友達と集まっては夢中でボタンを叩いていた。しかし、ここではその輪にうまく入れない。彼らの自慢げな声が、潤をますます孤独にさせた。


「新座のあいつらは今頃、何してっかな…」


 潤の頭に浮かぶのは、新座の友達の顔だった。一緒にくだらない話で笑い、時には本気で喧嘩もした仲間たち。家を買うという話が出た時、潤は必死で抵抗した。転校なんて絶対にしたくないと。しかし、大人の事情は、12歳の少年の声よりもずっと大きかった。


「新しい家は広いし、お庭もできるのよ」


 母はそう言って潤をなだめたが、潤が欲しかったのは、広さや庭ではなかった。失ったものの方が、あまりにも大きく感じられた。


 ある日の放課後、潤はあてもなく自転車を走らせてみた。町の中心部に向かうと、いくつかの商店が軒を連ねている。その中に、「一品香」という古びた中華食堂があった。 ガラス戸越しに見える店内は、昭和の時代から時間が止まっているかのようだ。潤は、新座の駅前にあったファストフード店を思い出し、また胸がちりりと痛んだ。


 自転車をさらに走らせると、町役場の近くで「総合公園プール」という看板を見つけた。二年前にできたばかりの比較的新しい施設らしい。中からは、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。潤は、その声の輪に加わることなく、プールの入り口をただ見つめていた。


 家に帰ると、テレビではアニメ映画「機動戦士ガンダム」が放送されていた。この春に公開されて、新座の友達と「絶対に観に行こうな」と約束していた映画だ。結局、引っ越しで行けずじまいだった。主人公のアムロ・レイが、望まぬ戦いに巻き込まれ、故郷を失う姿に、潤は自分を重ねていた。


 夕食の時、珍しく父が口を開いた。

「潤、今度の休み、家の裏の畑、少し耕してみないか。野菜でも作ってみようと思ってな」

潤は、箸を止めた。土いじりなど、今まで考えたこともなかった。

「…別に…」

そうぶっきらぼうに答えるのが精一杯だった。

 その夜、潤は自分の部屋で、新座の友達からもらった手紙を読み返していた。そこには、夏休みの予定や、流行っている松田聖子の髪型の話、そして「潤もいればなあ」という一言が書かれていた。その一言が、潤の心の奥を強く締め付けた。


 ふと、窓の外に目をやると、遠くの山の稜線が、夕焼けに黒く縁取られていた。見慣れない、でもどこか雄大な景色だった。


 その週末、潤は父に言われるがまま、家の裏の小さな畑に出た。ぎこちない手つきで鍬を握り、硬い土を掘り返していく。汗が噴き出し、腕はすぐに痛くなった。しかし、潤は無心で土を耕し続けた。

「休憩したらどうだ」

父が麦茶の入ったやかんを持ってきてくれた。潤は、畑の脇に腰を下ろし、ごくごくと麦茶を飲んだ。土の匂いと、草の匂い。新座では感じたことのない、濃密な自然の香りがした。

「ここも、昔は山だったんだぞ」

父が、ぽつりと言った。

「お前が大きくなる頃には、また景色も変わってるんだろうな」

潤は、父の言葉に何も答えなかった。でも、さっきまでのどうしようもない閉塞感とは、少し違う気持ちが胸の中に生まれているのを感じていた。


 失ったものばかりを数えて、うつむいていた自分。しかし、目の前には、まだ何も描かれていない、まっさらな土が広がっている。ここで、何かが始まるのかもしれない。そんな予感が、夏の終わりの強い日差しの中で、潤の心にかすかな光を投げかけていた。


物語は、まだ始まったばかりだった。

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