08:メジャーデビュー
「いらっしゃいませー」
開店と同時に入った、地元のCDショップ。
優花は、まっすぐに新発売のCDが並ぶコーナーに向かった。
今日は、1998年8月5日水曜日。
Blue Roseのメジャーデビューの日だ。
ホワイト企業には、夏季休暇というものが存在する。
優花の会社は、夏の間に好きなタイミングで五日間の休暇が取れることになっていた。
その夏季休暇を取得して、朝からCDを買いに来たのだ。
最近発売されたCDがいくつも並ぶなか、青薔薇のCDはすぐに見つかった。
店員さん手作りの大きなPOPがあったからだ。
でかでかと書かれた、『Blue Rose メジャーデビューシングル』という文字。
切り抜いたメンバーの写真もあり、かなり目立っている。
POPの下には、ズラーッと並んだCD。
ジャケットのメンバーは、みんな一輪の青い薔薇を持っている。
瞳を輝かせながら、優花はPOPを読んだ。
――ブルロじゃなくて、ちゃんと青薔薇って書いてある! 店員さん、わかってる!
青薔薇について熱く書かれているPOPを読み、優花の顔には笑みが浮かぶ。
彼女は店に入った時よりも明らかにご機嫌な様子で、CDを持ってレジへ向かった。
「お預かりします。……あっ、こちら特典でポスターが付きますけどお持ちになりますか?」
「はい! お願いします!」
家に帰った優花は、まっすぐにCDラジカセの前に向かった。
CDを包んでいる透明なビニールを慎重に剥がして、ケースを開く。
久しぶりに見た、8㎝シングル。
懐かしい縦長の紙のケースを開くと、中に入っているのはおもちゃのような小さなCDだ。
思わず「小っさい」と言ってしまうほどの大きさのCDは、黒い背景に六つの青い薔薇が描かれている。
この六つの薔薇とそれを繋いでいる線は全て繋がっていて、一筆書きである。
一本の青い糸で描いた、というイメージらしい。
そして、この六つの薔薇は、メンバー五人とファンを表しているのだそうだ。
メンバーとファンの絆や運命が、一本の青い糸で繋がっている。
そんな想いが、このデザインには込められているのだと、雑誌のインタビューでメンバーが語っていた。
優花は愛しそうに薔薇を軽く撫でると、ケースからCDを取り出した。
それをCDラジカセに入れて、再生ボタンを押す。
すぐにCDが勢いよく回り始めたのが、ラジカセの窓から見えた。
「♪〜〜〜」
楽器隊の熱い演奏から始まる、『青い糸』。
神聖な気持ちで、一音、一音、耳を澄ませて聴く。
あっという間に一曲目は終わり、カップリングの『氷のマリオネット』が始まった。
疾走感のある『青い糸』とはうって変わり、『氷のマリオネット』はしっとりとしたバラードだ。
そして、『青い糸』『氷のマリオネット』のカラオケと続く。
最後の一音が鳴り終わり……動きを止めるCD。
音が消えた瞬間……優花は無意識に拍手をしていた。
その瞳には涙が浮かんでいる。
前回の人生でもデビュー当日にCDを買って、こうしてラジカセの前に座ってドキドキしながら聴いたことを覚えている。
あれから、何百回、もしかしたら千回を超えるほど、沢山聴いてきた曲なのに、「デビュー」という魔法でもあるのだろうか……。
信じられないほど神聖な初再生に、心が震えた。
ずっと、「初めて」とは特別なものだと思っていた。
初めて聴く音楽。
初めての体験。
初めての土地。
初めて食べたもの。
そこには、特別な衝撃や感動があった。
でも、二度目どころか千度目かもしれないのに、前回の人生の初再生を越える衝撃と感動を感じた。
きっと、優花の青薔薇への愛が前回よりも遥かに深いからだろう。
優花は衝動のままに、二度目の再生ボタンを押して、三回目の再生ボタンを押して……面倒になってリピートボタンを押した。
♪ ♪ ♪
ピピピ……
タイマーが「0」になり、優花を呼ぶ音がキッチンに鳴り響いた。
お気に入りのチェック模様のミトンをつけて、オーブンを開ける。
「あー、いい感じに膨らんでる」
開け放たれたオーブンから甘い香りがこぼれ出し、部屋中に広がっていく。
5号サイズの小さな型のスポンジは、見るからにふわふわで熱々の湯気をあげている。
現在、優花はケーキ作りの真っ最中である。
パティシエにはならなかったものの、せっかくケーキが作れるのだ。
今夜はお手製のケーキで、青薔薇のメジャーデビューを祝うしかないだろう。
「うん。焼き具合もいい感じ! さてと、次は……」
スポンジに串を刺して焼き具合を確かめてから、優花は鼻歌を歌いながら飾り作りに取りかかった。
温度に注意しながらボールを慎重に混ぜていき、出来上がった目の覚めるような青い色のチョコレート。
そこから優花は渾身の集中力を発揮して、丁寧に薔薇を作っていった。
「完璧! マジパンと迷ったけど、やっぱりチョコにして正解!」
花びらの一枚一枚にまでこだわり抜いたその薔薇は、完璧な仕上がりだ。
冷ましたスポンジを切って、カシスのジャムを塗り、ビターチョコでコーティング。
ケーキの中央には、チョコで作った六つの青い薔薇。
銀色のアラザンを散りばめて、メッセージを書いたプレートを置けば完成だ。
完璧な仕上がりに、優花は嬉しそうな笑みを浮かべた。
これまで作ってきたケーキの中で、間違いなく最も美しいケーキだ。
ケーキが出来上がると、優花は財布を持って街に繰り出した。
優花の家は、お祝いの時にチキンを食べるのが定番だ。
子供の頃から、誕生日、クリスマス、七五三、ひな祭り、受験に合格した日……ありとあらゆる祝いごとで、チキンを食べ続けて育った。
本日もお祝いである。今夜の我が家のメニューに、チキン以外の選択肢は無い。
「ただいまー」
「姉ちゃん、おかえりー、チキン買ってきたの?」
「うん。今日はお祝いだからね……」
少しあきれ顔の優樹にチキンを渡すと、優花はキッチンに立った。
冷蔵庫からお手製のコールスローや飲み物を取り出して、テーブルに並べていく。
「ただいまー」
玄関からドアが開く音が聞こえて、母が帰ってきた。
テーブルの上に置かれたチキンを見て、母は笑顔をみせる。
三人は定位置に座り、声を合わせた。
「「「いただきます」」」
みんなが食事を終えると、優花は真っ先に立ち上がりテーブルの上を綺麗に片付けた。
食後はTVを見たり、家族との会話を楽しんだりして、まったり過ごすことの多い彼女にしては珍しいほどの俊敏な動きだ。
冷蔵庫からケーキを取り出して、慎重に運ぶ。
その表情は、笑顔満開の子供のようである。
ケーキに長いロウソクを一本立てて、火をつけた。
それを何枚も写真に撮ってから、優花は口を開く。
「優樹、電気消してー」
「はいよー」
いつもは面倒くさがりの弟も、優花があまりに楽しそうなので何も言わずに立ち上がる。
弟が電気を消すなり、ロウソクのオレンジ色のぼんやりした光が部屋に広がった。
優花は手のひらを胸の前で組み……
「メジャーデビューおめでとう」
……祝いの言葉と同時に、大きく息を吐いて炎を吹き消した。
部屋には優花の大きな拍手につられて、なんとなく手を叩いてくれた母の拍手が響いた。
電気をつけた優樹は、あきれ顔を浮かべている。
「青い薔薇? 珍しいけど綺麗ね」
「うん。私の好きなバンドが今日CDデビューしたの」
「ああ、なんか言ってたわね。自分で作ったの?」
「うん。この薔薇はチョコレートなんだよ」
「薔薇も食べられるの? すごいわね……」
「早く食おうぜ!」
優花はケーキに乗った薔薇のチョコレートを食べながら、考えていた。
──バンドを結成した当初は実現不可能と言われていた青い薔薇も、青薔薇の解散後には花屋に並ぶんだよな……。
Blue Rose
バンド名は不可能の代名詞でもある、青い薔薇から名付けられたものだ。
「永遠に成し得ない花」
そんな花のように咲き誇りたいという思いを込めて結成した、東京都出身の五人組のバンド。
ボーカル:璃桜
ギター:一檎
ギター:太陽
ベース:紫苑
ドラム:牡丹
彼らはこの日、メジャーの世界へ旅立った。
デビュー曲を携えての全国ツアー中の彼らだが、メジャーデビューの大切なこの日は、移動日でライブは無かった。
クリスマス、バレンタイン、デビュー記念日など。
大切な日は、だいたいライブ会場でファンと過ごしてくれていた青薔薇。
彼らにしては珍しいなと思ってはいたが……過去に戻ったせいで気がついてしまった。
──どーせ、今ごろ、嫁と乾杯とかしちゃってるんだろ。
優花の頭の中では、璃桜様と美人妻Aさんが、シャンパングラスを持って乾杯する映像が再生された。
さっきまでの幸福感が嘘のように、胸の奥に鈍痛を感じた優花。
それを振り払うかのように、少し乱暴な仕草でケーキにフォークを差して……口に突っ込んだ。
甘いはずのチョコレートがやけに苦かったのは、気のせいだろう。