25:1回目③
翌日。
ホテルを出た優花と楓は、ゆっくり歩いて武道館へ行った。
看板も外されて、昨日の跡形がなんにもない。
そんな武道館を見て、本当に終わったんだなと感じる。
二人は無言のまま、しばらく武道館を見つめていた。
♪ ♪ ♪
それから、優花は普通の日常に戻っていった。
食欲がない日が何日か続いたが、一週間後には普通にご飯も食べるようになった。
バイトにも行き、普通に喋って、普通に笑う。
武道館のライブの前と後で、彼女が一つだけ変わったのは、音楽を全く聴かなくなったことだ。
毎日、青薔薇の曲ばかり流していたCDラジカセは、あのライブの後から置物のように動かない。
ふらっと入ったコンビニで青薔薇の曲がかかると、優花は逃げるようにコンビニを出るようになった。
表面上、優花は日常生活をきちんと送り、元気に見えた。
しかし、あの日から……ずっと。彼女の世界の酸素濃度は、低いままだった。
肺いっぱいに空気を吸い込んでも、どこか苦しい。
その苦しさが、わずらわしい。
それから解放されたくて、思いつく限りの楽しいと言われることをしてみた。
遊園地。映画館。花火大会。祭り。海。
飲み会。お洒落なカフェでの女子会。
休みのたびに、どこかに出かける。
ツアーを回っていた時と変わらないくらい、忙しい夏だった。
それでも、青薔薇のライブに行った時のように、幸福で全身が満たされるようなことは一度もなかった。
どんなに笑ってみても、どんなにはしゃいでみても。
優花の中にある息苦しさは、消えないままだった。
そして、あっという間に夏が終わった。
秋になり、金木犀の香りがすると。
璃桜様がこの香りを好きだと言っていたことを思い出した。
冬になり、吐く息が白くなると。
寒い中、薄着で二の腕をさすりながら歩いた、会場までの道を思い出した。
春になり、桜が咲くと。
メンバーがしていた花見の話を思い出した。
夏になり、蝉が鳴くと。
全国を駆け巡った、夏ツアーの日々を思い出した。
晴れた青空を見れば。
楓と「青薔薇の青だね」と言って見上げた空を思い出す。
雨の匂いを嗅げば。
「雨の匂いが好き」と言っていた、璃桜様を思い出す。
雪が降れば。
札幌のライブ後に、雪にみんなでダイブしたことを思い出す。
季節が巡るたびに、天気が変わるたびに。
璃桜様を、青薔薇を、ファンのみんなを、思い出した。
そのたびに、実感する。
これからやってくる全ての季節に、青薔薇がいないということを。
そんな風に、一年が過ぎ。二年が過ぎて……。
少しだけ、優花は息を上手にできるようになった。
そんな、ある日。
あの日から止まったままの優花の心を救ったのも、彼女が避け続けた音楽だった。
たまたま、見ていたTVで、デビューしたばかりのバンドが歌った瞬間。
優花の瞳から涙がこぼれた。
母も弟もいる食卓。それなのに、涙が止まらない。
優花は顔を隠して泣いた。
家族は、そんな優花に気がつかない振りをしてくれた。
その数日後、久しぶりに入ったCD屋さん。
最後にこの店に来たのは、青薔薇の解散ライブのDVDが出た時だ。
なんとなく、V系コーナーに向かった優花は、様変わりしている売り場に衝撃を受ける。
見たことのない若いバンドのCDが、目立つ場所に置かれている。
青薔薇のCDは、「ふ」から始まるアーティストの棚に、一枚置いてあるだけだった。
それを見た時。寂しさとともに、時間の流れを感じてしまった。
家に帰り、買ったばかりのCDを再生する。
久しぶりにCDを回したラジカセから、音が流れた。
TVで聞いた曲のサビがかかるなり、優花はまた泣き出した。
歌詞なのか。メロディーなのか。
何が優花の琴線に触れたのかは、わからない。
このCDの一曲目の曲を聞くたびに、優花はなぜか泣いた。
久しぶりにライブハウスに行ったのは、それから少し過ぎた頃だった。
「紫苑が新しいバンドを組んだんだ。東京でイベントに出るんだけど行かない?」
楓からそんな電話がかかってきて、行ってみることにしたのだ。
紫苑が新しく組んだバンドは、HERALD。
五人組のバンドで、パンク寄りの音楽だった。
紫苑が、青薔薇以外のメンバーと同じステージに立っている。
それが、なんだか不思議な感じがした。
それから、優花は楓に誘われて何度かHERALDのライブに行った。
正直、HERALDの音楽にはハマらなかったが、楓や、青薔薇ファンのみんなと会いたくて、遠征もするようになった。
HERALDが出演したのは、いくつかのV系バンドが出演するイベントばかり。
その中で、結成したばかりだという若いバンドの輝きに、優花の心が惹かれた。
歌も、演奏も、パフォーマンスも、拙い。
それでも、ステージの上の彼らは抜群に輝いていた。
対バンで見るたびに、動員が増えている。その勢いに目を見張るとともに、心が惹かれるのを優花は止められなかった。
青薔薇以外のバンドに。
璃桜様以外のボーカルに。
惹かれたくなかった。
心を動かされたくなかった。
青薔薇や璃桜様と過ごした時間が、過去に変わっていくみたいで、嫌だった。
青薔薇や璃桜様と過ごした時間が、嘘に変わっていくみたいで、嫌だった。
それでも、どうしようもないほど惹かれてしまった。
優花は浮気でもするような後ろめたさを感じながら、そのバンドのCDを買い、ワンマンへ足を運んだ。
何回もライブに通ううちに、ライブを見ながら、心から笑うようになってしまった。
そして、HERALDが野外のロックフェスに出演したことをきっかけに、V系以外の音楽も聴くようになっていった。
そんなある日。
優花は、ようやく覚悟を決めた。
青薔薇の解散ライブのDVDを見ることにしたのだ。
まだ封すら切っていなかったDVDを開けて、再生ボタンを押す。
青いステージを見ただけで、胸がギュッとした。
SEが終わり、演奏された一曲目。
画面の中のメンバーを見つめる瞳は真剣そのものだ。
一曲、一曲が懐かしくてたまらない。
懐かしさと切なさを感じながら画面を見つめていると、ライブは中盤に差し掛かっていた。
曲が終わり、初めてのMC。
画面に映った璃桜様のアップを見て、優花は息をのんだ。
そこには、ステージの下の優花には見えなかった、璃桜様の姿があった。
画面の中の璃桜様は、時折、短く息を止めて呼吸を整えながら言葉を発していた。
いつもと同じように笑いながら、いつもと同じ明るい声で話している彼の瞳は潤んでいる。
そんな璃桜様が、優花には今にも消えそうな少年のように見えた。
二歳年上で、いつも大人に見えていた、璃桜様。
ステージの上で、いつもカッコよかった、璃桜様。
優花の瞳に映る璃桜様はいつも大きくて、偉大な存在だった。
しかし、今の優花はDVDの中の璃桜様の歳を超えている。
そして、優花は思った。
璃桜様も優花と同じように、普通の人だったんだ、と。
二十五歳の普通の男の人だったんだな、と。
二十五歳の優花がそこまで大人じゃなかったように、彼もきっとそこまで大人じゃなかったんだ、と。
二十五歳の優花がそこまで強くなかったように、彼もきっとそこまで強くなかったんだ、と。
そのことに気がついた瞬間。
優花の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
それは、拭っても、拭っても、止まらない。
優花は涙でぐしょぐしょになりながら、画面の中の璃桜様を見つめた。
最後の曲である、『青い糸』の前。
曲が始まると同時に、璃桜様の瞳にうっすらと涙が溜まるのが見えた。
それを振り払うかのように、走り出した璃桜様。
あ。あの時。
走らなければ、璃桜様は最後の曲を歌えなかったんだ。
なんとなく。
そう思った。
青薔薇の解散ライブから五年後。
初めてこのDVDを見て、優花の心にストンとなにかが落ちてきた。
この日。
優花はやっと青薔薇の解散を受け入れられた。
そして、優花の世界に酸素が戻ってきた。




