21:春
冬ツアーが終わってすぐに、ファンクラブから黒い封筒が届いた。
その中には、春に青薔薇が開催するライブのお知らせが入っていた。
今年の春。青薔薇は、全国九か所を回るツアーを開催する。
しかも、ファンクラブ会員だけが行ける、ファンクラブ限定ライブのツアーだ。
これは青薔薇にとって、初の試みである。
その日の夜。
優花は楓に電話した。
「もしもし、楓? 今、大丈夫?」
「うん。私も電話しようと思ってたところ」
「FC限定の手紙、届いた?」
「うん。見た見た。全通する!」
「私も、全通!」
「だよねー。てか、キャパ小さいから、落選が怖いね」
「確かに。夏ツアーも、小さいところは落選出てたらしいし……」
話し合うまでもなく、お互い全通することを決めている。
そんな二人は、チケットが手に入るかに不安を募らせた。
優花も最近知った話だが……夏ツアーからファンクラブの優先チケットの申込みで、落選が出ていたそうだ。
地方のキャパが小さなライブハウスの公演は、取れなかった子がいたことを友達が教えてくれた。
春ツアーはファンクラブ限定ということで、いつもより小さなキャパの会場ばかりだ。
青薔薇はファンクラブ会員も増えているので、倍率が高そうである。
この時代のファンクラブのチケットは、払込取扱票を使用した申し込みだ。
払込取扱票という専用の用紙に必要事項を記入し、郵便局の窓口でお金を払う。
そのため、バンギャにとって郵便局は、行きつけの場所の一つである。
ツアーが決まると行きつけの郵便局に行って、払込取扱票をもらう。
三か月に一回は来ているので、優花はすっかり窓口のお姉さんにも覚えられている。常連である。
このチケットの申し込みだが、意外と時間がかかる作業だったりする。
払込取扱票に書くことが多いのだ。
アーティスト名、会場名、公演日、金額、枚数、合計金額、ファンクラブの番号。
住所、氏名、名前、電話番号。
それを、一公演ずつ書いていく。
これが全国ツアーの全通となると、20枚以上だ。
最後には、腕がもげそうになる。
スマホでのチケット申し込みに慣れていた優花にとって、払込取扱票の記入はなかなかの苦行であった。
住所欄用のスタンプを作りたい。何度も、そう思った。
しかし、その考えは、すぐにゴミ箱行きとなる。
変なことをして、当選確率とか番号が悪くなったら嫌だなと思うからだ。
結局、毎回手書きである。
優花は地味に小心者なのだ。
頑張って払込取扱票を書き終わると、行きつけの郵便局へ突撃だ。
優花の行きつけの郵便局の窓口は、たいてい混んでいる。
整理番号を取って、じっと待機だ。バンギャなので、待つことは得意である。
そして、自分の番が来たら、払込取扱票の束を持って窓口へ向かう。
優花の手元の束を見て、窓口のお姉さんが苦笑いするまでがお約束だ。
まとめて読み込んで一気に払えればいいのだが、一枚ずつ処理しなければならないシステムらしい。
一枚、お姉さんが処理を終わると、お金を払い。
次の一枚、お姉さんが処理を終わると、お金を払い。
その繰り返しである。
お姉さんも、内心、面倒くさいだろう。
心の中で「ごめん」と思いながら、優花は次の払込取扱票をお姉さんに渡した。
たぶん、行きつけの郵便局では「ファンの子」「チケットの子」などの、あだ名がついていることだろう。
そうして、頑張って申し込んだチケット。
落選の場合。手数料を引いた金額が、現金封筒で届く。
今回、不運にも優花の元には、二通の現金封筒が届いてしまった。
母から「何か現金封筒来てるわよ」と言われて、ガクリと肩を落とす優花であった。
ちなみに楓の元には、三通の現金封筒が届いたそうだ。
♪ ♪ ♪
三月になり、全九公演の春ツアーが始まった。
ツアー六本目は広島。
会場は、広島 NAMIKI JONCTIONだ。
このライブで、優花は思いがけず夢を叶えることになる。
この日のライブ。
満員だったこともあり、始まる前からとにかく暑かった。
ファンクラブ限定ライブということもあり、青薔薇は会場ごとにセットリストを大きく変えてきた。
そして、この広島は優花の好きな曲が多かった。多すぎた。
一曲。一曲。
曲が変わるたび。
――やった! この曲、好き!
優花のテンションは上がっていく。
そんなことを繰り返しているうちに、頭のネジがぶっ飛んだ。ぶっ飛んでしまった。
そうなると、飛ぶしかない。
「お前ら! もっと、飛べるだろ!」
「もっと、もっと、飛べるよな!」
「お前らの本気、見せてみろよ!」
そんな璃桜様の煽りを受けて、みなぎって飛んだ。
最初から最後まで、飛びっぱなしだ。
酸素スプレー、吸いまくりである。
ライブが終わると、汗で全身ビショビショだった。
Tシャツがしぼれるだけでなく、履いていたデニムのスカートすらしぼれるくらいだ。
……そして、思った。
「最っ高!」
いつもは璃桜様に夢中で、彼ばかり見つめている優花。
しかし、この日のライブは何かが違った。
ただ、ただ。楽しくて、仕方なかった。
ただ、ただ。全てを忘れて、音の海に溺れた。
前回の人生でいつも心の中にあった後悔。
Blue Roseという、一つのバンドのライブを純粋に楽しむ。
璃桜様がいると、優花はどうしても彼に夢中になってしまう。
過去に戻って、ライブに行って、璃桜様を見て。
この夢を叶えるのは、無理だなと諦めていた。
だって、璃桜様の吸引力はスゴいのだ。
意識して全体を見ようとしてみても、気がつくと璃桜様ばかり見ている。
もう無意識に、璃桜様を見つめているのだ。
だから、優花はこの夢は早々に諦めた。
それが、叶ってしまった。叶ってしまったのだ。
優花はライブハウスから出るなり、外の風を浴びて、その気持ちよさにゆっくりと目を閉じた。
そして、胸の中心を両手でグッと押える。そうしていないと、押えられないほどの喜びが胸を渦巻いている。
優花はそうして、一人で佇み……しばらくして、瞳から涙をこぼした。
その日の夜。広島に来ていた友達六人で集まって、お好み焼きを食べにいった。
地元の子のおすすめの店で、目の前で焼いてくれるお好み焼きを食べる。
広島のお好み焼きは、重ね焼きが基本だ。
薄い生地に、たっぷりのキャベツ。豚肉に焼きそば。
そして、卵。
それらを重ねて蒸し焼きにする。
鉄板にソースがこぼれると、ジューッという音と一緒に香ばしい香りが広がる。
その上で踊るかつお節を見ているだけで、喉がゴクリと鳴る。
関西の生地に具を混ぜて焼くお好み焼きも美味しいが、広島のお好み焼きも美味しい。
優花はどっちも好きである。そして、具は豚一択だ。
お好み焼きを食べながら、冷たい生ビールをグビッと飲む。
その瞬間……「はー」っと、息がこぼれてしまう。
幸せの余韻に浸りながら飲むビールは絶品だ。
この日。優花は飲み過ぎた。
それも、ツアーの醍醐味である。
♪ ♪ ♪
広島から松山に移動した優花は、道後温泉に来ていた。
温泉に浸かったおかげで、お肌はプルプルのモチモチである。できることなら、ライブ前にはいつも入りたいくらいだ。
温泉に入り、肌の調子、万全で行ったライブ。
会場は、松山サロンコティだ。
アンコールが終わり、メンバーがはけていく中。
璃桜様が一檎のマイクスタンドからピックを一枚取って……投げた。
それは、まっすぐに優花の元に飛んでいく。
優花の瞳には、それがまるでスローモーションのように見えていた。
まっすぐ飛んでくるピックを見つめながら、両手を伸ばして挟み込むようにしてつかむ。
パチンと音を立てて、ピックが手の中におさまった……その瞬間。優花の世界から、音が消えた。
聞こえるのは、自分の呼吸と胸の鼓動だけだ。
ゆっくりと手を開くと、手の中にある……白いピック。
それを、信じられないものを見る目で見つめる。
顔を上げると、璃桜様が笑顔で手を振りながらステージから降りるところだった。
ポカンとした表情で、誰もいなくなったステージを見つめる優花。
──あれ、前回、ピック手に入れたのって……東京じゃなかったっけ?
後ろで見る派の優花は、ピックなんて滅多に手に入らないのだ。
あれは前の方で、ギュウギュウになりながら、死線を戦いぬいた人たちがもらう、ご褒美だと思っている。
しかも、優花がこの日手に入れたのは、ボーカルの璃桜様が投げたピックである。
自分の手の中にあるピック。
その確かな感触に、じわじわと喜びが心に広がっていき、優花は嬉しそうに笑ってピックを握りしめた。
「優花―、お疲れー」
「楓、楓っ! ピック、ゲットした!」
「誰の?」
「璃桜様!」
「キャー、マジで? やったじゃん!」
そこから、二人は飛び跳ねながら抱き合って、喜びを爆発させた。
その夜。
ホテルに戻った優花は、いつも持っている手作りの小さな黒い巾着を開いた。
「えっ?」
そこに、入れていたはずの白いピックが消えている。
「嘘?」
そこから、優花はキャリーケースの中身を全部出して、探した。
しかし、どんなに探しても、ピックは見つからなかった。
前の人生で、優花が渋谷のライブで手に入れたピック。
階段から落ちて、最後に握りしめていたピック。
それを過去に戻ってからも、優花はずっとお守りとして持って歩いていた。
……それが、消えてしまった。
♪ ♪ ♪
東京に戻ってから、優花は自分の部屋中を探した。
しかし、やっぱりあのピックは見つからなかった。
そして、迎えた……ツアー最終日の渋谷。
ライブ後に璃桜様は、一枚もピックを投げなかった。




