02:まさかの転落
衝撃的なニュースが優花を襲った翌日。
彼女の目は真っ赤に腫れていた。
どこからどう見ても泣き腫らしたようにしか見えない顔だが、実はただの睡眠不足だったりする。
それは……優花のスマホに、一通の通知が届くことで始まった。
『これ見た?』
ピコン、という聞き慣れた音とともに、画面に表示されたメッセージ。
送り主は、青薔薇ファンの友人だ。
『見た見た』
『ユカ、生きてる?』
『璃桜様、変わりすぎじゃねw』
優花が通知をタップするより早く、次々と届くメッセージ。
青薔薇ファンの仲間で作ったLIMEのグループのトーク画面には、懐かしい名前が並ぶ。
バンドが解散してだいぶ経っているので、しばらく使っていなかったグループ。
それが見事な復活を果たし、怒涛の通知が飛びかった。
最初は璃桜様の事件の話をしていたが、気がつけばお互いの近況報告になっていく。
優花は懐かしさに画面をニヨニヨしながら眺め、必死に文字を打ちこんだ。
ある子は、三人の子供がいるお母さん。
ある子は、最近旦那の不倫が発覚して離婚したばかりで、璃桜様におかんむりだ。
ある子は、変わらずにバンギャ……いや、もうオバンギャか。とにかく別のV系を追っているそうだ。
そんな皆の報告を見ていると、あっという間に時間が溶けていく。
気がつけば、真夜中になっていた。
『明日、仕事行きたくねー』
『璃桜様休暇、取ろうかなw』
『また、みんなで集まりたいね』
『そのうち、集会開催しようよ』
『子供の弁当作らなきゃだから、そろそろ寝るわ』
LIMEで懐かしい仲間との再会が終わってからも、興奮しているせいか全く訪れない眠気。
布団に入り、少し目を閉じては……思い出したかのようにスマホを手に取る。
そんなことを繰り返した、優花のスマホの検索履歴は……
璃桜 現在
璃桜 嫁
青薔薇 メンバー 現在
……などの文字で埋め尽くされていた。
すっかり、青薔薇熱が上がり、3ちゃんねるの過去ログまで読みあさってしまう。
気がつけば、カーテン越しに外が明るくなり始めている。
五時を過ぎた頃には眠ることを諦めて、潔くスマホをいじることにした。
そうしているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
優花は、手の中にあるスマホのアラームの音で目を覚ました。
眠ったのは一時間もないくらいの短い時間だ。
なかなか眠れなかったのに、少し寝てしまったせいで強烈に感じる眠気。
それを振り払うかのように体をなんとか起こし、ベッドから這い出た。
ノソノソとキッチンに移動した優花は、どこかぼんやりした表情でお湯を沸かし、食パンをトースターに入れた。
冷蔵庫から卵とウィンナーを取り出して、温めたフライパンに突っ込むと、蓋を閉じる。
ウィンナーの焼ける香ばしい香りと、パンの焼ける香りが漂う中を歩き、テーブルの上にケチャップと粒入りマスタード、牛乳、カット野菜を皿に移したサラダを置いた。
そうしている間に、お湯が沸いたことを知らせる音が耳に届く。
マグカップにいつもと同じ量のインスタントコーヒーとお湯を入れて、混ぜながらテーブルへと移動する。
その途中で、持っている真っ黒なマグカップに目が止まった。
「これも青薔薇のグッズだし……」
苦笑い……その言葉がこれほどピッタリなものはない。
そんな笑みを浮かべた優花は、テーブルにマグカップを置いた。
そして、真っ黒な小さな渦の中に牛乳を足して、カフェオレを作る。
もう出番のない牛乳を冷蔵庫に片づけると、フライパンの蓋をあけた。
「あちゃー、焼き過ぎたか……」
今朝は半熟の目玉焼きが食べたい気分だったが、焼き過ぎた黄身は鮮やかな黄色になっている。
優花は小さく息を吐きながら、大きめの平皿を手に取る。
目玉焼き、ウィンナー三本、トーストを皿に乗せてテーブルに移動すれば、朝食の始まりだ。
カフェオレを飲み、ひと息つくとパンに手を伸ばした。
たっぷりバターを塗った大きめのトーストにかじりつくと、口の中にバターの塩気とパンの甘みが広がる。
それをモソモソと咀嚼するが、なかなか喉を通らず、カフェオレで無理やり流し込んだ。
そんな風に食の進まない朝食を終えた優花は、歯を磨きながら食器やフライパンなどに水をかける。
そこから嵐のように狭い部屋を駆け巡った彼女は、大きな鞄を肩にかけると玄関へ向かった。
下駄箱の上に置いてある小さな時計は「7時49分」……いつもより四分の遅刻だ。
勢いよく外に飛び出して鍵を閉めると、廊下を早歩きで進む。
その勢いのまま階段へ足を伸ばした瞬間、軽い眩暈が彼女を襲った。
体中を打ち付ける強い衝撃を感じながら、遠くで女性の悲鳴が聞こえる。
──あ、これヤバいやつだ。
自分のことなのに、気持ち悪いほど冷静。
今、その身に起こっていることを、まるで他人事のように感じる。
瞳に映るのは、やけに遅く見える景色だ。
空、階段
停まっている車、階段
木、階段
こちらを見て悲鳴をあげている女性、階段……。
そうして、転がり続けて止まった時に、ネックレスが千切れて小さな白い物がコロンと地面に落ちた。
それは、ギターのピック。
すでにそこにあった文字やマークが消えている、無地の真っ白なピックだ。
それに、優花は必死に手を伸ばした。
掠れる視界に、遠くなる音。
自分の命が消えかけているのを感じながら、やっと手が届いたピックを力いっぱい握りしめる。
これは、あるライブで璃桜様が投げたピックだ。
それを優花はネックレスにして、解散ライブまでずっとつけていた。
昨日の夜、このネックレスのことを思い出して、なんだか懐かしくなったので久しぶりにつけたのだ。
手の中のピックの小さな存在を感じながら、優花はそっと瞳を閉じた。
真っ黒な視界。遠ざかっていく音。
そんな中、青薔薇のライブ、璃桜様、バンギャの友達、相方、親友、弟、母親…………。
数々の鮮明な映像が頭の中を流れていく。
──これが走馬灯ってやつか……。
そんなことをぼんやりと思いながらも、優花は願った。
──もしも生まれ変われるのなら、もう一度…………。
オバンギャ=年齢を重ねたバンギャのこと。
バンギャとオバンギャの境界線が何歳になるかは、定かではない。