「歴史」にテストって、不必要だと思いませんか?
歴史。
歴史が学校教育に含まれた理由として、主に次の理由があった。
「過去の歴史を学ぶことで,その知恵を現在・未来に活かすことができる」
「偉人の生き様を理解することで,自分自身の成長に結びつけることができる」
「歴史を学ぶことで教養の幅が広がり,判断力・決断力を培うことができる」
見事にコピペではあるが、非常に納得のいく理由だと思う。
過去に学び、未来に生かす。
過去の過ちをもう二度と繰り返さない為に、『歴史』を学ぶのだ。
しかし、しかしだ。
学校の授業でそれを学ぶことが出来るのだろうか。
出来ない。まだ中学生だが、そう強く思う。
まず、歴史をテストにする意味はあるのだろうか。
歴史を受験で出す意味はあるのだろうか。
ない。絶対にない!……と考える。
範囲が広いため、教科書を早口で、しかも棒読みで読む教師。
何も考えず、大事だと言われた所にだけ線を引く生徒。
テストに出そうな先生の言葉を必死にノートに書き込む生徒。
――誰も歴史を学ぼうとしていない。
皆の前にあるのは文字であって、歴史ではない。
こんな状況を作り上げたのは学校の教育形態だ。
テストは内申に響き、内申は受験に響き、受験する学校は将来に響く。
普通の受験は5教科で、その中の社会科で歴史分野は必ず出る。
そんな脅迫されたような環境で、誰が文字以外を見れようか。
まるでライトノベルの様に読み進められていく教科書。
生徒には探求する時間も、感傷に浸る時間も、ない。
生徒にとって墾田永年私財法が出されるまでの経緯より、漢字の方が重要だ。
生徒にとって明智光秀のその後より、本能寺の変が1582年に起きたということの方が重要だ。
しかし歴史を学ぶ観点から考えれば、その逆の方がより当てはまるはずだ。
テストが、受験が生徒をそのようにさせたのだ。
例えば栄西が臨済宗を開いたことなんて、受験の1年後にはすっかり記憶から抜け落ちていることだろう。
その単語自体に価値がないのだから当たり前だ。
けれど栄西が何を考えてどう行動し、どんな思いで臨済宗を開いたのか。
それを知れば、必ず脳内のどこかには残るはずだ。
栄西の行動に感動したのならば、自分の生き様や考えを改める可能性だってある。
それが歴史を学ぶということだ。
しかしその行動を、テストが、受験が邪魔をする。
必要なのは広く浅い知識。
だれが多くの単語を覚えているか、の勝負だ。
記述問題だって、結局は覚えなくてはならないのだから上と同じだ。
要は、頭を空にして単語を埋め込むことこそが学校での歴史を学ぶ形態なのだ。
やはり矛盾している。
冒頭で述べた歴史を学ぶ3つの目的。
全く合っていない。
偉人の生き様?
松平定信がしたことって、寛政の改革くらいしか習いません。
明らかに目的を達成するための教育ではないし、方針がズレている。
墾田永年私財法を漢字で書け?
そんなの、国語のテストでいいじゃないですか。
日本国憲法が公布されたのが11月3日って覚えろ?
11月3日11月3日11月3日11月3日11月3日11月3日11月3日11月3日。
はい唱えましたよ。覚えましたよ。
で、なに?
何を学べたわけ?
極論、歴史にテストって要らなくないですか?
という受験生の愚痴でした。すいません。
中学の歴史は基礎なんですよね。
基礎を学ばなければ、探求なんて出来ない。そういう事ですよね。
でもそれをテストの為だからと必死に覚える行為がどうしても馬鹿らしく思えます。
……ハァ。
え?そんなこと言ってる暇あったら勉強して来いって?
あ、はいすいません。勉強してきます。
それでは、御付き合いありがとうございました。