婚約破棄を強要された2人は、愛を守る為に記憶を消した
とある森の中。春の麗らかな木漏れ日の下に、二つの人影があった。
「リグ、大きくなったら結婚しよう」
真剣な顔でそう言い放つのはロラン・ガリオンヌ。齢11歳の少年だがガリオンヌ伯爵の一人息子。ゆくゆくは伯爵の跡を継ぐ少年だ。
「ロラン」
それを受け少女ーーリグナーレ・バウファレス子爵令嬢は顔を赤らめる。突然の告白、それも好いている男からの告白だ。リグナーレはあまりの恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じる。
ーーああ、でもこういう真っ直ぐな所が好きなんだ。リグナーレは思う。初めて会った時もそうだ。大事にしていたブローチを無くしてしまったの時、一緒に泥だらけになって探してくれた。
なんで探してくれるの、と聞いたらーー困っている人を助けるのは当たり前だ、と真直ぐな目で言っていた。ああ、あの時からもう好きになってしまったんだろうな、とリグナーレは思う。
「り、リグ?」
思わず遠い眼をしていたリグナーレにロランは不安になる。ロランにとって一世一代の告白なのだ。もし断られたら、と考えるとロランは不安で仕方がない。
「あ……ご、ごめんロラン。こ、こほん」
リグナーレは改めて向き直り、咳払いをして心を落ち着ける。そして。
「ふ、ふつつか者ですがよろしくお願いします」
「あ……うう……」
「も、もう。ロランこそしっかりしてよ!」
そう言って2人は笑い合う。幼いながらも純真な気持ち。それは確かに通じ合っていた。
数年後、2人は婚約した。元々両家とも親交があり、親共々2人が一緒になる事には賛成であった。
ーーだが、それを良しとしない人物がいた。
エイベル・ファーブルク公爵令嬢。派手な見た目に、誰もが振り向く美貌。父親の威光を傘に欲しい物は全てを手に入れて来た。
そんなエイベルがロランに惚れてしまった。あの男が欲しい。その欲望はたとえロランに婚約者がいても関係は無い。自分が欲しいと思ったからにはどんな手を使っても手に入れる。
公爵家の威光を使いエイベルは圧力をかける。当然、ガリオンヌ伯爵家も反対をしたが、公爵家の圧力に押されていく。
「ふざけるな! 僕はお前と婚約などしない!」
ロランの怒声が部屋に響く。豪奢な調度品に彩られた部屋。エイベルの屋敷にロランは抗議にに訪れていた。
「……何故? あの見窄らしい娘より、私の方が良いでしょう」
「き、貴様」
余裕綽々にエイベルはロランを見据えならがら答える。その様子はロランを苛立たせる。だがそれは更にエイベルの欲をそそらせた。
前から気にはなっていた。貴族学校でも自分に靡かない男。ロラン・ガリオンヌ。
顔が良い男、金のある男は他にも居たが靡かない男はいなかった。だからーー欲しい。あんな、リグナーレみたいな見窄らしい娘には勿体ない。
「そんなにあの娘が好き?」
「当たり前だ!」
「ふーん。だったら……ロランには婚約破棄をしてもらおうかしら」
「は?! そんな事するわけないだろう!」
「いや、するのよ。ロラン」
そう不敵にエイベルは笑う。何を訳の分からない事を。ロランは抗議する。だが、後日。それは現実のものとなってしまう。
「な、何だこれは」
ロランは父親からの話に絶句する。それは、リグナーレのスキャンダル。不貞や窃盗。あらゆる貴族として禁忌な事をリグナーレが犯していると、公爵家からの通告があった。
だが、まだそれは明らかにされてはいない。とある条件を飲めば揉み消すと云う条件付き。それはーーーー。
「リグナーレに婚約破棄を夜会で通告する」
それは明らかにエイベルの策略であった。間違いなくリグナーレのスキャンダルもでっち上げであるし、彼女がそんな事をする筈ないとロランには分かっている。
だが、公爵家が広めればそれは事実になる。そうなればリグナーレも子爵家も破滅である。
「……こんなっ」
ロランは拳を握り締める。選択肢などない。リグナーレを救うには婚約破棄をするしかないのだ。そうすると分かっていてエイベルはロランに突き付けている。あの女は狂ってる。だがロランにはどうしようもない。
「うぐっ……うあああああああ!!」
どうしようもない現実にロランはただただ慟哭するしかなかった。
■ ■ ■ ■
月明かりに照らされ、リグナーレはそこにいた。
「リグっ」
「ロランっ」
2人は駆け寄り抱き合う。久しぶりの再会。だが、二人の心は微塵も離れてはいない。
「……っ」
「……」
2人は互いを強く抱きしめその温もりを確かめ合う。恐らくこれが最後の逢瀬になる。それを互いに分かっていた。
「リグっ……ごめん。僕は」
「……いいの。全て分かってるから。私の為にその選択をしてくれた事、分かってるから」
その言葉にロランの眼からは涙が流れ、嗚咽していた。自分に力があれば。それを覆せない自分が情けなくロランは涙する。
それをそっとリグナーレは拭う。そして。
「ロラン……。聞いて」
「……?」
リグナーレはそっとロランにある事を耳打ちする。
「……そ、それは」
「私はね、これしかないと思うんだ」
ロランは驚愕する。が、そう言って悲しく笑うリグナーレを見て唇を噛み締めた。リグナーレが持って来た話。それによってもたらされ未来。それは、あまりにも残酷だがーー。
「いいよリグナーレ」
「……うん」
そう言ってリグナーレはロランに口付けをした。最後の夜。その時を永遠にする為に2人は最後を過ごした。
■ ■ ■ ■
煌びやかな夜会の会場。公爵家主催である夜会。エイベルはロランを隣にし、ほくそ笑んでいた。
「さあ、ロラン。今日は記念すべき日よ」
「……ああ」
「ふふ、ようやく覚悟が出来たのかしら」
幾分か落ち着いた様子のロランにエイベルはそう言う。そしてーー。
「今晩は。リグナーレ」
「……エイベル」
リグナーレを見てエイベルは笑う。狂気がこもった笑み。ようやくロランが手に入る。しかも、婚約破棄をされるというリグナーレにとって屈辱的な形で。大体、昔から気に入らなかったのだ。貧相で貧弱な娘のくせに、媚びずに刃向かう姿勢。そんな奴が、私の惚れた男と結ばれるなどあってはならないのだ。
「さあ、皆さま! 今日は重大な発表がありますのよ!」
エイベルがそう言うと、会場の注文が集まる。会場の半数以上は婚約破棄を進める為の仕込み。リグナーレを貶める為、ロランを手に入れる為の。
ロランには予め、文言を渡してある。破滅はしないが、リグナーレに恥辱を味あわせるには十分の。
あまりの歓喜に口角が上がるのをエイベルは必死に抑える。だが。リグナーレの表情を見た瞬間、困惑に変わった。
ーーリグナーレは笑っていた。この状況で何故笑えるのかエイベルには理解出来ない。この後ロランから婚約破棄を言い渡され、惨めに泣き崩れるしか無いのに。
「貴方にロランは渡さない」
「何を言って……」
その2人の放った言葉をエイベルが咀嚼し、言い返す前にーー2人は言葉を紡いだ。
「さよなら、ロラン」
せめて、最後に2人は笑い合った。
「さよならリグーー君との婚約を破棄する」
その言葉を紡いだ瞬間、2人を眩い光が包んだ。目が眩むような閃光。辺りは騒然となる。
そして光が収まる。特に変わった様子も無く、2人もその場に立っている。だが。
「ロ、ロラン?」
呆けた様子のロランにエイベルが声を掛ける。すると。
「……ここはどこだ? 君は誰だ?」
「え?」
ロランはエイベルへ問いかける。まるで初めて見た者に問いかける様に。
「な、何を言って。今、あのリグナーレへ婚約破棄を言い渡してーー」
「リグナーレ?」
聞いたことの無いかのような素振り。そして、当のリグナーレも。
「ここは、どこなのでしょうか?」
不安な顔でリグナーレは辺りを見渡す。まるで状況がつかめていない様な有り様。
ーーあの眩い光。それはロランとリグナーレの互いに纏わる記憶を全て飛ばしていた。忘却の魔法。
あの最後の逢瀬の夜。2人は婚約破棄の言葉をきっかけとし、互いに纏わる記憶を消す契約をしていた。それはリグナーレが実家から持ち出した禁忌の秘術。
このまま行けば、もう二度と2人は結ばれることは無い。互いに思っていればーーなど何の意味もない事を2人は知っている。引き裂かれた2人は互いの思いを楔として永遠に苦しむ。ならば、全ては忘却の彼方へ。
「ど、どうなってるのよ! ろ、ロラン! わたしよ! エイベルよ!」
「ち、ちょっとやめてくれ。頭が、頭が痛いんだ……」
突然の事態にエイベルは取り乱す。だが記憶のないロランにはどうする事も出来ない。
夜会の会場が騒然となる中、呆けた顔でリグナーレは立ち尽くしていた。何故、自分はここに居るのだろう。何故、みんなはこんなに騒いでいるのだろうか。記憶をなくしたリグナーレには分からない。
「…………」
ただ自分の心に空いた大きな空白。何か大事な物を無くしてしまった気がする。そんな思いにリグナーレは包まれていた。
その夜会の出来事は貴族社会でたちまち広まりはしたが、婚約破棄自体はつつがなく行われた。そもそも2人は別れる流れだったのだから。
記憶消去の魔法は禁忌ではあるが、2人の事情を知る者達は同情的ではあった。それに、その記憶自体が無い2人に罪を問うてもどうしようもないのだ。
ロランとリグナーレが添い遂げる事は叶わなかったが、2人の想いは忘却の彼方へ投げ入れる事により守られた。それはエイベルにすらどうする事も出来ない、永遠の想いだ。
だが夜会を機に2人は二度と会うこともなく、それぞれの貴族社会へ取り込まれていった。
ーー数十年後。
春の日差しが降り注ぐ中、ロランは森の街道を進む。
「ふぅ、もうすぐか」
妻に先立たれ、実家を息子に譲って数年。隠居したロランは1人旅をして回るのが楽しみであった。息子達は心配するが、むしろもう自分が家にいても邪魔になるだけである。
それに、旅をすれば空白が埋まる気がする。ロランには若い頃の一部の記憶が無かった。周りから聞いた話だと、貴族間のトラブルに巻き込まれたらしい。
当初は空いた記憶に不安を感じていたが、直後に婚約した事もあり忙しさでそれどころでは無かった。だが、こうして自由な身分になると忙しさで埋まっていた空白が再び騒ぎ出していた。ただ調べてもどうにも記憶に関する記録は無かったので、今更どうしようもないが。
「ん?」
ふと、見ると街道の横の木の下。1人の女性が座り込んでいた。怪我だろうか。ロランは気になり声をかける。
「どうしました?」
「あっ……ちょっと足を」
ロランと同じぐらいの初老の女性。どうやら足を捻ったようで、足首が腫れていた。
「捻ったんですか。ちょうど薬草が……」
「だ、大丈夫ですから」
「いえいえ、ほっとけませんよ」
そう言ってロランは手当を始める。最初は遠慮をしていた女性も、大人しく手当を受ける。
「……」
「……」
鳥のさえずり。春の木漏れ日。ふと、2人の目があった。もちろん互いに面識は無い。がーー。
ーーふつつか者ですが、よろしくお願いします。
錆び付いた記憶。何かが漏れ出す。何が起こったのかロランには分からない。何だ、疲れが出たのか。
「どうしました?」
「いえ……」
やがてロランは手当を終え立ち上がる。女性も歩けるくらいには回復した。
「すみません。ありがとうございました」
「いや……」
「では、私はこれで」
女性は一礼をし歩き出す。ロランとは逆方向だ。ロランも留まる理由は無いので歩を進める。何だろう。何かが引っかかる。ロランは振り向き女性を見るがーー。
「……気にし過ぎか」
そう呟きロランは歩き出した。
「彼の方、何処かで会ったかしら」
女性は歩き去るロランを見てそう呟いた。