雑学百夜 ワイシャツの「ワイ」は「Y」のことではない
「Tシャツ」の由来は袖を広げた姿がアルファベッドの「T」に似ていることからだが、ワイシャツは、白いシャツを意味する「white Shirt」が訛り名付けられた日本独自の呼び方である。
息子は明日、家を出ていく。
春から大学生なのだ。卒業式を終えたばかりだというのに、早々に下宿先に引っ越すらしい。
県外の大学で無理すれば通えない事も無い距離だったが、息子は「いいよ。もう住む場所も決めてるから」とけんもほろろに言い捨てた。
私は何も言わなかった。心配じゃない、寂しくないと言えば嘘になるが、子どもは自由に伸び伸びと育てていこうと約束したのだ。
ねっ? 私は仏壇の方に目をやる。10年前からずっと変わらぬ笑顔を浮かべている夫がそこにはいた。
今夜は特別な夜になるはずだった。
息子が我が家で過ごす最後の夜。
色々悩んだ末、肉じゃがと息子の好きなハンバーグを作って帰りを待っていたが、一時間前息子から「今日はもう友達と朝まで遊んで帰る 飯いらない」とだけ書かれたLINEが送られてきた。
一瞬腹も立ったが、まぁこんな親離れも成長の証だと思えば許せない事も無い。
私は一人で夕食を済ませた。本当はいけないが、息子がおねだりしてくれば特別に出してあげようかとも思っていた缶ビールは私一人で飲み干した。
夫を亡くしたあの日以来のアルコール。冷蔵庫で冷やし過ぎたのだろうか、ひどく苦い味がした。
ほろ酔いながら卒なく家事をこなせるのは、女手一つで息子を育て上げた賜物だろう。まぁ主婦の悲しい性ともいえるかもしれないけど。
夕方取り込んでおいた洗濯物一枚一枚に丁寧にアイロンをかけていく。
息子のワイシャツにアイロンを掛けようとした時、ふと妙な切なさを胸に覚えた。
ひょっとしたらこれが私の人生の内、アイロン掛けをする最後のワイシャツになるのかもしれない。
パートの私に制服はない。もしかすると息子はもうこっちに帰ってこないかもしれない。
そうなると、本当に、もう最後かもしれない。
夫のより遥かに汗をかき、幾度と泥まみれに汚れてきた息子のワイシャツ。
そう言えば昔、夫と同棲を始めたばかりの事、物知りな夫は「知ってる? ワイシャツって『ホワイトシャツ』から変化して付けられた名前なんだよ。よく考えてみれば確かにこのシャツって別に『Y』の形してないだろ?」と言って得意げに笑っていたことがあった。
それで言えば野球部の息子のは『ホワイトシャツ』じゃないときの方が多かったかな。
ふふっ。
そうやって私は綿毛を飛ばすように軽く笑った……つもりだったのに気付けば頬を涙が伝っていた。
あれっ。いけない。
やっぱり少し酔っているのかもしれない。
止めようとすればするほど、涙は後から後から溢れた。
――どうして、皆遠くに行ってしまうの。どうして私は独りになるの。
役目を務めあげてみれば、妻もそして母も虚しいだけだった。後には何も残らない。精々アイロン掛けが上手くなる程度しか良いことが無かった。
泣きながら私は息子のワイシャツの袖の皺を伸ばし一直線にアイロンを掛けた。
零れる涙を拭いながら私よりずっと広くなった背中の部分にも撫でるようにアイロンを掛けた。
「どうせ、私なんか、私なんか」と涙を流しながら、それでも最後、襟元は触れれば切れてしまいそうな程丁寧にアイロンを掛けた。
泣き終わってみれば皮肉な程綺麗に整えられたワイシャツがそこにはあった。
はぁ、本当、悲しい性ね。
我ながら呆れていると、玄関方から扉の開く音が響いた。
「何してんの?」
開口一番、息子は呆れたように聞いてきた。
「何って……ワイシャツにアイロン掛けてあげてるんじゃない。ほらあんたの!」
急に帰ってきた息子に驚きながらも私は答える。ワイシャツを渡そうとした時「……いやっ、高校のじゃん。それもう着ないって」とまたまた呆れたように言われた。
……まぁ、その言われてみればそうだった。
当たり前のように掛けたが、明日からは無用の長物なわけでこんな丁寧にアイロン掛けなくても思い出としてタンスの奥にしまっておくか、はたまた割り切って捨ててしまっても良かったかもしれない。
「うっ、うるさいわね。綺麗にしてある方が良いに決まってるでしょ。本当にあんたは物を大事にしないんだから……」
我ながら訳の分からない事をぼやきながら、私は息子にふと疑問に思った事を聞いた。
「あんた、朝まで帰らないって言ってたじゃない。どうしたの?」
私が聞くと途端に息子は顔を赤らめながら「いやっ、そのつもりだったけど忘れ物してるの思い出してさ」と言った。
「忘れ物?」
私の言葉に息子は髪を掻きむしりながら言った。
「…………写真だよ」
「写真?」
卒業アルバムでも持って行くのだろうか?
「あぁ! 写真だよ! 写真! 友達が撮ってくれるっていうから帰って来たんだよ! いらねぇならいいよ! 俺ももうまた遊びに行くから!」
「えっ、それって……私と?」
私は恐る恐る聞いた。
「そうだよ!」
「いいの?」
「嫌ならいいんだって!!」
息子はそう言うと子供みたいに拗ねてそっぽを向いた。
「撮りたい!」
私は叫んだ。
「一緒に撮ろう? どこで撮る?」
はやる気持ちを抑えられない、私こそまるで子供みたいだった。
「場所とか玄関のすぐ外でいいだろ。もう友達がそこで待ってるから」
息子はそう言うと早足で玄関に向かう。
その背中を追いかけていると、一つ考えが浮かんだ。
「待って!」
私は息子を呼び止めた。
「じゃあ、どうせならこれ着てよ」
私はそう言ってさっきアイロンを掛けたばかりのワイシャツを息子に渡した。
「はぁ? なんで?」
「いいから。ねぇ。お願い」
「…………面倒くせぇなぁ……分かった、分かった。じゃあもう先行ってて。さっさと済ませたいから」
「はーい」
私はトテトテと玄関に向かう。浮かれているのが自分でもわかった。
扉を開けるとそこには一眼レフを提げたショートカットの女の子がいた。
「どうも」
そう言ってその子は愛想よく笑った。
もしかしたら息子の彼女なのかもしれない。母として、そして女としての勘がそう囁く。
あなたがきっと提案してくれたんだね。
私はまだ名前も知らないその子に心の中で「ありがとう」と伝えた。
もし将来あなたがウチの子と生涯を共にしたいと思ってくれた時は、私は全力で応援するからね。
「あぁ、寒っ」
息子が遅れてやってきた。
「なぁ、なんかこれ所々濡れてんだけど」
ワイシャツの袖や胸元を覗きながら息子がぶつくさぼやく。
「洗い残しよ」
私は事もなげに返す。
「なんだよそれ……じゃあ、アカリ、ごめん。パッと撮ってくれたらそれでいいから」
息子は彼女に向けて手を拝みながら言った。
「ふふっ、照れないでよ。じゃあごめんなさい。お母さん、ちょっとこっちに」
アカリと呼ばれたその子はジェスチャーで立ち位置を指定する。
「えっと、この辺かしら」
「あんまりくっつくなよ」
「えぇ~だってカメラマンの指定だもん」
「……あぁ、もう」
他愛ないやり取り。こんな風に息子と並んで話せるのもあと何回残されているのだろう。
「じゃあ行きますよ~」
アカリちゃんが手を挙げる。
それを合図にしたように、息子が声を掛けてきた。
「おふくろ……まぁ、その……ありがとう」
思わず横を見るも、息子はそれ以上何も言わず、やや表情は固いまま、前を向き、何事もなかったかのようにカメラを見つめていた。
ふふっ。
私はその横顔を見上げ、ふと思った。
昼間の卒業式でも見たはずなのに、こうしてアイロンを掛けたばかりのパリッとしたワイシャツに身を包み、「ありがとう」と言ってくれた息子は数段大人びて見えた。
ねぇ、あなたもそう思わない?
私は夜空に向けてそっと呟く。
誰かからの言伝のように、星とカメラが一瞬キラリと瞬いた。
雑学を種に百篇の話を一日一話ずつ投稿します。
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