3.招かれざる客
がしゃん! と大きな音がする。
見れば、母が……手にした食器を台所に落っことしていた。
「ま、マルゥ……」
父がおろおろと名を呼んでいる。
しかし母は意に介さず、俺のことを振り向いた。
普段は温厚でぽややんとした母が、鋭い目をして口元を引き結んでいると……わりと迫力がある。
だが俺も譲るつもりはないのだ。その場でどっしりと仁王立ちし、続けて言う。
「今日は春月の二十七日。四日後は花月の一日、つまり俺の十六歳の誕生日だ」
「……ええ、そうね」
「十六歳は成人年だ。前にも約束した通り、俺は十六歳になったら旅立つよ」
約束、という言葉に母はむっ……とひときわ、目線を険しくする。
間に挟まれた父はおろおろそわそわと、俺と母の間で視線を行ったり来たりさせている。
「そういう勝手な約束をしたのはお父さんよ。お母さんは何度も言ったけど断固反対してます」
「何言ってんだよ、母さんだって十四歳でスフを旅立ったんだろ?」
「それは――だって、時代がもう違うもの。戦える人が居なかったから、お母さんが頑張るしかなかったの」
「俺は広い世界が見たいんだ。だから――」
「やだやだやだ!」
突然、母が大きな声を出した。
俺が驚いている間に、瞬間移動かと疑うほどの速度で接近してきた母が「ぎゅうう!」と音が出るほど俺のことを強く抱きしめる。
いろんな圧迫感で潰れそうだった。でも何にも嬉しくは無い。だって実の母親だし。
「絶対、やだ! こんなに可愛いマオがお家を出るなんてやだ! お母さんは許しませーん!」
「ちょ、ちょっと母さん」
「その呼び方もイヤ! ほんの数年前はママって呼んでくれたのにぃ! ママ、ママぁってよちよち歩いてきて、とってもキュートだったのにぃ!」
「いつの話だそれ!? 恥ずかしいからやめてくれ!!」
いそ……〇〇歳近い年齢だというのに、愛くるしい子犬のようにわめき立てる母親。
ぽろぽろと涙まで流す母の姿に俺はすっかり参ってしまった。さすがにこんな状態の母を説得できる自信はない。
そんな俺たちの様子を眺めていた父が苦笑する。
「ラウも「冒険者王に俺はなる」とか言って、畑を残して家を出て行っちゃっただろ? 母さん、寂しいんだよ」
「そりゃわかるけど……世はまさに大冒険者時代だから。むしろ、よくここまで待ったと自分を褒めたいくらいっていうか」
「そうだよな。マオと同じ年代の子たちは、みんなスフを出て行っちゃったもんなぁ」
その通り。
全世界の人々……ならぬスフの少年少女たちも、早くて三年前、遅くても一年前には旅立っている。
今頃はきっとみんな、王都の近くで仕事をしていたり、あるいはダンジョンに潜って冒険の日々を過ごしているのだろう。
中にはガル魔国に渡っているヤツだって居るかもしれない。そう考えると俺は羨ましさや焦りやらで、居てもたっても居られない気分になってくる。
早く自分もその世界に踏み出したい。
勇者が駆け抜けたというその世界を、知ってみたい。……それでも寂しいという母の感情を考慮し、成人するまでは実家の畑仕事を手伝うと決めたのだ。
「大丈夫だ、四日後にはマルゥも笑顔でお前を送り出す。オレも説得するからな」
そう親指を立ててくる父だったが……俺はいまいちその言葉を信用できなかった。
この人いつも年下の母さんにデレデレしっぱなしだもんな……。最終的には手の平返しでふたりとも俺の前に立ちはだかる可能性だってある。油断はできなかった。
+ + +
そうして三日が経った。
嵐の前の静けさと言わんばかりのいつも通りの日々が続いていた。
明日には、俺は冒険者としてスフを旅立つ。
そのときを思うとワクワクが止まらなかった。
「えーっと、服はコレだな。それに荷物は魔法鞄に詰めてあるけど、念のためもう一度確認するか。持って行くのはこっちの……」
わざわざ声に出して、一ヶ月前に済ませてある荷物の確認までしちゃうくらいだ。
遠足の前日か? ってくらいの痛々しい浮かれっぷりだが、それくらい楽しみなんだから仕方が無い。
そんな気分にふと、水を差すみたいに。
――リンリーン、と涼やかな音が鳴る。
玄関口にあるベルの音だ。
俺は顔を上げた。誰だこんな朝っぱらから?
父母は畑に出ているので、来客対応は俺に一任されている。
荷物を置いて、俺は自室を出た。階段を下りる間にも、まだベルの音が数秒おきにきこえてくる。
「はいはーい。そんなに急かさなくても、すぐ出ますよって……」
もしや出発を目前に控えた俺へのサプライズ? いや誰からだよ?
自分に自分でツッこんでおいて、呑気にドアを開ける。
そして俺はびっくりした。
玄関の前に突っ立っていたのが、ぼろぼろの外套を頭の上から被った不審者だったからだ。
背が高いから……たぶん男性、だろうか。
しかし性別さえも、一目で判別することはできなかった。顔はモチロン、服装や体格もしっかりと外套に覆われているからだ。まるで自分の外見的特徴を、誰にも知られたくないというように。
困惑した俺はその人物の顔のあたりを、頼りなく見上げた。
フードの合間からほんの僅かに、ストレートの銀髪が覗いていた。
「あ……」
低い、だがよく通る声が呼気を洩らし、俺はふと状況を思い返した。
面食らってまじまじと見てしまったが、よく考えれば失礼だ。家を訪ねてきたということは、父母の知り合いかもしれないのに。
「すみません。どちら様でしょう?」
「あ……、あ……」
「え、えっと……?」
だが何故かその人物は、小刻みに震えるばかりで意味のある言葉を発さない。
かと思えばブルブルと震える両手を、俺に向かって差し出してきた。
外套から出てきた、おそろしく白い両手!
「ひっ!?」
不気味に感じて思わず後退る。
しかしそれは失敗だった。その人物は俺に引き寄せられるようにずるずると、前方に――つまり家の中にまで入ってきてしまったのだ。
反射的に悲鳴を上げそうになる。
「ご、ごめんください! 違ったごめんなさい! どなたでしょう父母の知り合いの方でしょうか!?」
「ああ……あ……!」
駄目だ言葉が通じてねぇ! 何だこの人!
狼狽える間にも、どんどん距離は詰められていく。全身からいやな汗が噴き出てくる。
「あわ、あわわ……」
パニクった俺は周囲を見回す。
何でかは分からないがどうにかしないと。
何か無いか、この危機的状況を脱するための何か――そこで俺の目に止まったのは、机の上に置かれた透明な花瓶だった。
毎週、母が中身の花を取り替えている花瓶には偶然にも、今は水だけがたっぷりと入っている。たぶん今朝入れ替えようとして、途中で忘れていたのだろう。
これだ!
俺は手を伸ばし花瓶を掴む。
中身の水を床に撒こうとしたら、近づいてきた不審人物に驚いてその頭目掛けてぶちまけてしまった。
バシャッ! と勢いよく外套が濡れていく。
さすがに驚いたのか、相手が立ち止まった。……顔の血の気がサァと引く。
……お、怒らせた、かも?
「ごっ、ゴメンナサイ! ――ウンディーネ!」
いろんな謝罪を含めて、俺は叫ぶ。
それとほぼ同時、床に飛び散った僅かな水滴から――にょきっ、と透明な腕が生える。
床下を通過してきたみたいに目の前に現れたのは、全身水浸しの身体で形成された人ならざる者――その名も水魚精霊だ。
『……? ……っ!』
指の間がヒレのように繋がっていて、大きな尾びれのある魚のような出で立ち。
縦に異様に長い水色の瞳孔が見開かれ、俺のことをうれしそうに見つめている。
人ならざるものである精霊は、言葉を発さない。
だが、たぶん「やあやあ」とか「こんにちは」とか、「今日は何をする?」とかそういう具合の顔つき。付き合いも長いので、それくらいのことは分かる。
でも――
「そして悪いウンディーネ! その人をしばらく穏便に食い止めておいてくれー!」
『……っ……?!』
明らかに愕然としている水魚精霊を置いて、俺は全力で家を飛び出した。
単純な攻撃魔法とは違って、召喚した精霊は、俺が命令しない限りは誰かに怪我するような危害は加えない。
穏便に、と言った以上、たぶん緩い水魔法で拘束するとかその程度の扱いをしておいてくれるはずだ。
しかし強力な触媒で喚び出したわけではないので、数分もすれば精霊は姿を消してしまう。
そうなればあの人物は自由に動き回れてしまう。家を空けるのは正直、心配だったが……家に置いてある金目のモノは書斎の魔術書くらいだ。それに強盗にあの本たちの価値は理解できまい。
それよりも父と母ならまず、俺の命を心配してくれるはず。畑に出ているふたりにこの事態を伝えればひとまず安心だ。
ブランクが長いとはいえ"闘争王"と"聖女"。
これを相手取るには、かつての魔王デスティアだって苦労するハズ――。
「……って、えぇ!?」
何とはなしに振り向いた俺は、唖然としてしまった。
たった今、家の中に置き去りにしてきたはずの外套不審者が――俺を追ってきている!
な、何で? どうやって?
上級精霊の水魚精霊を振り切るなんてこと、そんじょそこらの人間には出来ないはずなのに……。
手加減しすぎてしまったとか? などと、悠長に考えている暇はなかった。
「ま、マオー……! マオー……!」
「うわわわ!?」
不審者が俺の名前を呼んでいる! しかも繰り返し何度も!
その爛々と輝く瞳――は見えないものの、深くフードを被ったまま、そいつは迷わず俺の後を追っかけてきている。
それにしても、速い。たぶん俺の全力ダッシュよりずっと。
このままじゃ……畑に着く前に追いつかれる。
こんなときに限って村を歩く人影もひとつも見当たらないなんて、俺ってばどれだけ運が無いんだ?
「クソッ……」
慌てて作戦変更した俺は、畑に続く一本道ではなく、その脇道へと入った。
そこから更に軽くジャンプし緩い傾斜を飛び越える。
木の葉を隠すなら森の中、ってやつだ。いい加減体力的にもキツいし、しばらく隠れてやり過ごそう。
スフは山と森という大自然に囲まれた土地で、村の東にあるこの森で俺はしょっちゅう魔法の練習なんかをしている。
本当は森に入るのは危ないと母には禁止されているのだが……俺にとっては自分の庭みたいなもんだ。
後ろを気にしつつ大木の影――ではなく、鬱蒼と広がる茂みを掻き分け、そこに全身を隠す。
あの外套がついてきているか。それは気になるが今は気配を消すのに専念すべきだ。物音を立てたら今度こそ終わりかもしれない。
……そうして息を殺す。森の気配と同化するみたいに。
自分という存在を静かに、自然界の中に落とし込んでいくのだ。
『フキュッ! フキュキュー!』
「(そうそう、フキュキュー……って。……は――?)」
何だ、今の声?
疑問に思って首を回し……俺は背筋を凍らせた。
目の前を、凶暴兎の群れが歩いていた。